2.心のコンパス
「みんな行ってるし、やっぱ大学受験のための勉強しなきゃと思うから、俺も塾に行こうと思ってさぁ…ねぇ母さん…」
周りの仲間と比べたら全然早くはないが、なぜだか、この決断は早かった。とりあえず、お金がかかることなので、両親に了解をもらう行動に出たのだ。
「…で、どこの塾に行くの?実績はあるの?何教科?いくらなの?」
親として当たり前の確認事項は、すべて漏れなくチラシに網羅されている。母さんにはチラシを渡すだけの説明で十分だった。
「これ。ここに出てる」
自分の口は動かさずにチラシに印刷された活字に沿って指を動かした。
「ふーん。ん…うん。一機にやる気があるなら反対はしないけど……。でも、これ、ここ、大丈夫?」
母さんが指した指先を覗きこむように見ると、
『~未来塾は決して騙しません~』
という言葉が……。自分には、何も疑いのない、むしろ心強い言葉が書かれていた。しかし、母さんにとっては、大人のカンというものがあるのか、何かうさんくさいような悪徳商法みたいな、言葉の裏側を想像するに値する表現だったようだ。
自分は何も気にもかけなかった言葉だけど、そう言われれば、怪しいかもしれない。……というのも、他の塾の勧誘チラシには、必ずと言っていいほど、受講生の合格体験記や合格実績が記載されているのが普通。けれど、未来塾のチラシの中には、それが全く無い。その代りに、塾の先生だか、卒塾生だか分からないが、どう見ても大人の人物の写真と未来塾への感謝のメッセージがいくつか掲載されているだけだった。
「順二くんの塾はどうなの?」
予想していた言葉が母さんの口から流れ出た。
流れは予想はしていたけど、あまり言われたくなかった言葉だった。なぜなら、二刀流をこなしてきたスーパースターの順二は、部活を引退してからは、一流難関大学へ向けて受験勉強の一刀流。そして、順二の通っている進学塾は、難関大学への合格者実績が9年連続で県内ナンバーワンの実績をもつ名門進学塾なのだ。サッカーで言えば、各国のスター選手を集める欧州の名門クラブだ。そこにサッカーを知らない丸刈りの少年が野球のグラブを持って入団するようなもの。学校の勉強しか知らない、平凡極まりない自分が、今さらそんなスター選手と一緒に足並みを揃えることなんか、できるわけがないと思ったからだ。
もう一つ、言われたくない決定的な理由があった。それは、自分のやるべきことについて、誰からも勧められたくなかったのだ。一機はこれまでの幼少時代、習い事の水泳、そろばん、そして少年野球、また、中学の部活や高校受験など、多くの選択肢を親や周りの友達から提供されて、その勧めに従ってきただけ。ようやく高3の今になって、親の言いなりにはならない、友達と同じようにはならない……と、プチ反抗期の訪れと自立心のきざしを自分の心の中に感じとっていたのだった。
「未来塾でいいよ。どこの塾でも、やることはきっと同じでしょ。結局、自分のやる気しだいでしょ。もし、未来塾が合わなかったら、また別の方法を考えればいいよ。自分で決めたことなら、後悔しないよ」
母さんは、プチ成長を感じとったのか、自立への第一歩とみたのか、少し間をおいて、
「いいよ。わかった。心のコンパスを信じることも大切だよね。頑張ってね」
と背中を押してくれたのだった。まさか、この時、心のコンパスの針が、自分の将来を大きく左右する方向を指していたとは、思いもよらなかった。
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