第76話 裏カウント⑫
ここに時間など存在しない。故に未来も過去もありはしない。
知覚としてのそれは、己が生命か否か、ただそれだけの問題である。
ブルーバード:(verification)量子コンピュータ(Selenium condition is normal)
(multi)210000÷*0.113*(probability)=レジスタンス(確定)
「はぁはぁ」
男は乱れた息を整えている。
シャァァァリィィィン……金属の擦れる音が周囲に響く。
剣を一振り、縦に裂いた音であった。
元より、そのような使途の剣である。
まるで双子のように同じである二本の剣の内の一本を、セレンは男が跪く目の前に放り投げた。
「ん? なんだ」男が眉根をあげる。「
「普段は一本で使うのですが、相手が武器を所有していない場合、薄刃に分け相手に渡します。二本の柳の老木もしくは二匹の白狐が如く均質です。あなたには少々軽いかもしれませんが、そこはご容赦を」
「あは。もしかしてフェアな決闘のつもりか? 馬鹿馬鹿しい。グラディエーターと正面切って勝てると期待するほど、俺は楽観主義者じゃない」
「私は一度も若返ってはいません。生まれて二十年弱。強さはたかがしれています」
「ふ~ん。だとしたら甘いな。甘ちゃん過ぎる」
ジャリッと地面をなじり立ち上がるついでに、男は剣を拾い上げた。
「ブルーバードの解析によればあなたが直接的に誰かを殺害した事実はない。但し、レジスタンスとして、マザーAIを破壊しようと工作していることは確かなようです。なので決闘の末にあなたが勝てば逃げるチャンスを与える。見てのとおり私以外は、老人と猫と青い鳥だけ。ポリス権限を所有するのは私だけなので拘束も不可能……あ、但し仲間に危害を加えようとしたなら、ブルーバードは正当防衛としてあなたを焼き殺します……」
バックステップ。まだ言い終わらないうちに、男は後ろに飛び距離を取った。
けど男から襲ってくる気配はない。セレンは不思議そうに首をかしげ尋ねる。
「なぜマザーAIを破壊しようとするの? それなくして人は生きてゆけないのに。そもそも今や雲の上にある存在で……地上だけではなく地下空間で暮らす人の中にも絶えず癌細胞のようにレジスタンスなるものが出現し醸成されるのか、その仕組みが不思議でしょうがないのです」
「不可能だと考えるならそうだね。だけどたとえば、――とてつもなく強靱な素材。電磁波の特殊な波。莫大を
「答えになってません。聴いているのは自殺に近い行為をなぜあなた方が行うのか」
「こんな地下の片隅で、議論なんかしても平行線だろう。無意味だ。お互いに信念をもって生きている。それでいいじゃないか。俺に言わせれば、丸腰の相手にわざわざ武器を与えて公平に戦いましょうなんてリスクを犯す君の方がとても謎めいている」
男はおっとりと剣を真横に構えた。なにやら様になっている。
「先程の言葉に嘘はありません。私も命をかけています。永遠に生きるにしろ、消滅するにせよ、疑問が残ることは遣り切れないのです」
相手の力量が尋常ではないことを悟ったセレンも下段に構えた。
ふふふ。男は片手を額にあて薄く笑った。
「お嬢さん。地球がどうして寒冷化したか勉強したかい?」
「? 隕石の衝突を回避するために月を失ったからでしょう」
「うん。正解。なんだけど、それは本当だろうか? まあ、嘘である証拠もいまさら探しようもないのだけれど……地球に近づき地表まで落下する隕石は年間10数個。
大抵は木星の巨大な引力に引き寄せられる。5㎞級になると1000万年に一個さ。まして大量絶滅を引き起こす10㎞級となれば、一億年に……ふ、議論しちまってる」
男はまた笑い、セレンも再び首をかしげた。
「得るものと失うものを天秤にかけて道を選択することは正しい。だけどそれが嘘の上に成り立つなら、それは
男はとても難解な物言いをする。言外にそれだけではないなにかを伝えようとしているかのようだった。永遠の意味。セレンを見てるようで見てはいない。
※
「乗馬が好き。音楽を聴くのも好きだ。でもあっちで家族は作らない。教授がいる。テルルもブルーバードもいる」
「そうかのぅ。仮想現実もまた一つの人生。そう頑なに考えなくて良さそうじゃが」
「私が頑固なのは教授が一番よく知っているだろう」
「ふむ。もう少しちゃらんぽらんに育てた方が良かったじゃろうか」
「そんなことはない。信念を持つとは、そう言うことだ。教授が最初に教えてくれたことだぞ。それに私が頑固だからって、教授は私の手を離したりはしないだろう」
「ふむ」
教授はそっとセレンの亜麻色の髪に手を置いた。
「だけど……」
「ふむ?」
「あの人は斬り合いで踏み込む瞬間、躊躇したように思う」
「うむ……」
「なんの訓練も受けていないのに、それがなければ私が殺されていたかもしれない。あの人は強かった。そしてとてもいい人だったのかもしれない」
「気に病むことはない。相手にも剣を渡しての正当なジャッジメントです」
「うん。だけど……」
ふたり並んで座る場所からセレンは立ち上がり、モニターに映る空を見上げた。
「いつか私のような存在がなくなる日がくればいいな」
「……無論です」
「目立つから嫌いだ。この赤い
「ふむ……セレン様。そうのぅ……今の暮らしは、辛くはないかのぅ?」
「辛い? 辛いとは思わない。これが私のエートスだから。だけど……」
セレンは一度、大きく背伸びした。
「心に描くことはある。教授がいつか話してくれた物語。私は女の子だから、やはりヒーローは男の子がいいな。賢く勇敢で……神様みたいに傲慢じゃなくて格好良くて優しくて、誰の心の闇も迷いなく、胸がすくように照らし輝く、太陽みたいな……」
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