第72話
さて……、「エジプトに来たら引っ掻いてやるからねっ!」改札を抜けるなりそう宣言された。ここから距離も近いので、今夜はエジプトで一泊する予定だったのだがテルルおばさんは猫のくせに犬歯を剥き出して、エスパーのようにこちらが提案する前に拒絶してきた。
老いぼれた姿を見られるのそんなに嫌? 初恋相手との旧交を温めることもなく、バルーンで移動しながら、仕方なしに今宵はその中で一泊することとなった。
バルーンに乗り込めば、「やれやれこれでゆっくりできる」ブルーバードは鳥籠に引き籠もり、猫は荷台で丸くなる。エジプトにいるおばさんの本体は優雅にワインを飲んでいるようだ。教授はと見れば、糸の切れたマリオネットみたいに椅子に座って固まり微動だにしない。起きているのか寝てるのか? 手を振っても反応がない。
「はぁ~~~」俺のため息と呼応してバルーンはゆっくり上昇してゆく。
車中で一泊するので、あえて超低速に設定した。移動で疲れるなんてナンセンス。
寝て起きたら、翌朝の7時にはバクー近くのピンクタワーに到達する予定である。
寂しい限り……折角の団体旅行なのにてんでばらばら。メンバーは確固たる独自の世界観ならぬ自分感を持ち合わせてる。誰も雑談には付き合ってくれそうもないので俺は、サスペンス映画で部屋の暗闇に浮かび上がるスノードームのように、ほの暗い宇宙に突如現れたであろうバルーンの中で、独り物思いにふける。
今日、地下空間に出向いて改めて認識した。
やはりこの世界の主役は地下だ。もっとも人間に相応しい環境で暮らしている。
海中都市も同様で、大部分の人間は安定した地下や海の中で環境に満足して文句も言わず人類という生命を維持している。地上に住む人間は極めて少数派の変わり者で
俺はやはり、かなりマイナーな環境で育ったのだと思う。
眼下には夜のパレードが煌き流れている。あまりに低速に設定したので、まだ ――
彼らは身勝手でモニターに映る太陽では満足しない。そして本物を求めながら一方ではマザーAIの庇護を享受し、現実を遊び、
やがて白い夜が訪れる。しかしそれも半時間ほどで立ち去った。夜も更け、星空にオーロラが揺れる景色に、タイミングよく街から花火が打ち上がる。花火こそ総じて人類の共通言語であるから、余りに普遍的過ぎて一体なんの世界観かはわからない。
少なくともそこは漠なる大地。太陽が通過するリニアと永久凍土の端境にある地。
彼らはもっと変わり者だ。つまりはそれは自分自身のことでもあるのだけれども。
建前上はマザーAIを拒絶している。確かに科学が進むほど複雑な機械は必要なく全てはシンプルになる。けれども彼らのそれはそんな未来志向とは裏腹のかけ離れた退化とも呼ぶべき原始的な立ち振る舞いで、本当の所はそれがまやかしの仮想現実となんら変わらぬイミテーションであることを知りつつ、敢えて目を瞑っている。
まるで人類の成り立ちを大凡知っていながら『旧約聖書』のアダムとイブの物語を信じ込むように、狡く、賢く、小器用に両立させているのだ。
だが皮肉なことに彼らのその
……いや、偶然なんてことはあり得ない。想定外などあるだろうか?
それさえも計算の内。謂わば、マザーAIの深遠なる策略ともいえる。
バルーンは静止しているようで、だがある瞬間、外気だけが固く引き締まる感覚を覚えた。景色は変わらずとも、移動はしていた。無論、自動調整された内部の気温にその変化はないが、どうやら永久凍土の領域までは無事に辿り着けたようである。
それと同時にふと、死の確率が極小であろうとそれがゼロではない限り、
漠なる大地に住む人間に架空の世界感がどうして必要なのか? 死への恐怖が神を作り出したのならなぜ未だそれを信じようとする? 輝く太陽の下で仮想現実の夢を
………………ふっ、俺はまったくつまらないことばかりを夢想してしまう。
この世界の
だけど俺は死なない。俺は永遠を生き続けるつもりで、それには硝子のように脆くとも美しくなければならない。そう在らねばならない。そのことこそ大切なんだ。
夢想などする前に、俺は俺の問題を解決する必要がある。だから俺は家出をして、こうして旅に出ている。漠なる大地育ち。スチームパンクシティーの嘘のない流儀で生きてゆくために。
そう。俺はいつも心の中で叫んでいる。あの夏の日から。
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