贖罪④
ナオは拒否反応を示すように、響のスマートフォンから離れた。
その気持ちはなんとなく分かる。信用できないとばかりに目を細め、
「おい、ヨダ」
「お前、こんなのを信用してるのか? やばくない?」
「うん。でも、あの家にいるほうがもっとやばい」
「あはははは! ナイス正論!」
響が機嫌よく背中を叩いてくるが、兄の不信感はまだ拭えなさそうだ。
眉間にしわを寄せ、呆れるようにため息を吐き出すナオは、次に響を見やった。
「響はまだいいとして、俺は会ってもいない人間に甘えて尻尾を振るようなことはしたくねぇ。もちろん、助けてほしいなんて思ってない。身内のあと始末くらいはやってやる」
『そうは言うけど、結局、君は弟を置き去りにして逃げたわけでしょ。本当なら、弟も連れて逃げたかったんじゃない?』
我竜の声に、ナオは
『実際、学費や生活費は親に払ってもらってるんだよね? だから
「……まぁ、金のことは自分じゃどうにもならないし。でも、
『おぉ、ここまでくるといっそ
兄の
「会ってもないのに、なんでそんなことが分かるんだ」
もはやふてくされたような言い方だ。
まるで、この前までの自分を見ているようだと与鷹は呆れた。こんな風に響や町田、我竜を遠ざけようとしていたと気付き、心の中で「ごめんなさい」とつぶやく。
「輝先輩はね、人の心が読めるんだよ」
答えたのは響だった。ナオの目が開き、機嫌の悪い眉がさらにしわを寄せていく。
「さすがに笑えねーよ」
『響、そんな言い方をしたら、まるで僕が超能力者みたいだ』
我竜も穏やかに訂正をうながした。これに響は納得いかず、眉をつり上げる。
「はぁ? だってそうでしょ!」
『ひとの心なんてものは分析次第でおおよその推測ができるものなんだ。相手のある程度の心理状態を把握していれば、簡単に操作だってできる。それがちょっと得意なだけ』
響の信頼も考えものだ。我竜が慌てて説明すると、ナオは頭を抱えつつも納得した。
「じゃあ、俺の発言から分析したってわけ?」
『そういうこと』
「……ふーん」
石頭ではないらしい。しかし、これが信用の糸口になるわけではない。
ナオはいまだに警戒心あらわに、腕を組んでスマートフォンを睨んでいた。そして、ちらりと与鷹を見る。
「そんな
「違う!」
「お前は騙されやすいからなぁ。そう簡単に助けてもらえるなんて思うなよ」
「兄ちゃんは、ひとを信用しなさすぎだよ」
「他人なんか信用できるかよ。だって、今まで誰も助けてくれなかったじゃねぇか。父さんでさえ、頼りにならない。そんな最悪な環境下にいて、いまさら誰を信じるっていうんだよ。バカバカしい」
「でも」
「それに、俺たちを助けて、そっちになんのメリットがあるんだよ。自己満足に浸りたいなら
与鷹は思わず手を伸ばした。間に
「ヨダ!」
響がすぐに間に入った。弟の震える手を、ナオはあっさりと剥がし、
もう本当に修復不可能なのか。そんなのは絶対に嫌だ。
「俺は、誰も信じないからな」
思いに反して、ナオの言葉が追い打ちをかけてくる。
「絶対に信じない。いまさら、誰も信じられない……無理だよ。もう遅い」
絞り出すような声に、与鷹は心がぐらついた。ゆだった頭が一気に冷めていき、足元もおぼつかなくなる。
しかし、心の底では分かっていたもので、兄の言葉を借りて言うのなら「いまさら」な結論だ。
響だけが冷静でいられず、スマートフォンを握りつぶす勢いで食い下がる。
「なんとかならないの?」
「響ねーちゃん、もういいよ」
「良くない! 何も良くない!」
「人生、諦めが
ナオも
「まぁ、無駄に熱い精神論でどうにかなる問題なら、とっくに解決してるはずだしさ。お手上げってことで。そろそろ解散しようぜ」
ナオの言葉に、与鷹の希望は消沈した。わずかに期待したものが、一気に消え去ったように思う。夢から
やっぱり、どうにもならないものらしい。悔しい。悔しくて腹立たしい。目頭が急激に熱くなった。心に穴が空いていく。がらんどうな穴へどんどん隙間風が入り込み、その冷たさに震えた。
「――先輩……」
響の手にあるスマートフォンに、与鷹はすがった。
「先輩、助けて。助けてください」
この際、なりふりかまっていられない。「助けて」という合言葉を使えば助けてくれる。子どもだましみたいな、まやかしでもいいから、救いを求めたい。そうでもしないと、この真っ暗闇の現実に
しばらく、画面の奥で我竜は黙り込んでいた。響もナオも息を飲んで黙っている。双方、同じ感情ではなさそうだが、ことのなりゆきを見守っていた。
『わかった』
気休めでもなんでもない、確かな声が返ってくる。響の顔がほころび、一方でナオは不機嫌に鼻を鳴らした。
「簡単に引き受けるんだ。どうかしてる」
『君よりはずっと正気だよ』
適当にあしらってくる。ナオはますます
「情けないなぁ、お前。他人に助けを求めるとか、ほんと恥ずかしいヤツ」
「それでもいいよ。一人で悩むよりもマシだ」
負けじと言い返してやれば、兄は口の端を引きつらせた。
「あっそ。それじゃあ、好きにすれば? あとで大損食らっても知らねーからな」
吐き捨てるような言葉は、自分よりも子どもじみているように思えた。これを笑ったのは我竜だった。
『大損食らうかどうかは分からないけど、ここは一つ、僕に
これにナオは不快な表情を浮かべた。いまにも殴りかかってきそうな形相だが、彼はポケットに手を突っ込んだままでいた。ソファから立ち上がる。
「大人のくせにしょうもないことするんだな」
『残念ながら、僕は大人じゃないんだ。大きな子どもみたいなものだよ』
「
『それは世間が決めたことであって、僕が決めたわけじゃない』
「はぁ……」
議論するのも面倒になってきたのか、ナオは黙ってしまった。これを響がニンマリと勝ち誇っている。
「輝先輩に口で勝とうなんて無理だよ」
「みたいだな。あーあ、くだらね。もういい加減に解放してくれない?」
「いいや、そういうわけにはいかない!」
言ったのは響だった。ナオの腕をがっしりつかむ。
「いや、もういいだろ。話は済んだし。帰れよ」
「帰りません! あんたたち兄弟が喧嘩したままだったらモヤモヤする!」
「お前の都合じゃねーか。そういうのがウザいって言ってんだろ」
「いいから、あたしの話を聞け!」
『あはは。それじゃあ、そっちは響に任せるよー』
スマートフォンから我竜の楽観的な声が上がる。彼は「じゃあね」と一方的に通話を切った。
これでは、響の暴走を止める人がいない。与鷹はソファに深く座り込んだ。ここはもうおとなしくしておくほうが吉だ。
響とナオはしばらく「帰れ」と「帰らん」の
こんな風景を見るのは、小学生以来だった。どちらも昔とは変わってしまったと思っていたが、根っこは変わらないのだろう。
「あーもう、本当にウザい! 分かったよ! 聞くから、
どうやら根負けしたのはナオの方らしい。響の手を払い、ソファに座り直す。
「で、お前の話はなんなんだよ。三十文字以内で簡潔に頼む」
「あたしの長い長い物語は三十文字程度に収まらん」
あっさりと条件をはねのける響。この
ナオは疲れた息を吐いた。もうなんでもいいから、さっさと話せ、と表情だけで物語っている。
「それじゃあ、
何やら厳かな口上を述べている。それから響は
「ナオは知ってるだろうと思うけど、中学のとき、私は学校でいじめを受けてたんだ」
言葉は意外と軽くしっとりとしたもので、しかし言葉の意味を処理した途端、与鷹の顔は引きつった。
ナオは「あぁ」と思い当たるように頷いている。そんな二人を交互に見やり、与鷹は困惑にうめいた。なんとなく予想はついていたが、いざ突きつけられると
「なんか、あたしにもプライドがあったんだよ。クソみたいに狭苦しいプライドがさ」
自嘲気味な響を見るのが痛々しい。ナオもつーんとしているが、気まずそうに爪をいじっている。
「あたしが三年生のとき、ナオは一年生だった。ヨダが小五だったよね。小学生に話すようなことじゃなかったんだよ」
先日、我竜が図解したあの話はやはり響のことだった。あの時、彼女の顔色は悪かった。それを今は淡々と告白していく。
「まぁ、なんていうかね。クラスで浮いてたんだ。ほら、教室のノリってたまに
聞いてみれば、なんとなく想像がついた。響がそういう異様な空気を許せないのも分かるが、それじゃあ自分はどうだと思い返してみれば――異様な空気に馴染んでいる。笑って空気に溶け込んでいる。響はそれが許せない。
同時に、今朝の町田の話も思い出した。彼女も小学生のときは空気に馴染む子どもだったらしいが、それを嫌っている。似た者同士だから仲がいいのだろう。
「空気を読めば良かった。そうすれば、みんなと仲良くできた。でも、それができなかった。この空気を厳しく怒ったら、すぐにクラスから追放されちゃった。机を廊下に置かれたり、トークアプリで
いくら正義感が強くても、自分は悪くないと言い聞かせても、周囲の目は日に日に攻撃的になる。
悪くないのに、間違ったことをしていないのに「悪」であると決めつけられれば、今度は自分を疑いたくなる。
「あたしが悪いんだって諦めた。誰も信じられなくて、学校にも行けなくなった。二人のことも遠ざけて、家にこもるようになった。ナオの言うとおり、信じていたものが敵にまわると、もう誰も信用できない」
だからね、と彼女は小さく続ける。
「二人の気持ちがわかるなんて、そんな偉そうなことは言えないけど、傷ついたときの痛みは知ってる。だから、あたしは、大事なひとたちが傷つくことに耐えられない」
響の
与鷹は息をするのも忘れて、横に座る響を見つめた。彼女は髪の毛に隠れて、鼻をすすっている。
「三人でよく遊んだじゃない? お互いの家に行ってお
だんだん声が震えた。響は本当に泣き虫で、感情が走りやすい。
それを慰めることができず、与鷹は膝の上で拳を握るしかできなかった。ナオを見ると、こちらは信じられないことに冷めた目を向けていた。
「……えーっと。
あまりの暴言に
「ですよねー。ほんとその通りなんだけど。あたしだって恥ずかしいから、先輩と町田にしか言ってないわ」
「言ってんのかよ! つーか、町田って誰だ! ベラベラしゃべるんじゃねーよ!」
「町田はあたしの親友だよ」
響は威張って言うが、これには与鷹も頭を抱えた。あの部室で言われてたら、これと同じ暴言でごまかしたかもしれない。
響は目尻に溜まった涙を指ですくい、クスクスと笑いを押し殺しながら早口に言った。
「まぁまぁ。そういうことがあってだね、高校も適当に通ってたわけさ。そんで、大学進学もふらっと適当に決めたわけなんだけど、輝先輩に出会って、町田に出会って、居場所をつくってもらえて。ようやく自信がついたとこだったんだよ。あたしは、二人に助けられた。だから、今度はあたしが助ける番ってこと! 以上!」
「そんな話でほだされると思ったら大間違いだからな」
ナオは最後まで頑固だった。
ここまでくると、響も諦めのため息を吐く。
「まぁねぇ……私も正直、難しいなぁって思ったよ。ナオはもう無理そうだから諦めよっか」
「………」
「ん? あれれぇ? おかしいなぁ? 誰も信じないってあんだけ
「うるせー。困ってねぇっつってんだろ」
「素直じゃないねぇ。まったく、兄弟そろって
響は背もたれに体を預けた。柔らかいソファに埋まっていく。そんな彼女に訴えようと、与鷹は唇を尖らせた。
「兄ちゃんと一緒にしないで」
「いや、ヨダだって最初はこんなだったよ。『助けて』がろくに言えなかったじゃない」
こう言われてしまえばぐうの音も出ない。ナオを見れば、こちらは無愛想に爪をいじっていた。そして、小声でボソボソとつぶやく。
「助けてって言えなかったのは響もだった」
「うん。そうだね……あの時は、ごめんね、ナオ」
なんだか含むような言い方をする二人に、与鷹はついていけない。どうにも、二人の中でしか分からない空気感がある。
「……もういいよ。響が楽しいんなら、それでいい」
やがて出たナオの声は諦めが浮かんでいる。そして、意地悪そうに唇をめくって笑った。
「せいぜい、あの『彼氏』とお幸せに」
「あー、ははは……そうなることを私も願ってる……」
響の声は打って変わってテンションが低い。蚊帳の外の与鷹だったが、どうにも
***
なんだかんだ文句を言いながらも、ナオは駐車場スペースまで見送ってくれた。
響が車に乗り込み、エアコンを入れて車内を冷やしている間、与鷹は兄と二人で自販機を眺めていた。
「……コーラ飲みたい」
気まずいので、つい言ってみると、ナオはポケットを探ってコインケースを出した。小さく黒いケースは、確か入学祝いで父からこっそり
じっと見つめていると、ナオは素早く硬貨を取り、ポケットにしまう。勝手にコーラのボタンを押して、無愛想に差し出してきた。
「ありがとう」
「そんなのでいいなら」
言葉は続かない。ナオは口を閉じてしまい、自分はコーヒーの缶を選んだ。乱暴な音が鳴り、拾い上げる。小さなアルミ缶のプルタブを開けると、プシュッと気が抜ける音がした。そのおかげで、なんだか張り詰めていた空気が消えた気がした。
「兄ちゃん」
「ん?」
「たまには帰ってこい」
強い口調で言ってみた。様子を窺うと、ナオは渋い顔つきでコーヒーを飲む。答えは聞けそうにない。
与鷹は、パーカーのポケットに押し込んでいたものを引っ張り出した。白く細い封筒を二つ折りにしたもの。これは昨日に我竜から預かったものだった。中身は見ていない。黙って差し出すと、ナオは反射的に受け取った。
「何これ?」
「先輩から兄ちゃんに。返品はきかないってさ」
「ふうん?」
「捨てるなよ」
念を押して言うと、ナオはうるさそうに顔をしかめながらズボンのポケットに突っ込んだ。
それから、コーヒーを一気に飲み干してゴミ箱に放り込む。同時に響からクラクションを鳴らされた。ナオが与鷹の肩をつかんで、強引に車まで押しやる。
「じゃあな、ヨダ」
別れの言葉はそっけない。与鷹は
「じゃあな」
響の車に逃げ込んだ。
「ナオ、なんだって?」
すぐに響が聞いてくる。与鷹はコーラのペットボトルを
「なんにも。ただ、たまには帰ってこいって言っといた」
「そっかー。上出来じゃん」
アクセルを踏み、ゆっくりと駐車場を出て行くと、ナオが小さく手を振った。響が手を振り返す。
「あはは。やっぱりナオは悪ぶってるだけだよ。ほんと、素直じゃない」
バックミラー越しにナオを見ながら、与鷹も吹き出すように笑った。
「あいつさ、あたしがいじめられてるの知って、助けようとしてくれたんだよ」
「あー、そうだろうね。兄ちゃんは、響ねーちゃんのこと好きだし」
「そうそう……って、マジか」
やはり無自覚だったか。アクセルを踏んで前に進みつつも、響は動揺を隠せずに「うわぁ」と落ち込む。
「あらまー、そうだったんだ……あちゃー、あたしったら罪な女」
「自分で言う?」
思わず呆れると、彼女は「あははは!」と豪快に笑った。そんな横顔を見れば、なんだか兄が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます