贖罪③

 ナオはいつもより少し遅めの起床だった。目が覚めて早々にスマートフォンを見る。

 弟の家出から数日が経過したが、あの連絡から情報が途絶えている。もう少しおおごとになるかと期待していたのだが、案外おとなしいので不審に思っていた。

 父に釘を刺したからだとも頷けるが、こうも静かだと拍子抜けだ。それはそれで気楽だが、あとで事件が起きたら困る。

 その焦燥が果たして弟を心配しているのか、自分を心配しているのかはっきりしない。ここ数日は些細ささいなことでいらだつことが多かった。


 望んでもいないのに周囲は勝手に進んでいく。それが嫌で、遠ざけているのに干渉かんしょうしたがる。

 逃げたのに。家族を捨てたはずのに。それなのに、頭をちらつく家族の幻影にまどわされている。

 結局、切っても切れないんだろう。まるで呪いじゃないか。


 勉強する気も起きないので、涼しい快適な部屋でソーシャルゲームを始めた。しかし、早々とライフポイントが切れてしまい、集中力も持続しない。

 暇だ。暇な時間は嫌なことを思い出すので苦手だ。与えられた課題や、ゲームのミッションをこなしていく方が心を乱さなくていい。

 願っていた自由に幾度いくどとなく振り回されていた。


 ――つーか、あの人もバカだよなぁ。あんな嘘を真に受けて。


 すぐにバレるだろうと思った。寮に乗り込んでくれば、事務員に言って警察を呼んでやろうかと企んでいたのに、両親はなかなか尻尾しっぽを出さない。それもまた想定外だったのでイライラの種になる。


 ナオは母の身勝手な暴力の真相を知っていた。心底くだらない理由だ。それを思い返すと吐き気がするので、あまり考えないようにする。

 それでも、走馬灯そうまとうのようにあの地獄じごくがよぎっていく。

 左の手のひらを見てみる。中心に走る亀裂きれつのような白い傷跡きずあとは、いまだに消えてくれない。これを見ると、耳元で母の声が聞こえる気がした。


『あんたなんか、もういらない』


 絶対に聞きたくなかった言葉。

 それを遮ったのは、スマートフォンの通知音だった。


「ん……?」


 響からである。与鷹を匿っているというあの正義感の塊みたいな幼馴染が、今日もめげずに連絡をよこしている。

 無視しようと思ったが、うっかりとその内容に目が留まってしまった。


『いまから学校に突撃するからね!』


 ナオはスマートフォンをベッドの上に放り投げた。これだけ無視してきたのに、どこまでしつこいんだろう。昔よりもお節介せっかいが増している。

 型破かたやぶりで正義感は強い面もあるが、こちらが嫌がればその意図を汲んでくれていたのに。それがどうだろう。強引に学校まで乗り込もうとしている。


 ――響が来たら追い返してもらわないと。


 ともかく、寮の一階にある事務室へ急いだ。

 スウェットのまま慌てて出てきたものだから、帰省していない寮生から不審な目で見られる。それを笑ってごまかし、転げるように階段を降りた。

 玄関ホールの近くを横切る際、外の様子を確認した。誰もいない。セミがうるさい外は熱気がただよっており、その気温を想像してうんざりしながら事務室へ足を向ける。

 すると、寮内に放送のチャイムが鳴った。


『二年B組の有馬那鷹さん。至急、事務室へきてください。ご来客です』


「くそっ。一歩遅かったか……」


 しかも寮内全域に知れ渡る羽目はめになった。さらに気が滅入ってくる。


「あーもう……最悪」


 油断して二度寝なんかしなきゃ良かった。

 そんな小さなことを恨めしく思いながら、ナオは渋々事務室へ向かった。部屋の奥には応接間があり、そこに来客が通される運びだ。

 温かみのある茶色のドアを二度ノックする。「どうぞ」と事務員の声がかかり、ふてぶてしくドアを開けると、まず目に飛び込んできたのは見慣れない灰色の頭だった。


「ナオ! 久しぶり!」


 言わずもがな響である。その横からひょっこりと顔を覗かせるのは、怪訝そうに気まずい微笑びしょうを浮かべた与鷹だった。


 ***


 ナオは黒のスウェット姿で現れた。まさかの寝起き姿の登場で、与鷹はこれを笑っていいやらどうなのか複雑な気持ちになった。寝癖ねぐせまで立っているところ、慌てて来たと見える。

 兄はしかめっ面を隠しもせず、与鷹と響へ怒りを向けていた。


「……そういうことかよ、響」


 ナオはくちびるをめくるように嘲笑を飛ばした。そして、事務員に小さく頭を下げて、ソファにどっかり座る。

 見ない間に、兄の顔つきは少年のあどけなさを失くしていた。足を組んで、響と与鷹を睨みつけてくる。


「で、何? ヨダの無事をわざわざ伝えに来たってわけ?」

「あー、惜しい! それもあるけど、ちょっと違うんだなぁ」


 響は楽しむように笑い、身を乗り出した。それをナオは顔をゆがめて不快をあらわす。


「お節介もここまでくると大概たいがい迷惑だな。いい加減、ガキみたいな正義感の押し売りしないで、もう少し実になることをしたら?」


 こんなに険悪だったろうか、と与鷹は一年半前の記憶を引っ張り出した。

 ナオは響の背中を追いかけている子どもだったように思う。すっかり見違えた兄の姿に違和感を覚え、与鷹の胸中に不安が広がった。

 これには響も苦笑すら出せないようで、唇を舐めたあと、重々しく言った。


「ねぇ、ナオ。私たちが来たのはね、もちろんヨダのこともなんだけど、ナオのためでもあるんだよ」


 努めて優しい響だが、その優しさをナオははねのける。


「俺のため? なんで? 響には関係ないだろ」

「関係あるよ。幼馴染なんだから」

「ウザい。そういうところが嫌われるんじゃねーの? しかもウザさが増してるし」

「おぉう……しょっぱなからグイグイ攻めてくるじゃないの。そっちは毒舌が二割り増しね。いやぁ、元気そうで何よりだわぁ」


 なぜだろう。双方そうほう、バチバチと火花を散らしているように見える。響は笑顔を崩さないまま、与鷹の背中を叩いた。


「よーし、あんたの言いたいことは分かった。それじゃあ、ヨダ、話しておやり。どれほどひどい目に遭ったのかを、このわからず屋のデクノボウに聞かせてあげて」

「えっ」


 思ったよりも本題への流れが早い。この無茶振りはあんまりだ。

 ナオの目はどんよりと暗い。冷たい視線がこちらにかたむき、与鷹は目をそらした。


「えっと……」

「別に話さなくていいよ。見当はついてる」


 口ごもっていると、すぐにナオが言った。まるで言葉を掠めとるように、さらりと。そして、彼はクスリと笑った。不快を誘う嫌な笑い方だった。


「ヨダ。お前、あの人に殺されかけたな?」


 息が詰まった。目をしばたたかせ、兄を凝視ぎょうしする。これにますますナオは愉快な笑いを上げた。それもとびきり性悪しょうわるな笑顔で。


「ははぁ。いやぁ、マジか。お前もそんな目に遭ったのか。何? どんな風にやられた? 水攻みずぜめ? 包丁突きつけられた? 首、絞められた? まさか殴られただけだとか言わないでくれよ?」


 ひっきりなしに聞かれ、そのどれもが軽薄けいはくなので、すぐに返すことはできない。

 それに、兄は思い当たることがあってもこうして平気な顔で笑っていられる。その真意がまったく読めず、腹の中が急にうずいた。朝食をあんなに食べなければ良かった。


「ちょっと、ナオ。あんたね……」

「うるせー。黙ってろ、響。俺はこいつに聞いてるんだよ」


 兄は組んでいた足を離し、与鷹の前に身を乗り出した。


「で? 何された?」


 与鷹はうつむいた。そして、震える手で自分の首を指す。それだけで、ナオはすべてを察した。


「へぇぇ。そーなんだ。そいつはご愁傷しゅうしょうさま」


 どこまでも冷めた言い方に、兄の面影はないことを悟れた。

 現実はいつもことごとく幻想を破ってくる。この冷酷さに気づき、無性に悔しくなった。


「兄ちゃん」

「ん?」

「ぼく、こんなのもう嫌だよ」

「だろうな。それで俺に助けを求めにきたわけか。昔っからそうだよな、お前は」


 冷やかすように鼻で笑うナオ。こちらの訴えは伝わっていない。


「違う。兄ちゃんには頼らない」

「……ふーん?」


 説得力がないので、ナオはどうにも相手にしてくれない。与鷹は膝の上に置いた拳を握りしめた。


「うちの家族は異常だよ。おかしい。もう、どうにかなってしまいそうなんだ」


 顔を上げるほど勇気はなかった。でも、必死に訴えれば分かってくれるだろうと思う。願いをたくして、与鷹は声を振り絞った。兄は横槍よこやりを入れず、ただ笑顔は残したままで黙っている。


「ぼく、自分が怖いんだ。母さんのこと、もうどんどん許せなくなっているんだよ。本当におかしくて、最低なんだ」

「別に、お前だけに限った話じゃねーよ」


 ナオは吐き捨てるように言った。


「でも、お前は優しいよな。ほんと、ムカつくわ。甘すぎ。まだあの人のことを『母さん』って思ってるんだ。すげぇ」


 声には力がこもっていた。あまりにも強く拙いので、与鷹は顔を上げて眉をひそめた。


「どういうこと?」

「あぁもう、頭悪りぃな。殺されかけてもまだ分かんねーのかよ。ほんと、イライラする。話にならねぇ」


 ナオの声にますます熱がこもる。余裕が消え失せたその威圧は、あまり考えたくないが母にそっくりだ。


「お前は知らねーのか。俺が、あの人に言われたこと。それはそうだよな。聞いてないんだろ? くさいものにはふたをする、あの人のやりそうなことだ」


 一息にまくしたてる兄に激しい怒りが現れる。その威圧も脅威だったが、言葉の残酷さに足元がぐらつくような動揺が走った。

 面と向かって家族から言われてしまえば絶望に支配される。息苦しい。逃げ出したい。でも、逃げたらダメだ。受け止めなくては先に進めない。

 ナオは息を吐きだした。長く、ゆっくりと。そして、唸るように言った。


「一年半前、この学校を受けるって言ってから、あの人は態度を変えてきた。成績なんかどうでもいいから、家から近いところにしろって言うんだ。それまでは『勉強しろ』の一点張りだったくせに、急に俺の受験を邪魔するようになった。それで、ついカッとなって言ったんだよ。俺の将来を邪魔するなって。その言い方が許せなかったんだろうな……あの人、俺を殺そうとしてきた」


 息を飲む与鷹と響に構わず、ナオは容赦ようしゃなく言葉を吐いていく。


「耳を疑ったよ。『言うこときかないなら死ね』って包丁を向けてきた。切りつけてくるから、咄嗟に手で受け止めたら、」


 言いながら左の手のひらを見せる。生命線に沿うように白い傷跡が走っている。

 言葉なんて出てくるはずがなく、顔を痛そうにゆがめた兄を慰めることも到底できなかった。


「父さんがいなかったら死んでた。でも、父さんも結局はあの人をかばって、俺を遠ざけた。これが、俺が出て行く前の話だよ。こんなの、お前には知られたくなかった。だから、寮に入れてもらって逃げたんだ。そんな感じだよ」


 表情は変わらず笑顔だが、語尾が震えている。

 兄の言葉の端々に、あらゆる感情が見えてくる。怒りと悲しみと絶望と喪失そうしつ。すべて、この数日で与鷹が覚えたものを持ち合わせていた。


「な? あの家はそういう家だ。お前が思ってるよりもぶっ壊れてる。あんなことがあっても、あの人は白々しくメールや電話をしてくるんだ。逃げても追いかけてくる。俺たちに自由はない。そうなってしまった。もう、戻れねぇんだよ」


 ナオは唇を噛んで、気まずそうに目を瞑った。そして、そのまま息を吐く。


「こんなことなら、俺だって生きたくねぇよ。別にこっちから願ったわけじゃないのにさ、勝手に生んで、勝手に期待してさ、バカみたいだろ。それでも俺は頑張ってきたのに、俺の意思はどうでもいいんだ。そう考えると、いままでもこの先の人生すべてが『くだらないもの』になった。恨むしかねぇだろ」


 吐露とろは弱々しくなり、やがて絞り出すようなものに変わった。


「だからさ、もう俺に頼らないでくれ。無理だ。お前を助けてやれる自信が俺にはない」


 空気は張り詰めていた。

 不可能だ。修復は望めない。絶望的に家族は終わっている。


「……ナオ」


 それまで黙っていた響が、ゆっくりと助け舟を出してくれる。その声は先ほどよりも落ち着いていた。


「あたしたちはね、ナオを助けに来たんだよ」

「はぁ?」


 さすがに予想外だったのか、ナオは目を丸くさせて驚いた。しかし、すぐに表情を冷たく戻す。


「なんだそれ。意味分かんねぇ」

「おいおい、秀才のくせにそんなことも分からないの? 話にならないね」


 響はナオの言葉をそっくり返してあざけった。これがナオの予想を裏切ったらしく、彼は目を丸くして固まる。


「大体、この逃亡に加担したのはなんでなのよ。頼んだわけじゃないのに、進んで手伝ってくれたじゃない。それはやっぱり、ヨダのことが大事なんでしょ?」


 目を向けてみると、ナオはふいっとそらした。イライラと腕を組んで、響を睨みつけるのに精一杯らしい。


「ヨダはね、ナオの力がなくても大丈夫よ」

「なんでそう言える?」


 ナオは悔しげに歯噛みした。そのわずかな表情の差分さぶんを見逃さずに、与鷹は事のなりゆきを見守る。

 響は「よくぞ聞いてくれた」と得意げに言い、ポケットからスマートフォンを出した。なんと、通話中である。相手は我竜輝だった。


「せんぱーい、聞いてました? これが有馬家の長男です。ふてぶてしいでしょ?」

『いやぁ、想像よりもはるかに血の気が多い兄貴だねぇ。もっとドライなやつかと思ってた』


 スピーカーモードにしたら、我竜ののほほんとした声が聞こえた。これに、ナオは目を見開いて凝視している。

 与鷹は頭を抱えた。余計にあおってどうする。そんな嘆きは、この場にいる誰にも伝わらない。


「え……誰……?」


 その質問はもっともだろう。ナオの顔が青ざめていた。


『突然ごめんなさい、ナオくん。僕は、美の里大学理工学部の我竜輝と言います。響の先輩やってます。初めまして』


 初めて会った時と同じような自己紹介をする我竜に、ナオはすぐさま響を見た。


「何? 響の彼氏?」

「うん」


 響はあっさり頷いた。これにナオは困惑の表情を浮かべた。そして、苦い青汁を一気に飲んだような顔をする。


『響、その冗談は笑えないから』


 我竜の冷たい否定が素早い。響は残念そうに口をすぼめた。


『はぁ……まったく、しょうがないやつだな。ごめんね、ナオ。与鷹も』


 しかし、不信感があるのは否めない。ナオは動揺を隠して、イライラと舌打ちした。


「さすがに意味分からないんですが。美の里大の人がなんで、うちの家族に干渉するんですか?」

『成り行きでね。響から巻き込まれたみたいなものだよ。でも、こんな話を聞かされて黙っていられる人はそうそういないと思うよ、僕は』


 我竜の声はいつになく穏やかだ。電話の向こうの彼はどんな顔をしているのか――想像したくない。それくらい、不気味で物静かだった。


いて言うなら、響が助けたいって言ったから。そして、僕は君たち兄弟のことを救いたいと思っている』


 出てきたのは、あまりにも単純な言葉だった。ストレートな優しさが、逆に不審なものに思えてくるのも仕方ないだろう。


 ――でもね、兄ちゃん。この人たちは本当にそう思ってるんだよ。


 それだけは信じられる。太鼓判たいこばんを押してもバチは当たらないだろう。

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