贖罪②
いつものように作業をして、食事を済ませて風呂に入る。その生活も四日目となれば穏やかに過ごせた。
しかし、五日目の朝はこの平穏な生活に刺激を与えるものとなった。
深く眠っていると、唐突に「パーン!」と大きな爆発音が部室を震わせた。夢から急に引っ張り上げられ、飛び起きる。
「おっはよーございまぁぁぁぁーすっ!」
響き渡る騒音と大声に、まぶたが驚いて開いた。見ると、町田が目の前でクラッカーを持って
「ほんと、ありえない……うるさいよ、町田」
我竜が寝ぼけ眼でロッカーから文句を飛ばす。時計を見ると、午前六時三十分だった。
「起床時間にはまだ早いと思うけど? 朝っぱらから元気だね」
「ドッキリかと思った」
与鷹もやっと出た声は掠れていた。そんな二人に、町田は得意げに笑う。腰に手を当てて、勝利のポーズをした。
「ふはははは! 何を隠そう。私は今、バイト明けなのだ。
「良い子はまだおやすみの時間なんだよ。近所迷惑だから黙って」
「おやおや、我竜せんぱーい。子どもの方が早起きなんですよー? 知らないんですかー?」
「町田、うるさい」
彼はおそらく他人から起こされるのが嫌いなんだろう。ブランケットにくるまり、二度寝に興じようとしている。
「僕はまだ眠いからね」
冷たく言い、ごろんと背を向けてしまう。不機嫌な背中を見やり、与鷹も布団に戻ろうとした。しかし、町田の手につかまる。
「ヨダ坊はもう起きたよね。起きたんでしょ。ね?」
与鷹は目をこすって、不本意ながら頷いた。
「それじゃあ、お姉さんと一緒に
その声は我竜にもよく聞こえるほどの声音だった。助けを求めるように振り返るも、彼はまったく動こうとはしない。
これはもう逃げ場がない。しぶしぶ布団から出る。
「あ、与鷹」
布団を出ると、身じろぎ一つせず我竜が言った。
「兄貴によろしく伝えといてね。あれも忘れずに」
その言葉に、与鷹はすべてを察した。
「わかった」
「じゃ、行ってらっしゃい。町田、頼んだよ」
ひらひらと手だけを振って、我竜はそれからすぐに寝息を立てた。
例のごとく、与鷹は水色のパーカーを深く着込んで、早朝の庭園を歩いた。
今日も暑くなりそうだ。七時前だというのに、太陽は元気よく
白い空の下、大学内はしんと静まっているが、どこか遠くからは運動部らしき太い掛け声が聞こえてくる。
いつもは夜にしか外に出ないし、我竜しか知らない抜け道だけを行き来しているので、久しぶりに正門から出て行った。
山を降りていき、ひと気のない道を歩く。響と町田が住むアパートも通り過ぎた。なだらかな道が続いていく。町田はよく使う道らしく、慣れた足取りで進んでいった。
「この生活にはもう慣れたー?」
信号待ちの間、それまでマイペースに黙っていた町田が聞いてくる。なんだか妙によそよそしい言い方だ。
とは言え、町田とはあまり顔を合わせないので、世間話をするにはまだ距離のある間柄である。
「まぁ、それなりに」
「楽しい?」
「うん」
「先輩、めんどいっしょ?」
「ううん。優しいから、楽」
「ほほう」
町田はなんだか嬉しそうに鼻で笑った。
「楽なら良かった」
気にかけてくれているのだろうか。
与鷹はこれまでずっと疑問に思っていたことを頭の中で転がした。そして、ゆっくりと確かめるように口にする。
「あの、町田さん」
「んー?」
「先輩と町田さんは、どうしてぼくを助けてくれるの?」
信号が切り替わるのと同時だった。青になり、町田は機嫌よく道路に足を踏み出す。その後ろを与鷹は小走りに追いかける。町田は白線だけに足をつけ、まるでステップを
「なんだなんだ? ヨダ坊ったら、助けてほしくなかったんじゃないの?」
渡り終えてから、彼女は片眉を上げて言った。
たちまちバツが悪くなる。うつむいて笑った。
「
「ふっふーん」
絶妙に不気味な笑い方をし、町田はポニーテールを揺らした。
彼女が行く先には、小さな喫茶店がある。純喫茶スケルトンという看板は黄ばんだ乳白色だ。レンガ造りの小洒落た外観で、重厚感が大人っぽい。気軽には立ち寄れないなと与鷹は苦笑した。静かで
「いらっしゃい」
すぐに老店主の声がかかる。灰色のフェルト帽に丸メガネ。小柄な男性だった。
店内も落ち着きのある暗い照明で、黒い木目のカウンターとソファ席がある。町田はソファ席に座った。
「ここのナポリタンが激ウマなんだけどねぇ。ま、朝だから軽く頼みますか」
与鷹も彼女の向かい側に座る。メニューは意外にも豊富で、トーストからサンドイッチまで朝食セットがびっしり並んでいた。
「好きなの頼んでいいから」
そう言われても、どれにしようか迷う。
ハムときゅうりのサンドか、
与鷹はハニーバタートーストを選ぶことにした。コーヒーは飲めないのでアイスココアにする。
「決まった? よし。んじゃ、すいませーん、注文お願いしまぁーす」
町田はメニューをひったくり、カウンターから顔をのぞかせる店主にテキパキとオーダーした。
「ハニーバタートーストとアイスココア。あとはナポリタンとコーヒーフロートをお願いしまーす」
――結局ナポリタン食べるのか。
朝からよく食べられるものだ。店主は「はーい」と気だるげに返事をした。そして、キッチンの中をゆったりと動き回る。
「さてさてさてと、お話の続きでもしよっか」
町田は頬杖をついて楽しげに笑った。テーブルの下で足を揺らしているのか、なんだか忙しない。
「どうして助けてくれるのかって話しだったね。まぁ、『助けてくれている』なんていう認識でいてくれるんなら、こっちは助けがいがあるからいいんだけどさ」
そんな前置きをして、彼女は口の端を伸ばした。遠くを見つめる。
「先輩はどうだか知らないけどさー、私はちょっと下心があるんだよ」
「下心?」
この場にそぐわないように思える言葉だったので、思わず反復する。町田は笑いながら言った。
「私は友達を大事にするタイプなんだわ。でもね、昔はそうじゃなかったの。小学生の時にね、クラスで
サラリと語るのは町田の過去だった。あまりにも淡々としているので、ひとまず耳を傾けて聞く。
「んで、次は高校生の時なんだけど、またクラスで浮いてるヤツがいたんだ。仲良くしようとしてたんだけど、あんまりうまくいかなかった。話しかけても無視されるし。頑張ってみたけど、私は
遠く懐かしむような言い方に与鷹は「ふうん」と相づちを打った。素っ気なくならないように頷きながら。
「ま、そういうことがあってだね。私は次こそ、誰かをちゃんと助けたいって思ったんだよ。そういうくだらないエゴみたいな正義感。悪いねぇ、君をダシに使って」
正直、拍子抜けだった。町田の声は軽いのに表情が強張ってるから、怒る気にもならない。
「その……町田さんが仲良くしようと思った人たちは、どうなったの?」
なんとなく、気になる。結末次第では良い結果にはならない話なのかもしれない。
彼女は照れくさそうに首筋を掻きながら言った。
「あぁ、どっちも仲良くしてるよ。学部が同じだからしょっちゅう会うよね。いい友達だよー」
「なんだ……」
どうやら思い過ごしだったようだ。町田はいたずらに「ふふーん」と笑った。
「この町田がそう簡単に引き下がるわけがない!」
「しつこそうで嫌だなぁ……」
「確かに、私は結構しつこい。そいつらには、正直なところウザがられている」
「うわぁ」
「でも、いいヤツらだからさ。こんな私にも優しいんだよ。アイス
普段の町田が友人たちからどんな扱いを受けているのかは分からないが、決して良い待遇ではないことだけ想像がつく。大方、我竜からの扱いとほぼ同等だろう。
ふんぞり返って腕を組む町田に笑っていると、飲み物が先に運ばれてきた。
「ナポリタンはもう少し待っててね」
店主がメガネの奥にある小さな目を笑わせて言った。
「はい、アイスココアとコーヒーフロート」
「ありがとうございまーす!」
町田は元気よくお礼を言うと、さっそくコーヒーフロートを引き寄せた。大きなグラスは黒く苦そうなコーヒーがなみなみと注がれており、てっぺんには爽やかに甘いバニラアイスの島が浮かぶ。
いっぽうで、アイスココアはどろっとしていた。白と赤みのある茶色が氷に挟まれている。与鷹は町田がコーヒーフロートを一口飲んだあとに、ココアのストローを握った。
「まー、だからさ。私はそういう下心であんたを助けているんだ。勘違いしないで欲しいのは、助けたい気持ちはちゃんとあるってこと。実際ね、私は先輩や響が思ってるほどよりも、あんたの親のことが大嫌いだよ」
与鷹は思わず首をすくめた。足も縮み上がる。
会ったこともない人のことをはっきりと「大嫌い」なんて言う町田に、わずかな恐れを抱いた。でも、それが彼女のまっすぐな言葉だということは理解できる。
「ズルくてはっきりしないヤツが嫌いなんだよ。だから、昔の自分もあんまり好きじゃない」
「でも、ぼくは町田さんみたいに強くはなれそうもないよ」
思わず言うと、彼女は目を丸くした。呆れた息をつき、バニラアイスをつつく。
「私もそんなに強くないよ? キャラは濃いけど」
あっけらかんと言い放ち、アイスをぱくりと食べる。与鷹は顔をしかめてココアに目を落とした。
「遠慮するなよー。つーか、子どもが遠慮すんな!」
町田から厳しい言葉が飛んでくる。
与鷹はようやく、ストローに口をつけた。甘いココアを喉に流し込む。ほろ苦い風味のあとにくる甘み。よく冷えているから一気に飲み干せそう。すかさず、胃が働いた。
町田はもてあそぶようにバニラアイスをつついた。とろみのある白が沈んだり浮かんだりを繰り返しているのを眺めていると、ジュワッと油が弾ける音が近づいてきた。
「はい、お待たせ。ナポリタンとハニーバタートースト」
店主が運んできたナポリタンは、白い皿の上で香ばしく甘い香りを放っていた。動きだした食欲のせいで腹が鳴る。
与鷹は目の前に置かれたハニーバタートーストを恨めしく見た。こちらもバターとハチミツがとろけておいしそうなのだが、町田の前に置かれたボリューミーなナポリタンには
「ん? どした? 食べなよ」
ケチャップソースを絡めたパスタと玉ねぎを一緒にフォークでくるくる巻きつけながら、町田がトーストをうながしてくる。
与鷹は小さな声で「いただきます」と言って、トーストに手をつけた。
厚切りの食パンはこんがりときつね色で、バターとハチミツがたっぷり
「あらまぁ、よっぽどひもじい思いをしてたのねぇ」
町田のからかう声には嬉しさが漏れていた。
「いい食べっぷり。意外と食欲があるようでよかったわぁ」
「うん。これ、本当にうまい」
「そうだろう、そうだろう。ここのパンはウマウマなんだよ。そんで、ナポリタンも超絶ウマイ! おじさーん、取り皿ちょーだい」
勝手に話を進める町田である。しかし、トーストがこんなにウマイならナポリタンだってウマイはずだ。
店主に皿をもらい、町田は楽しそうにナポリタンを取り分けた。赤いパスタに玉ねぎとピーマン、ベーコンとトマトの果肉までよそってもらい、与鷹は素直に受け取った。食べる。
はじめに強いトマト。そして、あとから甘みが膨れ上がる。玉ねぎとピーマンは一緒がいい。甘いのと苦いのを同時に噛む。ベーコンの塩気とトマトの酸味も手伝って、文句なしに美味だった。塩加減がちょうどいい。素朴なのに優しい味だ。
「ウマイかー?」
どうしても感想が欲しい町田だった。与鷹は貪りながら激しく頷いた。
「うん。こんなナポリタン、もう一生食べられないかも」
「そんな大袈裟な」
町田は呆れて笑い、コーヒーフロートを飲んだ。そして、ナポリタンをくるくる巻きながら唸る。
「毎日、冷たいお弁当なんでしょ? ほんと、かわいそうで見てらんない」
「正直言うと、たまにはあったかいご飯が食べたい」
「だよねぇ。んじゃあ、デリバリー町田の出番じゃね?」
「え? ご飯作ってくれるの?」
「うん。簡単なものしかできないけど、作ってやるよ。ひれ伏して感謝したまえ」
町田はふざけながらも、よどみなく続けた。
「だからさー、ヨダ坊。負けないでよ。そして、兄ちゃんを助けてやりな」
「え?」
フォークを止めた。町田を見ると、彼女はナポリタンを頬張っていた。
「うっま! やっぱ超絶ウマイわー、はぁー、幸せ」
かっこつけて言ったのが恥ずかしかったのか、彼女は
それを見て、与鷹は曖昧に笑うしかできなかった。アイスココアの氷がカランと音を立て、ストローが一周する。
――兄ちゃんを助けるって。そんなこと、できるかな。
「なんだよー。そんなに構える必要はないって」
こちらの不安を察したようだ。町田の楽観的な声に、与鷹はゆっくりとナポリタンを飲み込んだ。
「あのね、一番上の子ってのは結構つらいもんなんだよ。誰かを頼るっていうシステムが組み込まれてないからね、自分でどうにかしようとしちゃうんだ」
その説明に、与鷹は目をしばたたかせた。
「そうなの?」
「そうだよ。この町田が言うんだから間違いない」
それから彼女は、行儀悪くフォークの先端を向けてきた。
「あんた、兄ちゃんの気持ち、まったく考えたことないでしょ」
「………」
言われてみればそうだ。兄どころか、親の気持ちでさえ考えたことはない。
しかし、向こうもこちらの気持ちを考えずにお構い無しなので、それが日常で当たり前だった。
「今からでも遅くない。ほんのちょっとの心配りってやつだけで、案外あっさり落ちるもんだよ」
本当にそうだろうか。
与鷹は眉をひそめて、ココアのストローをくわえた。口の中に残るナポリタンの味には勝てなかった。
***
豪華な朝食を終えた後、タイミングを見計らったように響の車が迎えにきた。
部室には戻らず、そのまま兄の学校まで直行する。町田は軽い口調で「いってらー」と見送ってくれた。
「町田とは仲良くなったー?」
響が聞いてくる。その声は明るいが、どこか遠慮がちだった。あれから少し気まずい。与鷹はサイドミラーを見ながら答えた。
「ちょっとだけ仲良くなったかも」
「そっかー。良かった。大学でできた友達なんだけどね、あの子、めちゃくちゃいい子なんだよ」
「それは、なんとなく分かる」
響の弾んだ声は、こちらも楽しくなってくるから不思議だ。兄と会う前だというのに緊張感がない。
「町田さんも先輩も、本当にいい人だよね」
「うん。いい人だよ。すごくいい人たち。あたし、天文部に入って本当に良かったって思うんだ」
カーブを曲がり、細い道に入っていく。辺りは大きなマンションや飲食店の建物が並んでいる。人通りも多くなり、響は厳重に注意しながら先を進んだ。
「あたしが救われたからさ、ヨダのことも救ってくれるって期待してるんだよ。ひと任せなのはよくないけどね」
響の声はわずかに暗かった。その落差につられるように、与鷹も視線を落としていく。先日、小耳に挟んだ響の過去がどうしても気になってしまう。
「あたしたちって、本当に図々しいよねー」
「うん」
「でもさ、やっぱり誰かを頼らないと、自分を保つのが難しくなるよ」
まさにその通りだと思う。あの夜、響に声をかけてもらわなければ、黒い感情に
「響ねーちゃんはさ、」
声が上ずるが、与鷹は構わず続けた。
「先輩たちからどんな風に助けてもらったの?」
聞いていいものだろうか。でも、彼女の声が聞いてほしそうだったので、流れに任せるまま問いかける。視線をゆっくり上げて、彼女の横顔を見て。
一方で、響は頬をゆるめてまっすぐに視線を前に向けていた。
「それは後でのお楽しみ」
まさかここでお預けを食らうとは思わない。
与鷹はホッとしたような、残念のような奇妙な気持ちになりながら背もたれに体を預けた。
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