第四章 贖罪

贖罪①

 視線は、いつになく地面に近かった。草むらの中で座っている。辺り一面真っ暗闇だ。丸い水平線の視界。空を見上げれば、スコープをのぞいたような丸い空。


「与鷹――」


 背後から、深い男性の声が聞こえる。

 振り返ると、自分とよく似た目と肌の男が笑っていた。手招きしている。


「お父さん」


 出した声がいつもより違う。いくらか高くて喉の通りも快適で、手のひらを見てみると一回り小さかった。これは……七歳の記憶か。


「与鷹、おいで」


 優しく笑ってはやし立てる父の元へ、与鷹は素直に走って飛び込んだ。ここでは無邪気な子どもでいられる。


「ほら、ここからのぞいてごらん」


 そう言って父が示したのは天体望遠鏡だった。

 長くて大きな望遠鏡は父の腕よりも長い。ハンドルで固定され、父にうながされるままファインダーをのぞく。すると、ほのかに赤く渦を巻いた銀河ぎんがが見えた。


「見えた!」

「あれは、アンタレス。さそり座の星だ」


 父の手が望遠鏡をわずかに上へ向ける。それに沿って与鷹も腰を落として空を追いかける。


「あぁ、そうそう。ここだ」


 父が調節した位置で、もう一度のぞくと星のまたたきが一層増えた。


「うわぁ、すごい! すごいね、お父さん!」


 心が浮き足立つ。忘れかけていた記憶にうれう暇もなくはしゃいでいると、父は大きく背伸びして空を見上げた。


「与鷹、天の川の中にカシオペヤ座があるよ」


 父が指差す方向を、与鷹も肉眼で見つける。


「Wみたいな形の星座。与鷹の名前はカシオペヤ座と関係があるんだ」


 その言葉の意味はなんだったか……どうして、カシオペヤ座が与鷹の名前につながるのか覚えていない。父も教えてくれない。


「さ、帰ろっか。あんまり遅いと、お母さんにしかられる」


 望遠鏡をヒョイッと奪われ、与鷹は腕を伸ばした。全然届かない。


「まだ! もうちょっと見る!」

「ダメ。風邪かぜ引いたら、それこそ大目玉だよ。叱られたくないだろ?」

「でも……」

「お父さんも叱られたくないんだよ。それに、お兄ちゃんにも内緒で来ちゃったし」


 父は顔をしかめて笑った。そこには母と兄への申し訳なさが含んであるように見えた。


「兄ちゃんが怒ったら、もっと怖い?」

「怖いねー。あいつ、怒るとしつこいからさ。あんまり考えたくないなぁ」

「お父さんって、怖がりなんだねー」

「うん。お父さんは怖がりなんだよ……だから、ごめんな、与鷹」

「え?」


 ――ごめんって、何?


 ふと我に返って、自分の姿を俯瞰ふかんする。ふわふわと浮かび上がるような心地で、幼い自分と父の頭をぼんやり眺めた。

 十四歳の与鷹だけがその場に取り残される。

 優しい思い出の中に突如、異物が混入したような不快感を覚える。その正体はつかめない。


 与鷹は空を見上げた。小高い丘の上。なんだか、大学内の庭のようにも思える。こんなところで天体観測をしていたのだろうか。

 いや、違う。ここは夢の中なんだから、あべこべになっていてもおかしくない。


 空は濃厚な黒を背景に、瞬く星々で埋め尽くされている。

 自宅周辺では絶対に見ることはできない絶景だろう。ぽつぽつと光る一等星だけでなく、ぼんやりと小さな六等星まで肉眼で見える。すっきりと澄み渡った空だった。ずっとここで星を眺めていたくなる。


 アンタレスはさそり座の星。わし座と天の川がほんのり見える。そこから川上りのように、指で流線を描きながらたどり、北極星からカシオペヤ座に止まる。


 ――そういえば、「よだかの星」はなんの星だっけ?


 昔読んだ児童文学集の中にあった、自分と同じ名前の童話。

 よだかの星は、どんな星だったか――思い出そうとしても、頭の中は銀河のようなもやが渦巻いている。次第に心が寂しくなった。


 思い出せないことが、泣きたくなるほどつらくなっていく。壮大な宇宙の下にいるからか、自分がちっぽけに思えてくる。つまらない人間だと思う。手を伸ばしても星はつかめない。どんなに背伸びしても、高く飛んでも届かない。そんな惨めな自分を、星が笑っているような気がしてきてさらに奈落ならくへ突き落とされる。

 小さくて、なんの力も持っていない、みにくいよだかだ。みんなに嫌われたよだかは、それからどうなったんだろう。物語の最後が思い出せない。

 結局、何も覚えていないんだろう。夢の中でも、自分は無力だ。


 与鷹は芝生しばふった。星から逃げるように背を向けて走る。

 でも、ちっとも前に進めない。どんなに足を動かしても地面は柔らかくゆがんで、足を捕まえてくる。真っ暗な無重力の中に放り込まれてしまえば、呼吸もままならない。


 ――早く帰らないと。


 帰らなくちゃいけない。


 ――どこに?


 家に。


 ――あの家に?


 いや、帰る場所は……あれ?


 ――どこだっけ?



 ***


 定刻に起きて、勝手に朝食をとっていると我竜もゴソゴソと起き出していた。

 彼が寝ぼけ眼で牛乳を飲んでいるちょうどに、与鷹は思い切って聞いてみた。


「先輩、カシオペヤ座ってどれ?」

「……え? カシオペヤ座?」


 壁に貼ってあるボロボロの星座早見表を見つめていると、我竜は黒縁メガネをかけて早見表の前に立った。表の北側を指し示す。


「これだよ。北極星の周りをぐるぐる回る、カシオペヤの星座。女性が椅子いすにくくりつけられてる絵がある。Wの形をしているから、覚えやすい星座だよね」


 椅子にくくりつけられるなんて、どんな仕打ちを受けているんだろう。あまりいい星座には思えず、与鷹は顔をしかめた。


「この星座って、神話があるの?」


 なんとなく聞いてみる。寝起きなのにペラペラと答えてくれる我竜に期待をしてみた。案の定、彼は牛乳を吸い上げて飲み込んで語りだす。


「星座には物語がつきものだ。カシオペヤも例外じゃない。もっとも、彼女の場合は教訓だよね。カシオペヤはエチオピアのケフェウス王の妻で王妃であり、アンドロメダ姫の母親だ。このアンドロメダ姫がかわいくてたまらないので、現に美しい姫だったそうで、カシオペヤはある日、海の神であるポセイドンに喧嘩を売った。うちの姫の方が可愛い、みたいな。うぬぼれてたんだね。そしたらまぁ、ポセイドンが大激怒して、姫を生贄いけにえとしてささげなくちゃいけなくなった」


 与鷹は早見表から目をそらし、我竜をじっと見た。

 彼は意気揚々いきようようと説明していたが、与鷹の視線に気づいて口をつぐんだ。


「あれ? なんか、覚えがあるような、ないような」

「そういうボケはいいので、続けて」

「おぉ、言うようになってきたね。そういう返しがほしかったんだ」


 クスクスと笑われているところ、どうやらからかわれているらしい。与鷹の冷めた目を受けて、我竜は早見表に目を移した。


「えーっと、それで、姫は英雄えいゆうペルセウスに助けられたんだ。彼が海の魔物を退治してくれたんだけど、ここでめでたしめでたし……じゃない。カシオペヤが北極星の周りをぐるぐる回るのは、神々の怒りを買ったせいだと言われている。彼女は椅子にくくりつけられ、休むことなく空を巡っている」

「そうなんだ……」


 教訓というのだから後味のいい話ではないのだ。なんとなく母を重ねてしまい、気が滅入めいってしまう。


「僕は親が子を愛するのは当然だと思ってるし、そうであってほしいと思ってる。でも、正解なんてないから断言はできないよ。人間関係って、親子でも合わないものは合わない。愛情の方法も間違うことはある。でも、子どもを危険にさらすことだけは間違いだとはっきり言うよ。どんなに可愛くても、どんなに自分の子どもでも、どんな事情があっても、人の自由を奪うのはダメだ」


 空気が重くなった。これがどうにも居心地が悪い。我竜も同じだったようで、彼はあっけらかんと声のトーンを上げて言った。


「とは言っても、その立場になってみないと分からないんだけどね……ところで、なんで急にカシオペヤ座? なんかあった?」

「あ、いや……思い出したことがあって。小さい時、父さんに星を見に連れていってもらって」


 面食らいながら、しどろもどろに返す。「夢で見たから」とは恥ずかしくて言えない。


「そのとき、カシオペヤ座はぼくの名前と関係があるって言ってた」

「名前? 与鷹の?」

「そうらしい」

「うーん? そうなの? なんかしっくりこないな……」


 我竜は不思議そうに首をかしげた。こちらの事情なのに、どうして彼の納得が必要なのか。


「よだかって言えば、よだかの星でしょ。カシオペヤとどう関係が……」


 しかし、ブツブツと呟くうちにひらめいたのか、彼は「あっ」とすぐに顔を上げた。顎の無精髭ぶしょうひげをつまみながら笑う。そして、何やら訳知り顔に言った。


「なるほど。君のお父さん、マニアックだね」

「どういうこと?」

「定かじゃないんだけど、よだかの星というのはカシオペヤ座の近くにあった星らしいよ。ティコの星っていうんだけど、もうずっと昔になくなってしまったんだ」


 口調には惜しむような響きがあった。しかし、見たことも聞いたこともない星に感情移入はできず、与鷹は「へぇ」と軽い反応を返した。


超新星ちょうしんせいともいうんだけど、さながらまぼろしの星ってとこだね」

「へぇぇ」

「なんだ、興味ない? 昨日はあんなに喜んでたのに」


 そう言われてしまえば不機嫌を返すしかない。眉を上げてじっとりと見ていると、我竜は「あはは」と笑って逃げていく。どうやら身支度みじたくをしに部室を出ていった。


 ***


 響は部屋のベッドに寝転んでいた。エアコンは入れず窓を全開にし、セミの鳴き声をBGMに物思いにふけっている。

 与鷹の母から向けられた疑心が忘れられず、なんとなく部室に行く気にはなれない。スマートフォンの画面はおとなしく、ナオからの連絡はいまだにない。あまりしつこいと嫌われそうだから今日のところは放置している。

 ぼんやりと天井を眺めていると、玄関の鍵がガチャンと音を立てた。

 瞬間、町田の文句が飛んでくる。


「ぶぁっ! あっつ! ちょっとちょっと、響さーん?」


 ドタバタと部屋になだれこむ町田は汗だくで、両手には荷物を抱えていた。


「おー、おかえり、町田」

「ただいま! なんでエアコン入れないのー? 外、三十九度なんですけどー。あっちーな、おい」


 すぐさまエアコンのリモコンを操作する。Tシャツの胸元をパタパタ仰ぎ、ロングスカートのすそを持ち上げた町田を見て、響はげんなりと目を細めた。


「お行儀が悪い」

「うっさい。我が家でお行儀もクソもないんだよ。あー、アイス食べよ」


 冷凍庫を勢いよく開け、町田は常備しているアイスキャンディにありついた。渇きをうるおすようにむさぼる。


「今日は何してたの?」


 聞いてみると、町田はサコサコと咀嚼しながら答えた。


「前野くんをからかいに行ってた」

「それだけ?」

「んなわけないじゃん。ちゃーんと買い物もしてきましたよ。なんのために本屋へ行ってきたと思ってるの」


 町田は鼻で笑った。彼女の友達である前野がアルバイトする向島むこうじま書店は、遠戸南駅の近辺にある。そこに行けば、一〇〇パーセントの的中率を誇る試験対策問題集が手に入るというのは学生の間でもっぱらの噂だが、それ以外で利用する人はとくにいない。


「何を買ったの?」


 もう一度探りを入れてみると、町田は「よくぞ聞いてくれた」とおごそかに言い、リュックサックを開ける。そして、書店のロゴが入ったビニール袋を放り投げてきた。

 ドスンと狂気的な音が鳴る。ベッドを転げて避けないと、危うくみぞおちを突くとこだった。


「あっぶなー……なんだこれ」


 袋に手を伸ばし、中身を出してみる。白と茶色を基調にした装丁そうていの、真ん中にはいろどり豊かな料理が並ぶ本だ。


「『簡単激安レシピ全集』、『手間いらず三食ご飯レシピ』、『これであなたも料理上手・キッチンのススメ』……町田、料理するの?」


 本のタイトルを順番にあげていくと、町田は「ふふふ」と不気味に笑った。


「町田、料理を始めます!」

「うわっ、ついに花嫁修行……? 前野くんと付き合う気になったの?」

「んなわけないでしょ。なんで私があいつと付き合わにゃならんのだ」


 すかさず頭を軽く小突かれる。ふざけたつもりはなかったのに。


「ヨダ坊にご飯持ってってやろうと思ってさー」


 出てきた回答は予想外のもので、響はベッドから勢いよく起き上がった。


「そんなこと考えてたの!?」

「うん。なんだかさー、やっぱり、ちゃんとご飯食べないとダメだと思うのよ。あったかいご飯を食べて、寝る。それが一番いい健康法だと太古たいこの昔から偉い人たちが言ってるんだよ」

「誰が言ってるんだろう……」

「そこは誰でもいいのさ」


 ニヒルに笑う町田は、冷凍庫から二本目のアイスキャンディを出した。


「あの子に今必要なのは食べ物だよ。中学生男子が食欲不振に不眠症だなんて、どう考えてもおかしいでしょ。あのくらいの年頃は何にも考えずに食って寝てりゃいいの」


 町田は確か弟が一人いるそうだ。年子としごだと前に聞いていたから今は高校三年生だろう。姉としての視点が冴え渡っているよう。

 同時に、そこまでの考えが及んでいなかったことに気がついた。

 友人の優しさが、すれた心にみてくる。響は堪らずベッドを蹴飛ばし、町田を抱きしめた。


「ありがとうー、まちだぁー。なんていい子なの」

「うわぁぁぁぁ! んもう、あっついから離れて! しっしっ!」


 こちらの感情とは対照に町田は冷たく追い払ってきた。でも、満更まんざらじゃないようで口元はにやけている。


「そんで、ヨダ坊の兄貴とは連絡ついたの?」


 響をベッドに追いやって、町田が改まって聞く。響は枕を抱き寄せて首を横に振った。


「全然ダメ」

「んじゃ、強行突破しかないんじゃね?」

「やっぱそれしかないかなー」

「どのみち、兄貴はヨダ坊が寮にいることにしてるんでしょ。だったら、そこを逆手さかてにとる!」


 言い方も計画も荒いが、確かにそうした方がナオとのコンタクトが取れやすいように思う。

 町田は眠たそうなタレ目を伏せて、あとを続けた。


「んまぁ、兄はどうなのか知らないから姉としての視点で言わせてもらうけど、やっぱり下にきょうだいがいるとプレッシャーなわけさ」


 おどけて言うも、言葉は真剣そのもの。響は姿勢を正し、黙って耳を傾けた。


「とくにとしが近いと、物心つく前に『お姉ちゃん』なわけ。なんだかんだ、親からは『お姉ちゃんなんだからー』って理不尽に怒られることはあるんだわ。頼れるのは友達くらい。でも、家族の役割に慣れてるから誰かに頼るのが苦手なんだよねー……ヨダ坊の兄貴もそうなんじゃない?」

「そっか」


 ナオは身近な人を頼れないのだろう。誰も頼れない。まるで、薄氷はくひょうの上を平然とした顔で歩いているようなもの――それはとても怖いことだ。


「よし! 輝先輩に言ってみる!」

「おう、その意気だ! がんばれ、響!」


 親指を突き上げてゴーサインを向ける町田に、響も同じようにサインを送った。


「……ところで、町田は料理できるの?」


 なんとなく気になって聞いてみる。

 レシピ本のタイトルを見る限り、どれも初心者向けのような気がしてならない。

 町田はアイスの棒をペロリと舐め、遠い目で言った。


「包丁を握ることがない人生でした……」

「え、じゃあ、苦手なの?」

「家庭科は『2』でした」


 その声は細い。

 響は頬を引きつらせながら、なおも聞いた。


「調理実習の時、何してたの?」

「同じ班の子に任せてた」

「猫の手って分かる?」

「猫の手なんか借りるもんじゃないよね」


 見当違いの答えはわざとか、本気か。

 不気味に微笑む町田に、響は一抹いちまつの不安を覚えた。同時に与鷹の身を案じる。

 ひとの手料理がトラウマになりませんように。でないと、彼の将来が心配だ。

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