光源⑤

「……おかえり。二人とも、頭はえてないみたいだね」


 部室のドアを開けると、我竜が出迎えてくれた。彼は察しがよく、声のトーンを落とす。


「うちに氷とかアイスノンはないよ」

「いらない」


 鼻をすすって言うのは響だった。

 与鷹は暑苦しいパーカーのフードをとった。そして、逃げるように我竜の脇をすり抜ける。固い床に座り、アルミ板とハンドドリルを手に取った。星のプロットを見ていると、頭が空っぽになれる。


「……何してたの?」


 背後から聞かれたが、与鷹は答える気はなかった。作業に没頭ぼっとうしたい。今はなにも考えたくない。


「ヨダの家に行ってきました。で、そっちはおばさんからのメッセージを見たらしい」


 代わりに響が答えてくれた。


「それで?」


 我竜がせっついて聞く。響は時折、鼻をすすった。

 それを見かねて、我竜は「鼻を噛め」と彼女にティッシュを差し出す。くしゃみのような鼻を噛む音を鳴らし、彼女は話を続けた。


「カマかけて『ナオとヨダは元気?』って聞いたんです。そしたら」

「なんて言われた?」

「あたしがヨダを匿ってるんじゃないかって。たぶらかしたんじゃないかって言われました。あたしのせいで、ナオもヨダも反抗的になったって」

「そう……」


 我竜の声はわずかに暗がりを帯びた。


「間違ってはないけど、その言い方はひどいね」


 与鷹と同じように、彼も呆れて言い放つ。「あはは」と軽い相づちみたいな笑いも一緒に。


「メッセージにはなんて書いてあった?」


 今度は与鷹に聞いた。

 しかし、答える気にはなれないので与鷹はスマートフォンを出し、床に滑らせる。ちゃんとキャッチしてくれ、我竜は「見てもいい?」と確認してきた。黙ったままで頷く。


「どうして割れてるの?」

「ムカついて、床に投げた」

「あらら」


 やがて、彼はなんの感情も込めずにそれだけ言った。


「……それで、与鷹はなんて返す?」


 メッセージを一通り見たのか、我竜は与鷹の頭をスマートフォンで小突こづいている。


「返すわけない。ぼくの気持ちなんて、絶対に届かないし」

「届かなくても伝えないと。ほら、言わなきゃ分からないって書いてあるよ」

「言わなきゃ分からないっておかしいだろ」


 与鷹はイライラと続けた。


「罪悪感なんか一つもなかった。あんなことまでしておいて、それはない。ありえない。あんなの、母親じゃない」

「うーん……話し合えば解決するなんて思っていないけど、そういう希望は残したかったね。でも、これを見る限りじゃ難しいか」


 顔を上げると、我竜は笑っていなかった。何かに耐えるような、眉も目も口も平坦だ。そんな彼から、ひそやかなささやきがこぼれてきた。


「与鷹はお母さんに復讐したい?」


 その言葉が、いた心の穴に塞がっていく。棘だらけのアップリケがやすやすと穴を埋めるような感覚。攻撃的にいらだっていた体が、冷静さを取り戻していく。


「君はお母さんに罪悪感を持ってほしいと思っている。暴力も暴言も、愛情の裏返しなんだと認識したかった。でも、違った。お母さんはいつだって感情的で、そこに理性はないことが分かった。こんなの、許せるわけがないよね」


 目をしばたたかせると、うろこでも落ちてきそうな気がした。

 感情を分析すると彼の言葉に行き着くんだろう。自分の中にある黒いかたまりがざわめいた。

 一方で、響は納得がいかないように顔をしかめていた。


「どうやったら分かってくれるんだろ」

「さぁね。本人に自覚させるのが一番だけど、さっきも説明したように、支配欲を知った人間というのは鈍感で盲目もうもくだ。人の心なんて見ちゃいない。人だとも思ってない」


 言葉に荒さが見える。そこで初めて、我竜が怒っていることに気がついた。スッと息を吸って、彼は一息つく。そして、彼は脱力気味に猫背になった。


「お母さん、心配してると思うよ」


 こちらの憂鬱とは裏腹に、我竜の声はあっさりしていた。よどみない言い方には自動的に反感を覚える。


「してないよ。するわけがない。母さんはぼくのことを都合のいい人形としか思ってない」

「それなら、なおさら心配してる。だって、自分に都合のいい人形がいなくなったんだから、不安で不安でしょうがないだろうね」


 我竜がバッサリと切り捨てる。響の顔がますます険しくなるが、言葉にはしなかった。


「与鷹、お母さんってたまに嫌味たらしくなるって言ってたよね」

「うん」

「響、与鷹のお母さんは響にも攻撃してきたってことだよね?」


 今度は響に聞く。それに彼女はこくこくと頷いた。そして、遠慮がちにおどおどと口を開く。


「あの、言っちゃ悪いけど……あたしん家をうらやんでるような目をしてた」


 言い方には与鷹への配慮があった。

 それを聞いた瞬間、我竜が息を吐く。長くゆっくり続く音は、風船がしぼむようだった。


「自分に自信がなくて、ネガティブで、いつも他人と比べているような。そういう人か。なるほど。分かった」


 与鷹は母の疲れた顔を、そして恨めしく言われたあの言葉を脳裏に蘇らせる。


『あんたはいいよね、楽で』


 それだけじゃない。父への悪口は小さい頃から聞かされていた。しかし、父が帰ってくると態度を変えるのが常だ。不安定でバラバラだ。


「……お母さんも抑圧よくあつされているんだと思う。そして、そのストレスが与鷹に向かっている。誰も信用できなくて、頼れないんだよ」


 考えれば考えるほど、我竜の分析が的を射る。

 しかし、すんなりとは受け止められない。信じたくない。あまりのショックに言葉はなく、手が震えてきた。それを隠すようにもう一方の手で握るも意味はなかった。

 そんな与鷹の前に、ゆっくりと我竜が近づく。視線を合わせるようにしゃがんだ。彼の目は相変わらず優しくて柔らかい。


「ごめん。僕があんなことを言うべきじゃなかった。ちょっと、響の正義感が感染うつったみたいでさ。感情的に言ってしまったよ」


 頭をくしゃくしゃになでられ、その乱暴さに戸惑っていると彼は部屋を出ていった。


「どこ行くの?」


 響が追いかける。与鷹も気になって玄関へついて行く。我竜は靴をいていた。


「ちょっと野暮用やぼようを思い出した。響たちは作業の続きをよろしく」


 それだけ言い、振り返らずに部室を出ていった。




 帰ってきたのは、一時間後のことだった。

 与鷹と響はあれきり一言も会話をしていない。もっとも、与鷹が響を避けて部屋の隅でアルミ板をいじっていたから、響も空気を読んでロッカーに座っている。

 二人を隔てる投影機は、あともう少しで完成だ。


「ただいま」


 我竜の疲れた声がした瞬間、響が弾かれたように玄関へ飛んで行った。


「うわ、なんですか、その大荷物」

森崎もりさき先生に頼んでたテントが完成したから取りに行ったんだ」

「思ったよりデカイですね」


 そんな会話が聞こえてくる。我竜はしきりに「暑い」だの「だるい」だの愚痴ぐちをこぼしていた。


「やっぱり夏場の昼はまだまだ暑いな。すぐに体力が奪われる。溶けそう」


 部屋に入ってきた彼は汗だくで、襟足の金色が首に張り付いていた。

 抱えているのは彼の背よりも遥かに大きな巻物で、真っ黒な布だった。暗幕のようでもあるが、フェルト生地よりもごわごわしていない。サラリと滑らかな繊維で作られているものだろう。


「これを部屋に張る。まだ完成じゃないけど、ユニットもある程度は組んでるし、試しに投影してみようか」


 部屋の涼しさでたちまち元気を取り戻した我竜が楽しげに提案する。

 響の顔がパッと輝いた。


「じゃあ町田を呼びますね!」


 すぐさまスマートフォンを出してメッセージを打ち込む響。

 それを見やり、与鷹はぼうっとした頭を回転させた。おもむろに立ち上がる。


「ぼくは何をしたらいい?」

「テント張るのを手伝って」

「分かった」


 すぐさま、我竜が運ぶテントに手をつける。ぐるぐるとテープで巻かれた黒い布には、軽そうに華奢きゃしゃな骨組みがあった。


「本当は空気で膨らませるドームがいいんだけど、費用が足りなくて。で、キャンプが趣味の森崎先生に頼んだら作ってくれたんだ」

「へぇぇ」


 大学教授の趣味まで把握していることにはあえて触れないでおく。

 彼の交友関係は謎だが、長く学校にいれば大きなテントを作ってもらえたり、風呂を借りたりできる相手が多くなるんだろう。一人で気ままに生活しているのかと思いきや、案外人脈が広いのかもしれない。


 テントはキャンプに使うようなものではなく全部が真っ黒で、また骨組みを伸ばしていけば、天井に届くほど大きなドーム型に組み上がった。投影機を中心に置く。双眼鏡や懐中電灯の光源を使い、真っ暗なテントの中で投影機にレンズのユニットを六角形の型にはめこんでいく。丸い投影機は六角形をつなぎあわせた正二十面体の形になった。

 こうして即席のプラネタリウムが出来上がったころには、外は暗がりを帯びる夕方へさしかかっていた。


「おっつー」


 玄関から町田の声が聞こえてくる。彼女は部屋に入った途端に「うわぁ!」と驚いた。


「なんじゃこりゃあーっ! すっげーのができてる!」

「町田、おつかれ」


 テントの入り口から響が顔を出した。町田を呼び寄せる。


「おお、なんか天文部っぽいことしてるじゃなーい」

「天文部でしょ。ちょっとはこっちの手伝いもしてよね」

「夏休みは繁忙期はんぼうきなんだよー」


 町田は疲れた声で言い、テントの中に入ってきた。手に提げていたビニール袋を突き出してくる。


「アイス買ってきたよん」


 機嫌よく言い、全員に配ってまわる。箱入りのアイスキャンディだった。オレンジ味を引っ張り出す。響はりんご味で、我竜はソーダ味だった。町田はキウイ味を取り、さっそく包みを開けている。


「で、なんでまた急にを動かす気になったんですか」


 町田が聞く。我竜はアイスを食べながら投影機の様子を見ていた。「うーん」と生返事をしている。やがて、考えがまとまったように言った。


「みんなが元気になるように、かな」


 そう言ってアイスをかじる。ごく自然と出た言葉に、与鷹と響は気まずく顔を見合わせた。町田は察しが良く「やれやれ」とため息を吐いた。


「何かあったんすね」

「そうそう。いろいろと難しい問題に直面したからさ。景気づけに星でも見ようって話」

「なーるほど。納得」


 話が早くて助かる。

 余計なことを言わずに済んだので、与鷹は安心してアイスを食べた。爽やかに甘い。舌触りがいいので、このアイスはきっと町田が奮発したんだろうと勝手に想像する。


「よし、取り付け完了。未完成だから、ところどころ投影が欠けるだろうけど、そこはご愛嬌あいきょうということで」


 我竜はテントから出て、部室の電気を消した。

 真っ暗な闇に包まれ、互いの顔が見えなくなる。投影機の周りに全員が集まっているのに、息づかいしか聞こえず、何も見えない。ゴソゴソとテントに戻ってきた我竜が投影機のスイッチを入れる。

 途端に辺りは銀色の光で埋め尽くされた。暗闇に浮かぶ無数の点描。

 見回すと、六角形に抜き取られたような暗闇が四方の隅にあった。未完成の星空だが、町から見る夜空に比べれば俄然がぜん美しい。


「あー、やっぱり骨組みの部分がねぇ……空を遮るんだよなぁ」


 最初に沈黙を破ったのは我竜の落胆した言葉だった。すかさず響が返した。


「でもすっごく綺麗ですよ!」

「うん。投影は問題なさそうだね。響と与鷹が手伝ってくれたおかげだね」

「ほんと、お疲れ様だよー」


 我竜の言葉に町田が乗っかる。


「お前はちょっとくらい手伝ってくれよ」

「私は食料調達担当なので、それ以外のことはしないのだ!」


 両腕で大きな×印をつくる町田。その威張いばった言い方が愉快で、与鷹は思わず吹き出した。慌てて咳払いでごまかして星に集中する。

 数え切れないほどの星を間近に感じると、その光に吸い込まれそうになる。不思議な感覚だ。顔を持ち上げていると落下している気分になる。体が傾いていき、慌てて手をついた。


「あ、夏の大三角形はっけーん!」


 響が言った。


「どこ?」

「天の川があるでしょ、あの大きな星がベガとアルタイル。こと座とわし座の星」


 それは聞いたことがある。理科の授業でも教わった。有名な星座だ。


「やっぱ大三角は定番よねー。ニワカでもすぐ分かる」


 町田が笑いながら言った。天文部員でもあまり詳しくはないようだ。


「北極星を見つけたら、北斗七星がすぐ分かるよ」


 そう教えてくれるのは我竜だった。彼は投影ユニットの一つ一つを丁寧に触っている。どうやら、レンズのピントを調節しているらしい。


「うーん……北極星がぼやけてるな」


 何やらブツブツとひとりごちている。

 北極星はどれだろう。星が無数に散らばっているようにしか見えず、探すのは困難だった。


「実際、外で肉眼から見るほうが星を探しやすくはあるよね。本当なら線でつないだ星座図も投影したいんだけど、あいにく、そこまで手がまわらないので……これくらいしかまだ見せられない」


 ピントが合わないのか、だんだん声がしりすぼみになっていく。やがて、我竜は集中して空を眺めていた。どうも一箇所だけ、ぼんやりとしか映らない星がある。鮮明でない光だったので、与鷹もようやく見つけることができた。


「ねぇ、輝先輩、これくるくる回してもいい?」


 投影機に手を伸ばす響。この手を我竜は素早くつかんだ。


「ダメ。僕がやる」


 ピント調節を諦めたようで、また響の手から逃れるために投影機を守った。そして、接続しているスイッチを操作する。ゆっくりと球体が回転し、同時に空も回る。星の粒が流線りゅうせんいた。


「うわぁ」


 思わず声が漏れた。息を飲むほどの圧倒。線は空が回るごとにすぐ消えてしまう。それでも流線を追いかけ続ける。


「元気になった?」


 聞いたのは我竜だった。響を見ると、彼女は満面の笑みを向けている。与鷹も口を緩めて笑った。


「うん」


 胸のつっかえも黒い感情も、まだ残っている。完全に傷が癒えたわけじゃない。でも、こんなに美しい景色に囲まれていると気持ちは軽くなっていく。


「そっか。それなら良かった」


 我竜は安堵の息をついた。彼はずっと気にかけてくれている。その気持ちが素直に嬉しい。


「ゆっくりでいいんだよ。今すぐに受け入れろなんて言わない。それに、受け入れなくてもいい。ただ、君が身を守るために……君がこの先、他人を傷つけないためには、やっぱり知る必要があるんだよ」


 その言葉は、なんだか無性に寂しかった。

 すべての事象には理由がある。その理由を知るには、大きな壁を越えなくてはいけない。

 与鷹は彩り豊かな星空の下で、誰にも見えないように手のひらをぐっと握った。

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