光源④

 響は正門を飛び出して、アパートまで走った。

 息を切らす。全力で走れば、頭に広がる黒いものから逃れられると思った。もう吹っ切れたと思っていたのに、嫌な記憶というのはしぶとく残っているものだ。

 考えないようにしよう。記憶にふたをする。

 まったく、あの先輩はたまにああいう鈍器のような言葉を平気で投げつけてくる。それもわざと。


「分かってる。ああやって先走るから良くないって……」


 でも、気持ちはなかなか切り替えられないものだ。

 それに、我竜だって正しい答えを述べたわけじゃない。あくまで、彼の考えだ。


 ――この目で確かめなくちゃ、納得できない。


 響はアパートの駐輪場に停めていた自転車を乱暴につかんだ。サドルにまたがり、ハンドルを切る。そして、一気に坂を駆け下りた。

 最寄駅まではひたすらに坂を下るしかない。この坂を行ったり来たりするには車が便利だが、駐車場の問題もあって自転車の方が好都合である。

 夏の風はぬるく、もったりとしていた。直に顔で受け止める。やがて、坂の終点が見えてきた頃には平坦な町が見えてきた。そこからペダルを漕いで最寄の地下鉄まで走る。


 今から有馬家へ乗り込むつもりだ。スマートフォンの画面を開けば、時刻は十六時。

 確か、与鷹の母親は十八時前に帰宅する。勤め先の工場からスーパーへ買い物をして帰ることは知っている。

 だが、大事な息子が家出しているのだ。そう悠長ゆうちょうではいられないだろう。ナオの嘘を信じきっているのも怪しいものだ。

 そんな考えをモヤモヤと頭の中でこねくり回している間に電車が風とともに走ってくる。迷わず電車に乗り込んだ。


 ***


 信号に捕まらなければ、ストレートで辿り着けそうだ。時刻は十七時。少し早く着きそうだが、その場合は向かいにある実家で待機したらいい。

 響は辻を通るたびに、ドキドキと心臓の焦燥を感じていた。


 この目で確かめないと納得できない。与鷹にも内緒で勝手なことをしているのは分かっているが、もうあとには引けない。

 その時、横を自転車が通り過ぎて行った。買い物した袋をカゴに乗せて走る女性。切りそろえた髪は、遠目から見ると随分とくたびれていた。その後ろ姿は昔から変わらない。間違いなく与鷹の母親だ。

 響は意を決して駆け寄った。


「おばさん!」


 女性の自転車が肩を上げて止まる。

 ブレーキ音が響き渡り、彼女は怪訝に眉をひそめて振り返った。


「こんにちは。お久しぶりです」


 警戒する女性に、響は愛想笑いを向けて近づいた。

 しばらく困惑に固まっていたが、やがて彼女は警戒を解くように顔をほころばせる。


「あら、響ちゃん!? 久しぶりねぇ。美の里大学に入ったって聞いてたのよ。なんだか派手になっちゃって、全然分からなかった」


 途端にせきを切ったように話し出す与鷹の母。その愛想の良さは昔とまったく変わらない。響は面食らいながらも明るい声を返した。


「イメチェンしてみたんですよー。えへへ」

「染めないほうが似合ってたのにねぇ。でも、元気そうで良かったわ」


 ――あれ、おかしいな。


 フレンドリーな与鷹の母。

 その顔には「息子たちが家出した」なんていう悲壮感はどこにもない。目尻はシワがあり、顔色が優れないように見えるが、それでも気さくに笑う。

 この違和感に響は思わず笑いが引っ込んだ。


「えーっと……あの、ナオは元気ですか? 最近、会ってないから気になって」

「あら、聞いてないの? ナオは桐朋館の寮に入ったのよー」


 怯むかと思えば、むしろ自慢げに話してくれた。違和感がさらに大きくなる。


「あ、そうなんだ。じゃあ、ヨダは?」


 咄嗟に方便を投げた。与鷹の母をじっと見つめる。いっぽう、彼女はわずかに頬を引きつらせたが、口元には変わらず笑みを湛えていた。


「元気よ。元気すぎて手がかかるの。家出したっきり連絡もつかないんだから、何をしてるのか分からないのよ」

「えっ?」


 思わぬ答えに響が怯んでしまった。表情に出てしまう。顔を引きつらせていると、与鷹の母は細めた目を開いた。


「あら、響ちゃん、知ってたの? うちの与鷹、どこに行ったか知ってる?」

「え……それは、」

「もしかして、響ちゃんがナオと与鷹をたぶらかしたの? そうなの? だって、おかしいと思ったのよ。急に反抗的になっちゃって、二人とも」


 開いた目が近づいた。それに圧倒され、響は後ずさる。しかし、与鷹の母はしつこく迫ってくる。


「ねぇ、響ちゃん……与鷹、お家にいるのかな?」


 そう言い、与鷹の母は響の自宅を見上げた。その目が暗がりを帯びていることに気がつく。


「い、いないよ。て言うか、ヨダが家出したなんて信じらんないし、知りません」

「そうなの? あなたたちって、昔はよく三人でかくれんぼしてたじゃない。響ちゃんのお家でよく遊んでたし、てっきりそうなのかなって思ったんだけど。嘘じゃないよね?」

「はい」

「ふうん? それならいいんだけど」


 与鷹の母はまだ家から目をそらさなかった。じっと響の家を睨んでいる。建て替えたばかりの新品な家を。

 その視線が怖く、足がすくんだ。どうしたらいいか分からなくなる。ただ漠然と恐怖を覚える。

 すると、家の窓がからりと音を立てた。すぐさま振り返ると、響の母が顔をのぞかせていた。


「響? 帰ってるのー?」


 その声に響はしがみつくように玄関をつかんだ。響の母がキョトンとした顔を向ける。その目は与鷹の母を見た。


「あら、有馬さん!」


 こちらの事情を何も知らないから、響の母は嬉しそうに笑って手を振った。与鷹の母も先ほどの暗い表情を消し去って笑顔を向ける。


「野中さん、こんにちは。響ちゃん、立派になったわねぇ。見違えるほど可愛くなっちゃって」

「ありがとうございます。最近はお互いに忙しいから会わなくなっちゃったわねぇ。ナオくんと与鷹くんは元気? 最近、お家が騒がしいからちょっと心配してたのよぉ」


 響の母は自然と会話を広げていった。娘の蒼白な顔には気づいていない。そして、与鷹の母が顔を引きつらせたのも気づかない様子だった。


「えぇ、まぁ。男の子二人は手がかかって困っちゃう」

「そうよね、大変よね。わんぱく二人なんて、私がお母さんだったら耐えられないもの」

「ちょっとママ……」


 思わずたしなめる。


「有馬さんも忙しいから、今日はこの辺で」


 よそよそしく言うと、響の母は残念そうに娘にふくれっ面を見せた。そして、すぐに与鷹の母を見る。


「ごめんなさいね、呼び止めちゃって。またゆっくりお茶でも」


 与鷹の母はぎこちなく笑った。くるりと踵を返して自宅へ逃げ込んでいく。鍵をかける音が大きく鳴った。

 響はようやく止めていた息を盛大に吐き出した。あえいで空気を吸い込む。頭は真っ白だ。

 背筋に寒気がぞくりと触ったような気がした。腕には鳥肌が立っている。心臓はショックのあまりに縮み上がっている。言いようのない恐怖。不気味。正体がつかめない奇妙な感覚。あまりにも空気が悪い。


「響。ねぇ、響ってば」


 声をかけられ、ようやく我に返る。


「どうしたの? 顔色悪いよ?」


 母にごまかしは通用しない。響は顔を伏せた。


「ママ、あれは感じ悪いよ」


 思わず言うと、母は「えー?」と首をかしげた。何が悪いのか察してくれない。しかし、母は知りようがないのだ。ついさっきまで自分がそうだったように、他人の悪意にはどうにも鈍感で無知だ。


 ***


 与鷹はこっそりと部室棟の一階にある共同トイレにいた。誰もいない。大学も夏休み中なので、この辺境までやってくる学生はそうそういないらしい。

 しかし、万が一見つかった場合が怖いので隅っこの個室にこもった。狭いし古いし臭いが仕方ない。

 響が帰らないことも心配だったが、兄へ連絡をしてみようと勇気を出している最中だ。これを我竜は止めはせず、何も聞かずにいてくれる。


「……よし」


 気合いを入れる。そして、今朝に閉じたきりのスマートフォンに電源を入れた。暗い画面が明るくなる。その光に目を細めた。


 覚悟はしていたが、改めて通知の量がすさまじく、うんざりとしてしまう。そのどれもが母であり、たまに父の不在着信もあった。兄からは今朝の電話とメッセージだけである。

 与鷹は兄へ連絡する前に、母からのメッセージを開いてみた。ほんの好奇心だった。

 帰ってきてほしいと言ってくれるだろうか。淡い期待が捨てきれない。心は拒絶しているのに、気持ちはグラグラとどっちつかずのままだ。

 恐る恐る目を通してみると、そこには膨大な文字があふれていた。


『どこにいるの?』

『返事くらいしなさい。家出のつもり?』

『お兄ちゃんに聞いたけど、寮にいるの? だったら早く帰ってきなさい』

『お兄ちゃんに迷惑かけちゃだめよ』

『ねぇ、どうして返事をしないの?』

『何か怒ってるの? 言ってくれなきゃ分からないでしょ』

『そっちがその気なら、もう勝手にしなさい』


 羅列られつする母の言葉。

 無情だと思う。どこにも罪悪感が見当たらない。ほしい言葉が一切ない。


「……なんで分かってくれないんだよ」


 スマートフォンの画面に訴えても意味はない。そして、自分のこの気持ちも随分と身勝手なものだと思った。兄が言っていたことを思い出す。


 ――あの人、懲りてないから。


 本当にその通りだろう。ここまでしても、母には届かない。

 無言の抵抗は効果がなかった。無意味な逃亡だった。当たり前だ。だって、家族の繋がりは破綻しているのだから。


「くそっ!」


 いらだちが募る。与鷹は便器を蹴った。硬い陶器は音をわななかせたが、飛び出た暴言を隠してくれるほどの威力はなかった。スマートフォンを床に叩きつければ、今度は震え上がるほどの破壊音が響いた。

 悔しさと虚しさが同時に込み上げる。つま先が痛い。猛烈に痛い。しびれにも似た痛みが上昇していくと、心にヒビが入った。



 兄へ連絡する気にはなれず、また忍ぶことも忘れた与鷹はふらりとトイレから出た。

 その瞬間に、灰色の髪の毛とばったり出くわす。響だった。


「ヨダ、何してるの」

「トイレ」

「あ、そう……そうね、あはは」


 響の様子もおかしい。彼女は首をもたげるように、部室棟の最上階を見上げた。


「部室、戻ろう」


 語尾が震えている。これは聞かずにはいられない。


「どうしたの?」

「え、あ、いや……あの、ちょっと有馬さん家に行ってきてね」

「は? 家に行ったの?」


 つい、声に棘を含ませてしまった。響の肩がびくりと上がる。


「ごめん! 勝手なことして。でも……ようやく分かったよ。おばさんのこと、分かったと思う」


 響はすがるように与鷹の腕をつかんだ。そして、無理やり自分の胸に引き寄せる。


「ちょっと、響ねーちゃん」


 慌てて飛びのこうとしたが遅く、彼女の手を振り払うことができなかった。熱い。響の熱か、与鷹の熱か。その境界が分からなくなる。

 響は与鷹の肩に頭を乗せて小さく言った。


「怖い……すごく、怖かった。お願いだから、しばらくこのままでいさせて」


 それまでセミがうるさかったのに、響の涙が落ちたと同時に辺りはしんと静かになった。


「……何があったの?」


 努めて優しく聞いた。すると、彼女は鼻をすすりながら言葉をゆっくり選ぶ。


「おばさんに会ってきた」

「それで?」

「たぶらかしてるんじゃないのって疑われた」

「まぁ、間違ってないよね」

「そうだけど、でも、あの目が怖くて……悪意ってやつかな、そういうのを感じた。すごく責められて、怖かった」

「それが母さんのやり方だからね」


 与鷹はため息を吐いた。そして、熱っぽい響から離れようと身をよじる。離れた響の顔が涙で濡れている。その様子に罪悪感を覚えるも、与鷹は無情に言い放った。


「ぼくもさっき、母さんからのメッセージを見たんだ。先輩にああは言われたけど、ちょっと期待してたんだよ。母さんはぼくを必要としてるんじゃないかって。家族とか子どもって、無条件に愛されるものなんだよね? でも、そうじゃないんだ」


 画面にヒビが入ったスマートフォン。ガラスの向こうは、呪いのような言葉。これを響は驚愕きょうがくの目で追いかける。


「心配してほしかったよ。それが自分勝手なものだって分かってる。でも、必要とされたかった。帰ってきてほしいとか、ごめんとか、せめて一つでも自分に罪悪感を持ってほしかったんだ。自分が何をしてきたのか、考えてほしかった」


 どんな目に遭おうとも、家族のきずなとやらを信じていたのだろう。

 絶対になくならない普遍的ふへんてきなものだと思っていた。どんなに諦めていても、どんなに恨んでも、どんなに周りから忠告されても、どんなにいびつでも、愛されていると思いたかった。どうなんだろう。もう自信がない。


 響はもう何も言わなくなった。あの暑苦しい正義感が出てこない。彼女は怯えきっている。生ぬるい仕打ちだけでこうも悲しめるなんて、平穏な家庭に育ったからだろう。


 与鷹はだんだん怒りが抑えられなくなった。イライラする。この腕を掻っ切りたい気持ちになる。喉を締め付けてしまいたくなる。

 それを堪えるには、言葉で自分を攻撃するしかなかった。喪失が止まらない。


「ぼくに家族なんていないんだよ」


 いないことにしないと、心が黒ずんでいくだろう。いや、もう手遅れだ。壊れていると指摘されたばかりじゃないか。


「響ねーちゃんの家みたいな、そんな家に生まれたかったなー」


 揺るぎない正義感を持つことができる響がうらやましい。うらやましくて、妬ましい。そんな自分が情けなくて喉が震えた。

 言葉にするとおぞましくなり、背中に寒気が走った。もしかしたら、兄もこんな気持ちを抱えていたのかもしれない。


「バカなままでいれば良かったのに」


 何も考えずに、ただ自分が悪いのだと漠然ばくぜんと思っていたころの方が、幸せだったのかもしれない。

 毎日生きるか死ぬかの瀬戸際せとぎわ綱渡つなわたりの状態でいれば良かった。こんなことなら、気づかない方が良かった。怖いのは無知ではなく、好奇心こうきしんだ。


「やめて! もう、そんなこと言わないで……お願いだから」


 与鷹は視線を上げ、響を見た。涙を流しながら前を見ている彼女の顔に、心臓が締め付けられる。急激に喉が狭まって、鼻の奥が水っぽくなった。眉間が痛くなる。まぶたが熱い。奥歯を噛み締め、声を押し殺さなければ耐えられない。


「こんな時くらい、大声で泣けばいいのに」

「そんなの、できるわけないだろ……」


 せめて強がらせてほしい。響が泣くから、余計に耐えていたい。でないと、もう立ち上がれない気がした。

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