光源③

 家族の関係が破綻はたんしているなんて。そんなこと、考えもしなかった。

 狼狽ろうばいの目で響を見ると、彼女は苦々しい顔をした。納得しているんだろう。

 しかし、与鷹はまだ受け入れられない。忙しなく目を泳がせていると、我竜がため息を吐いた。


「僕の家族を例にあげよう」


 若干の恥ずかしさを笑いに含ませながら、彼は淡々と語り始めた。


「父さんと母さん、僕と妹の四人暮らし。穏やかで平凡で、僕はとくに学校や周囲に恵まれていたから、それなりに平穏な毎日だったよ。家族の関係も、そりゃあ喧嘩けんかすることもあるけど、意見が合わないときは話し合いをするから即日解決する方針で。どちらかと言うと、僕や父さんは主張が弱いから、母さんと妹の意見が通りやすいんだけどね」


 そう言って、ちらりと顔を上げて笑う。照れ隠しの笑みだった。


「これが普通だとは思ってない。一般的な家庭なんて存在しないんだ。でも、平均的だと思う。他人に自慢できるほどに突出したものはないけど、暴力や暴言でねじふせるようなことは一切ない」


 言葉が重くのしかかる。

 なんだか絵に描いたような家族を想像するが、自分の家族と比較して余計に惨めな思いになってくる。

「普通」は存在しない。自分の家が普通だとは思っていない。でも、育った環境が世界のすべてだったから、単純に彼の家族がうらやましく思えた。


「あたしは、パパやママに怒られることはなかった」


 響もゆっくりと加わる。その声には与鷹への配慮があり、弱々しかった。


「ママはのんびりしていて優しいし、パパはあたしのこと甘やかしすぎだし。やりたいことはなんでもさせてもらえた」

「おばさんもおじさんも優しいよね。知ってるよ」


 与鷹は幼少の頃を思い出した。

 家で留守番をすることが多かったので、兄と一緒に響の家に預けられていた。いつもケーキを出してくれて、響の母は穏やかに笑っていた。温かい家だと思う。


「ねぇ、ヨダ。どうしてこんなことになったの?」


 響が聞く。一歩引いたところで俯瞰ふかんする我竜とは違い、響はすんなりと心に入り込もうとした。


「ヨダの家も昔はこんなじゃなかったでしょ。あたしが知る限りじゃ。おばさんだって、怒ると怖いけど優しかったもん。ナオとヨダと一緒にご飯食べたり、遊んだり……あたしたちは幸せだったはずよ」


 懐かしいことを思い出させてくる。与鷹は数年前のことを思い返した。

 あれは、みんながまだ小学生の頃だ。お互いの両親がいないときは夕飯を囲んでいた。休日は家族ぐるみでキャンプにも行った。あんなに無邪気な子どもでいられたのに、いつの間にか交流もなくなってバラバラになった。


「そりゃ、あたしが中学に上がってからは遊ぶことも減ったけどさ。でも、あたし、今でも信じられないんだけど、優しかったおばさんがどうしてこんなことをしたのか、その理由が知りたいよ」

「響ねーちゃん……」


 ――そんなの、まやかしだよ。


 胸の中に潜む黒い何かがヒソヒソと言う。

 今の話を聞いた上で、これ以上黙っていられるわけがない。胸の奥に押し込んだ黒いものが首をもたげている気がする。


「始まりなんて、分からないよ。いつの間にかこうなってたっていうか……でも、先輩が言うように家族の関係が『破綻』したのは、やっぱり一年半前のことだと思う」


 与鷹は慎重に頭の中で言葉をつむいだ。それを口にするのをためらいつつ、吐き出してみる。


「もともと、母さんは怒ると怖かった。お金がないとか、仕事がつらいとか、そういう言葉が増えてきて。結構、嫌味ったらしいんだ。感情的になると、人が変わったようになる」


 響が見ていたのは、母の側面であり、結局はうわべだけしか知らない。傍目はためからは優しいお母さんだったのだといまさら認識したが、与鷹にとってはそうじゃない。


「機嫌がいいときは優しいよ。でも、機嫌が悪いと手をあげる。それは昔からなんだよ」


 その度に兄がかばってくれたのだが、裏目に出てひどい仕打ちを受けていたことは与鷹も知っていた。知っていて、甘えた。理不尽に怒られても兄がどうにか場を収めてくれるから、その状況に慣れていた。

 するとどうだろう。兄がいなくなれば、自分一人では何もできない。母を怒らせることばかりで、どんどんひねくれていって、結果がこれだ。


「与鷹。お母さんは、例えばどんなことで怒るの?」


 我竜が静かに聞く。心はすでに傾いている。与鷹は小さな声で告白した。


「些細なこと。例えば、プリントを提出しなかったとか。その日の気分によって注意か、それ以上か。機嫌次第で変わる」


 具体的には言いたくない。頭の中で母の険しい顔が思い浮かんだ。声をかすめ取られたかのように、言葉が出てこなくなる。

 我竜は目を伏せて、嘆息たんそくした。


なぐる、る、罵倒ばとうする――くらいなら僕だって想像はつく。でも、現実はもっと過酷かこくなんだろう」

「ヨダ、もうこの際だから認めて。あんたが受けてるのは虐待ぎゃくたいだよ」


 響の言葉がどうにも重たい。我竜でもぼかした言い方をしたのに、響は空気を読まずに言い切った。

 言葉の重みに耐えきれず、与鷹は口元をゆがめた。それこそリアリティがないように思え、つい笑ってしまう。


「虐待なんて。そんな、大袈裟な……」

「大袈裟なことだよ! なんで笑うの? 私、真面目に言ってるんだよ!」

「響、そんな風に言われたら、与鷹だって話したくなくなる」


 すぐさまなだめに入った我竜の声は鋭く尖っていた。


「お前の悪いとこはそこだよ。先走るなっていつも言ってるでしょ」


 低い声音がわずかにいらだつ。場の温度がさらに下がる。

 扇風機とエアコンの風だけじゃなく、空気がひりついていた。


「……でもまぁ、一つだけ分かったのは、与鷹の認識が僕らと外れているってことだね。ということは、兄貴も親もそうなんだろう」


 しばらくの沈黙後、我竜が穏やかさを戻して言った。彼の目は優しい。人差し指を伸ばして、あとを続ける。


「そもそも、僕らと認識が違うんだよ。身体的暴力が当たり前になっているんだから、どちらもこれが『悪いこと』であるとは気づいていない。気づいていても、心理的に倫理観へふたをしているんだろうね。そして、残念なことにこれはそう珍しいことでもない」


 与鷹は眉をひそめた。サラサラと流れる言葉を脳内処理するには、やはり難しい。響を見ると、彼女は何か思い当たる様子で顔を引きつらせた。

 我竜は床に散らばった設計図とマジックペンを拾い上げた。そして、ロッカーの上で与鷹と響を手招きする。二人は素直に彼の周りに集まった。裏返した白紙の真ん中に黒い丸が描かれる。


「僕は常々、人の心理について考えることがあってね。心が見えすぎると余計なものまで見えるんだよ。それで、今回のケースを改めて考えた。図解しよう」


 そう言いながら、彼は中央の丸に「A」を書く。そして、その周りに「B」という大きな丸を書いた。


「このBというのは発言力の強い、権力者みたいなものだね。さて、このBがAを攻撃します。例えば『お前はバカだ』と言ったことにしよう。一度なら、Aはそこまで気にしないかもしれない。気にするかもしれない。これをほっとくと、Bはますます調子に乗ってAを攻撃する」


 Aの周りに×印を書いていく。そうすると、丸はトゲだらけになった。そして、Bは二重丸で囲まれる。もし、これが大多数だったら――もし、これがただの図ではなく人だったら。与鷹はこのトゲだらけの黒丸が自分の顔に見えてきた。


「最初がどうであれ、マイナスな言葉や過度な攻撃、恐怖は人を洗脳する。Aは自分が『バカ』だと思い込む。落ち込んで元気がなくなると、Aは抵抗力を失う。負の感情で抑圧されていく。それがどんどん溜まって……脳が壊れる」


 マジックペンがAを塗りつぶしていく。跡形もなく真っ黒に染まった。


「要は、処理できなくなってパンクするってこと。人間の脳はそこまで賢くない。神経をつかさどる脳は司令塔みたいなものだから、これが壊れると人間の機能全てに悪影響が及ぶ。体と心が死んでしまう。そうすると、簡単に操作されてしまう。洗脳せんのうだ。与鷹もいま、まさにこの状態。本当に危ないところまできている」


 指摘されてもすぐには信じられない。

 我竜を見ると、真剣な目がこちらをのぞ覗いていた。

 突きつけられた現実に動揺して頭が真っ白になる。それを察したか、我竜は目を紙に落とした。ペン先を叩く。


「でもね、問題が発覚したあとでBはこう言うよ。『そんなつもりはなかった』、『Aのために言ってあげた』、『冗談のつもりだった』。いくらでも自分を正当化するよ。だって、BにはAを傷つけたという自覚がないんだから。それに、もしかするとBも同じように、誰かから洗脳されているのかもしれない。何より、一番怖いのは無知だ」


 与鷹はごくんと唾を飲み込んだ。

 そんなつもりはなかった、と言う言葉はつい最近も聞いた。首を絞められたあとに、母から白々しく言われものだ。


「……これで分かったかな、響」


 我竜は与鷹ではなく響を見ていた。彼女の顔色が悪い。目を大きく見開いて、悪しき縮図を凝視していた。その空気が殺伐さつばつとしていて、与鷹は首をすくめた。

 やがて響は顔をくるりときびすを返した。黙ったまま部室を飛び出していく。


「響ねーちゃん?」


 たまらず声をかけるも、その足は速く、バタバタと階段を駆け下りる音だけがドアの隙間に入り込む。遠ざかり、重い鉄扉がバタンと音を立てて閉まった。


「……これで少しは頭が冷えただろう」


 我竜は気まずそうにも、呆れた口調で言った。


「どういうこと?」


 聞くと、彼は片眉を持ち上げて与鷹を見る。


「実は、あいつもそういう目に遭ったことがあるんだ。でも、今はあの感情的な正義感が邪魔だ。刺激が強いからね」


 思いもよらない言葉に与鷹は両目を見張った。知らなかった。

 いつも気丈で明るい、お節介せっかいだけど頼りになる幼馴染が、そんな目に遭っていたなんて。


「やり方は荒っぽいけど、どうせすぐに戻ってくるよ。それよりも、まずは君のことが最優先だ」


 悪びれているわりには我竜の声は妙にあっさりと冷めている。

 テキパキと話を進めていくので、頭の回転が必要だった。沈んでいる場合じゃない。


「さて、僕はもう少し君の事情を知りたいんだけど……一年半前に何があったのか、教えてくれるかな?」


 与鷹は目を泳がせた。言葉は喉元まで出かかっている。

 響が席を外したから、心は余計に傾いていた。こうも家庭環境のカラクリを紐解かれてしまっては認めざるを得ないだろう。やがて、与鷹は脱力し、頭を垂らして口を開いた。


「……兄ちゃんが家を出て行ってから、母さんの言葉が暗くなった。あんなに頻繁ひんぱんに気分が落ち込むことはなかったと思う」


 記憶のふたをこじ開けよう。一年半前に始まった地獄のような日々を思い出す。すると、胸の中にあったあの黒い物体が顔を上げた。笑っている。笑いたくないのに。


「志望校を決めてすぐ、兄ちゃんは学校の寮に入りたいと言い出して……受験期間中はずっと母さんと喧嘩してた。母さんの無視から始まって、兄ちゃんの夕飯が用意されなくなった。でも、母さんが怒った時って、それが普通で。だから兄ちゃんも意地になって、一切口をきかなくなった。父さんに頼んで寮の手続きを終えて、何も言わずに出て行ったんだ」


 あの日は最悪だった。父が許したばかりに、それを知った母は父と大喧嘩した。

 しかし、それは一方的に母が攻撃しているだけに思える。部屋に引きこもっていたが、母の罵倒とむせび泣く音しか聞いてない。


「母さんはしばらく家にこもってたよ。ずっと部屋にこもって、何かブツブツ言ってて」

「それを、与鷹はどう思った?」


 我竜は穏やかに聞いた。静かな横槍に言葉がつっかえる。

 しかし、黒い物体は素直に言葉を頭の中で紡ぐ。それを、与鷹の口を通じて話した。


「気持ち悪いって思った」

「そう……」


 相づちには呆れが混じっていた。

 それが与鷹に対してなのか、兄か、母か父かは分からない。ともかく、有馬家の実態に心底呆れているのだろう。


「でも、そんなこと思っちゃダメだって分かってる。ぼくがおかしいんだって」


 堪らず言うと、言葉があふれた。それを遮ろうと我竜が口を開くが、与鷹は構わず続けた。


「本当はそう思いたくないのに、大嫌いだと思ってる。でも、嫌いになれない。よく分からないけど、簡単に切り捨てることができないんだ。でも、母さんなんかいなくなれって、思ってしまうこともある」


 彼がどんな顔をしているかは窺えない。顔を上げるのが怖い。

 最低なことを言っている。最低な子どもだ。親不孝ものだと笑ってほしくなる。


「うーん、そうだねぇ。大方、見えてきたよ」


 自責に駆られていると、我竜ののほほんとした声が上から降ってきた。ちらりと顔を上げると、彼は満足そうにあごをさすっていた。


「全ての事象には必ず理由がある。それを追及することで、初めて『知る』ことができるんだよ」


 彼の言葉は慰めなど一切なく、ただ結論を述べる授業のようだった。そんな口上を前に、与鷹は呆気に取られて目を瞬かせる。


「事の始まりを探る必要があるんだ。この事態を引き起こしたルーツみたいなものだね。そして、初めて僕らは『過程』を知ることができるんだ。言ってること、分かる?」

「全然分からない」


 しどろもどろに返すと、我竜は口をへの字に曲げた。そして、設計図の裏紙に「過程」と大きく書いた。


「全ての事象には理由がある、と僕は信じている。結果には必ず過程があるんだ。すべて、イコールで説明ができるもの。方程式といった方がいいかな」

「方程式……」

「そう。この場合は、お母さんがどうしてそこまで追い詰められているのかっていう事情かな。さながら、家庭の過程を探ればいいってことだね。あはは」


 最後の洒落しゃれはちっとも面白くないが、彼の言いたいことはなんとなく分かった。


「どうやって探ればいい?」


 聞くと、我竜は含むように唸った。


「やっぱりここは兄貴に話を聞こう。兄貴が出ていった詳しい理由を知りたい」


 なるほど。確かに、兄が家を出ていった理由は分からずじまいだ。母が何度も説得していたが、与鷹の知る限りでは理由は一切述べられていない。これがすべての始まりなら――あるいは引き金となっているのなら、やはり兄の協力が必要だろう。


「先輩」


 与鷹は慎重に言った。


「ぼく、兄ちゃんと話がしたい」

「よし、よく言った。僕はその言葉を待っていたよ」


 我竜はふんわりと優しく笑った。それが、どうにも昔の兄を思わせる。

 優しかったはずだ。兄も母も父も、みんな壊れているなんて、今は思いたくない。ほんの少しの優しい思い出を信じたい。そのためには、いつまでも逃げてはいられない。

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