光源②

 天井から目をそらし、横になったままでいると、やがて玄関が騒がしくなった。

 重い扉が開閉する。コンビニの袋がかさつく音がし、目を向けると、我竜が帰って来たことが分かった。


「おはよう、与鷹」

「おはよう、ございます……」

「朝ごはんを買ってきたんだ。もう起きるなら、一緒に食べよう」


 彼は今朝も清々しく、昨夜に見せたような憂さはまったくない。今日は黒縁くろぶちのメガネをかけている。

 与鷹は目をそらした。心細かったことをさとられたくなかった。


「寝ててもいいけど、僕、作業するからね。ちょっとうるさいかもしれない」


 どうやらこちらの食欲まで見透かしているらしい。与鷹はむくりと起き上がった。


「まだ顔色が良くないね」


 我竜の顔は穏やかだったが、声には心配が含まれていた。それがどうにも子ども扱いされているようで、つい反発する。


「大丈夫」

「大丈夫ならいいけど……クリームパンとジャムパン、どっちがいい?」


 袋から出してきたのは、やはりパンだった。今度は菓子パン。それがますます子ども扱いのように思え、与鷹は口の端をキュッとつり上げた。皮肉っぽく言ってみる。


「先輩の味覚って、子どもっぽい」

「ん? えっ、なんで? 朝は菓子パンと牛乳がテッパンでしょ」


 パンと一緒に差し出された紙パックの牛乳は、よく冷えている。水滴が浮かんでいた。


「菓子パンだって美味いんだから。それに、朝の糖分補給は必要不可欠なんだよ。さ、どっちがいい?」


 昨日同様に選択を迫られる。与鷹は迷っているふりをして「うーん」と唸った。

 とくに考えているわけではなく、実際にどちらでもいいのだが、選ばないと事が進まない。辛抱しんぼう強く待たれると余計に焦ってしまい、思い切って手を伸ばした。

 つか掴んだのはクリームパン。袋を破る。

 いっぽう、我竜は満足そうにロッカーへ行き、定位置でパンを潰すように袋を開けた。サンドされたジャムをはみ出さないように調節している。その不思議な儀式ぎしきを見て、与鷹は眉をひそめた。


「こうすると、ジャムが均等にパンの中までしみ込んでウマイんだよ」


 得意げに言い、彼はパクリと効果音が似合うように一口かじった。おいしそうに咀嚼する。素朴そぼくなパンでさえ高級な食べ物に見えてくる。与鷹も一口かじった。

 濃厚のうこうで甘ったるいクリームと、パサついたパンを口に入れても「ウマイ」とまでは思えなかった。


「あ、そうそう。さっき、響に会ってきたよ」


 我竜が言った。牛乳のストローを挿していた与鷹は顔を上げる。

 彼は澄ました顔で、ジャムパンをんでいた。


「でね、君の了承りょうしょうもなしに悪いんだけど、昨夜のことをかいつまんで報告しといたから」

「えっ?」


 昨夜のこと――母の幻影にうなされていたことだろう。そんな恥ずかしいことを響に知られるのは嫌だ。


「うん、ごめんよ。嫌だったのは分かるけど、響にもきちんと把握してもらわないといけないんだ。そもそも、今回の家出はあいつの発案だからね」


 我竜は牛乳のストローをくわえて、勢いよく吸った。そして、味を堪能たんのうしてからゆっくりと言う。


「あいつ、やっぱり怒ってたよ」


 話を聞けば、ナオからの急な連絡の意味が分かった。与鷹の知らないところで話がトントン拍子びょうしに進んでいる。

 わずか一日だけで響や我竜に多大な迷惑をかけてしまい、ますます情けないと感じた。それに、兄がこちらの心配を一切していないのだとも悟れた。響からの連絡で、ようやく弟の所在を知ろうと思いついたんだろう。トーク画面に映る文面を見ても、「仕方なく」といった様子がにじみ出ていて落ち込んでしまう。


「――兄貴から連絡はあった?」


 問われ、大袈裟に肩を震わせた。目をしばたたかせていると、我竜はしたり顔で笑っている。


「やっぱり。響には返事しないのに」

「ってことは、響ねーちゃんに連絡させたの?」

「お、鋭いね。まさしくその通り」


 悪びれるそぶりもなく軽く言われてしまう。与鷹は不機嫌に顔をしかめた。


「善は急げだ。どのみち、兄貴にも連絡がいくだろうから、早めに釘を刺しておかないとね」

「もう知られてるっぽい。でも、兄ちゃん、変な嘘を言って……」

「嘘?」


 ようやく我竜の顔から笑いが消えた。


「どんな?」

「えーっと、ぼくが兄ちゃんのところにいるって、親に話したらしい」


 おずおず話すと、我竜は黙り込んだ。何かを考えている。

 しばらく唸り、天井を見上げて「あはは」と笑った。


「なるほど。君の兄貴も、なかなかこじらせてるね。まぁ、そんなことをさせている親もどうかと思うけど」


 棘を含む言い方だ。


「先手を打たれたわけだ。どうやら敵は親だけじゃないみたいだね」

「どういうこと?」

「兄貴もあまり信用できないねって話」


 会ってもいないのに、我竜の言葉は力強く揺るぎない。

 兄にさえ猜疑心さいぎしんを向けなきゃいけないのはつらいものだが、そもそもの原因は兄にある。

 しかし、こうも決めつけられてはすんなり受け入れられるはずもない。


「なんで分かるの?」


 与鷹の不審な疑問に、我竜は天井を見上げたまま唸った。

 やがて、ゆっくり顔を正面に戻すと、左半分を手のひらで隠して真剣な目を向けてきた。声のトーンを低めて言う。


「これを言っておかなければならなかったよ」

「何を?」

「僕はね、他人の心が読めるんだ。そういう能力を持っている」

「えっ」


 何を言い出すのかと思いきや。

 左半分を隠したままで我竜は話を続けた。


「遠くにいる人の心も読めるんだよ。ありとあらゆる人間の心の奥底に溜まった叫びが手にとるように……ねぇ、そろそろつっこんでくれないかな」

「えっ。いや、だって、先輩ならありえそうだし」


 あまりにもバカげているとは思ったが、納得もできてしまうのだ。

 これに我竜は肩を落とした。膝の上で頬杖をつく。


「君、だまされやすいんだね」

「そうかもね」


 自嘲気味じちょうぎみに返した声は不機嫌そのものだった。



 ***



 昨日は簡単にしか説明してもらえなかったが、改めて作業工程についてを聞いた。

 プラネタリウムはおおまかに言えば、恒星こうせい(自力で光を発する星)の位置に沿って穴をあけ、光源を用いて投影するピンホール式と、恒星原板をとつレンズで介して投影するレンズ式のものがある。

 昨夜に見せてもらったピンホール式のプラネタリウムは、我竜いわく「作りがあまいと星がぼやける」のだそうだ。

 いっぽう、レンズ式も決して楽なものではないが、うまくいけばより精密に正確なプラネタリウムになるという。

 いまは、ドーム状の投影機に恒星原板とレンズを組み合わせた投影ユニットを作っている。その数は二十本。この工程に取り掛かっている最中だ。


「昨日の投影で、ますますやる気になったよ。うんと綺麗なものを作りたいね」


 我竜はレンズのユニットを組みながら言った。

 昨日と同様に、与鷹は原板の穴あけ作業を任されている。


「先輩と響ねーちゃんが作ってるの?」

「ほとんどそんな感じだね。みんな卒業しちゃったし、本気で打ち込む人がそうそういなくて」

「町田さんは?」

「あいつは、なんとなく天文部に入ってみたって感じだし、本気じゃないんだ。たまに手伝ってくれるけど」

「ふぅん」


 大学生というのは適当なのかもしれない。

 部活に入ったことがないから分からない感覚だが、がんじがらめに真面目でいなくていいのだろうと思った。


「与鷹は部活とか、授業で物を作ることはある?」


 ちょうど考えていたところに質問が飛んできた。

 彼は原板の穴から目をそらさない。その横顔に答えた。


「部活は入ってない。授業でなら、美術と技術があるけど……二年のときに小さなキャビネットを作った」

「あぁ、キャビネットね、懐かしいなぁ。僕もやったよ。あとは、ラジオも作った。はんだ付けだよね。電子回路を繋いだり」

「うん。それくらいしかやったことないけど、でも、楽しかった」


 黙々と作業をするのは向いている方だと思う。絵は苦手だが、工具で物を組み立てるのは不器用ながらも夢中になったものだ。

 ハンドドリルでアルミ板に穴をあけるのも、やっていくうちにのめり込んでいく。


「そういう、何か夢中で打ち込むのはいいことだと思うよ。何になりたいとか、将来の職業とか、先のことが見えなくても好きなことさえあれば、自由にやっていける」


 与鷹はアルミ板に目を落としたまま唸った。なんだか照れくさくなる。


「じゃあ、先輩の趣味はプラネタリウム作りってこと?」

「そうなるね。ライフワークみたいなものだよ。僕もここまでのめり込むとは思わなかったなぁ、あはは」


 こちらもどうやら照れくさいらしく、それきり我竜は何も言わなかった。窓際で黙々とユニットを組んでいく。ひとつひとつ丁寧に。

 それを見ていると、このアルミ板の一枚も慎重に穴をあけようと思う。

 これがどうなるのか想像はできないが、いわくこの穴が星になるらしい。穴に光を通すと、昨夜見たものよりももっと美しい、それこそ本物の星が天井をめるだろう。

 想像するだけでもワクワクする。こんな感覚がまだ自分にも残っていたなんて思いもせず、久しぶりに楽しかった。


「与鷹、あんまり集中しすぎると疲れるよー」


 いつの間にか窓から降り、冷蔵庫を開ける我竜が言う。

 ペットボトルのお茶を小脇に抱え、指に巻き付けていた輪ゴムで前髪をくくった。よく冷えたお茶を与鷹の横に置く。


「適度に休んで、ゆっくりやろう。時間はたっぷりあるんだし」

「うーん……」


 それでも手は止まらないので、生返事になってしまった。


「これはいい助手を見つけたなぁ」


 そんなひとりごとが聞こえてきたが構わず、会話もそぞろになってしまう。我竜も話しかけるのは諦めたらしい。

 扇風機が回る音だけが部室に流れる。この時間は、自分でも驚くほど好きだと思えた。静かに、ペースを乱さず作業を繰り返す。学校では時間が決められていて、あまり集中できないから無制限が解放的だった。

 それこそ、求めていた自由なんだろう――


「せんぱーい!」


 唐突に響の声が玄関先から聞こえてきた。

 そのやかましさに、与鷹の集中力は途切れた。ドリルを止める。


「先輩先輩先輩! ちょっと、聞いてくださいよー!」

「どうした、響?」


 なんだか慌ただしく部室に飛び込んできた彼女に、我竜はのほほんとした声で対応した。


「きーて! あのね! ナオが電話に出てくれないの!」


 その声は怒りの興奮だった。我竜を見ると、彼は「あはは」と笑いを上げた。そして、含みのある目で与鷹を見る。


「まぁ、それは想定内だよね」

「想定内?」


 響は釈然しゃくぜんとしなかった。しかし、今朝の段階でナオが応じないというのは明白である。

 与鷹は穴あけ作業を再開した。耳だけで事の成り行きを見守っておく。


「ちなみに、ナオはずっと無視してるの?」

「いや、でも、ようやく返ってきたメッセージがこれですよ! 『俺には関係ないから』って! まったく、関係大アリだっつーの!」


 実に兄らしい突き放し方だ。与鷹は苦笑を漏らした。作業の手は止めずに言う。


「確かに、兄ちゃんとは連絡とってなかったし、一年半も会ってないし。関係ないって思ってるよね」


 冷めた声で口を挟めば、たちまち怒りの発火剤が爆発した。響の顔は真っ赤にゆだっている。


「はぁー? 家族なのに、問題をほったらかしにするなんて意味分かんない! ヨダも納得しちゃダメ! もう、こうなったら学校に乗り込んで意地でも引っ張ってやる」

「響、落ち着けって。それもまぁ、想定内だったんだよ」


 我竜は涼しい顔を上げた。その冷ややかさに、ようやく響の怒りが止まる。彼女はパクパクと口を開いて閉じた。


「ナオが素直に応じるとは思ってなかったからね」

「でも、先輩が連絡したいって! だから……」


 あとが続かない。気になって二人の様子をちらちら窺っているが、与鷹にはこの二人の間に流れる温度差がいまいち掴めなかった。

 静かになる部室で、我竜が「あはは」と相づちの笑いを投げる。不謹慎ふきんしんとばかりに響が眉をつり上げた。


「今朝の件からして、ナオは与鷹の逃亡に加担する気ではいるんだろうけど、それが遠回しというか、ゆがんでるっていうか。まぁ、あの嘘は悪意もあっただろうけど」

「嘘?」


 今朝の件を知らない響である。目を瞬かせていた。

 これに、与鷹はスマートフォンを出した。兄からのメッセージを彼女に見せる。


「兄ちゃんが親に言ったんだ。ぼくの家出を知って、咄嗟に嘘をついたんだよ」

「何よそれ……」


 一体どういうことなのか分からず、響は混乱していた。そんな彼女をなだめようと我竜が言う。


「でも、学校に乗り込むのはいいかもしれないね。その時は与鷹を連れていけばいい」

「えっ」


 思わぬ提案に、今度は与鷹が動揺どうようした。


「話をしないことにはいつまでも足踏あしぶみしているままだ。兄貴だってそうだろう」


 この言葉に、与鷹も響も顔を見合わせた。

 兄も立ち止まったままだというのだろうか。どうにもせない。だって、兄は家族を捨てたじゃないか――

 そんなモヤモヤと渦巻く不快感に、我竜が鋭く切り込んでくる。


「有馬家は家族という繋がりがほとんど機能してないんだと、僕は思うよ」


 彼の声は平坦だ。そのせいで危うく聞き逃しそうになったが、その言葉の意味を頭の中で反芻はんすうしたら、その実態に寒気を覚えた。


「冷めた家庭環境以上の問題だ。想像をはるかに上回るほど、有馬家は家族の役割が希薄きはくだと思った」


 なんだか難しい言葉を多用するので、与鷹は響を見た。しかし、彼女も分かっていない様子だ。首をかしげている。


「簡単に言うとね、お父さんもお母さんも、兄貴も与鷹も互いを信頼していない。家族としての繋がりって言うのはさ、つまりは相互そうごの絶対的な信頼関係。それが一切感じられない」

「どうしてそう思うの?」


 思わず聞いてみる。すると、我竜は口の端を引き伸ばして困った顔をした。

 また「心が読めるから」とでも言いだすかと思いきや、彼は目を伏せて迷いながら言った。


「他人、だからかな……この関係に違和感を覚える。気持ち悪いなって思う。多分、与鷹もだろうけど、兄貴もお母さんもお父さんも無自覚なんじゃないかな。家族の関係が破綻してること」


 その言葉に、息を飲んだ。

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