第三章 光源

光源①

 早朝七時。陽が昇る空は薄群青うすぐんじょうに染まっていた。少し汗ばむほどのしっとりとした朝だ。

 我竜から連絡を受けた響は眠たい目をこすって、外を歩いていた。我竜からの電話で叩き起こされ、近所の喫茶店で待ち合わせ。

 なぜ、わざわざ部室ではなく喫茶店なのかは分からないが、与鷹のことで何かあったのだろう。滅多に外へ出ない彼のことだからよほどのことだ。胸騒むなさわぎがする。

 純喫茶スケルトンはレンガ造りの古めかしく重厚な外観で、内装もレトロだ。コーヒー色のソファとカウンターを見ると、Tシャツとハーフパンツで入ったことを後悔してしまう。


「いらっしゃい」


 フェルト帽をかぶった老店主が言う。何度も来たことはあるが、こんな時間から店を開けているなんて知らなかった。

 我竜はコーヒーを飲みながら、ソファに座って待っていた。


「輝先輩、おはようございます」

「おはよう、響。朝早くからご苦労さま」

「ううん。ヨダのことで先輩に迷惑かけちゃってるし、これくらいなんともないですよ」

「すっぴんで外出させちゃってごめんね」


 我竜はクスクスとからかうように笑った。とっさに顔を隠すもすでに遅い。

 ソファに座り、店主にアイスココアを注文する。


「それで……ヨダはどんな感じでした?」


 ココアを待たずに本題に入った。

 その問いに、我竜は柔和にゅうわな目元を少しだけくもらせる。


「うなされてたよ。やっぱり、思い出しちゃうみたいでね。お母さんが、首を絞めてくるって」


 言葉を選びながら、ゆっくりと慎重に言う。

 そんな彼の言葉と、与鷹が置かれている状況に改めて響は言葉を失った。目を伏せる。


「そっか……いや、そうだとは思ってた、けど、」


 喉の奥が突っ張る。視界がぼやけていく。


「けど、そんなのを聞いたら、やっぱり助けたい。あたしも嫌なことや苦しいことは、夜になると思い出しちゃうから……だから、ヨダのことはよく分かるんです」

「うん。響は優しいから、そういうのを敏感に感じ取るよね。だから、本当は言わないでおこうかと思ったんだけど。でも、それは違うよなって。だから、連絡した」


 感情が走る響と対照的に、我竜は静かに淡々としていた。


「それでね、まぁ、今後ゆっくりと与鷹から聞き出そうと思ってるんだ。このままでいいわけがないからね。見過ごせない」

「ですね……輝先輩がそう言ってくれて、あたし、すごく安心しました。昨日の感じじゃ、余計なことしちゃったかなって思ってたから……先輩、本当にありがとうございます」


 深々と頭を下げると、髪の毛がさらりと下に落ちていった。その髪をすくように我竜の指が触れる。


「響は悪くない。あの子だって、感謝してると思うよ」

「そうだといいけど……」


 どうにも我竜の言葉はあっさりとしていて信憑性しんぴょうせいがない。絶大な信頼を寄せていても、彼の言動は時として不安をあおってくる。

 響は自信のない目を向けた。


「輝先輩。あたしたち、間違ってないですよね?」

「何も間違ってないよ。僕らは正しい――これ、適当には言ってないからね。僕の根っからの本心だよ」


 ――そうやって念を押すから嘘っぽく聞こえるんだって。


 響は顔をしかめた。そうすると、彼は不満にくちびるをとがらせる。笑ってやると、彼も安堵したように笑う。


「さて。それだけを言いに来たわけじゃないんだ。響、お前にやってほしいことがある」

「なんですか?」

「与鷹の兄貴――名前は、ナオだったよね。なるべく早めに連絡をしたいんだ。お前から連絡してみてくれない?」

「それならすぐにできますよ。今からでも」

「頼むよ。与鷹はまだ家族と連絡を絶ってるから、せめて兄貴だけには連絡させたいし。それに、そっちの方が事情をよく知っていると思う」

「そっか。確かにナオが家を出たのも、深い事情があるんだろうし……分かりました」


 響はすぐにスマートフォンを取った。

 善は急げだ。この迅速じんそくな行動に、我竜は呆気あっけに取られた。


「こんな朝っぱらから、いい迷惑だね」


 冷やかしに構わずコールを鳴らす。しかし、一向に繋がらない。


「出ない……トークで起こしてやる」

「お手柔らかに頼むよ。あんまり萎縮いしゅくさせないで」

「はーい」


 響は素早く画面をスライドさせ、文字を打ち込んだ。


「ちなみに、なんて言って誘い出すの?」


 我竜が聞く。響はふふんと得意げに笑い、入力した文面を見せた。


「ヨダのことで話があるので、至急連絡されたし!」

「至急連絡されたしって。最近、町田の口調が感染うつってきてない?」


 そう言い、彼はあくびを噛み、目を細めた。


「アイスココア、おまたせ」


 老店主がテーブルの上にココアのグラスを置いた。

 とろとろとなめらかなミルクとココアのマーブルが、氷の中で溶け合っている。


「朝から冷たいもの飲むと、おなかが冷えるよ」


 そう脅してくる我竜の声を無視して、響はひとまずココアを喉に流した。

 腹は仕方ないとして、頭はすっきりと目覚めるだろう。冷たさに目を瞑った。



 ***



 十時を回った頃、有馬ありま那鷹なおはその日も学校の図書館を訪れていた。

 夏休み中でも、図書館は解放されており、おもに寮生が使用している。ナオもそのうちの一人であり、山のように出された課題をこなすべく、黙々と問題集を進めていた。


 シャープペンを走らせること数分間。セクションごとに小休憩を挟むのだが、脇に置いたスマートフォンが明るくなったことで集中力が切れた。続けて何通も。

 友人だろうか。ふざけたメールでも寄越してきたに違いない――と思って画面を覗いたら違った。見なければ良かったと後悔する。


 今朝からやたらと響からのメッセージが相次いでおり、画面に通知しないように設定しておいた。しかし、どうやら今度はトークアプリではないらしく、よそよそしいメールだった。

 母親からだ。たまに連絡がくるのだが、そのどれもが面倒な案件である。また具合が悪くなって「寂しい」だの「会いたい」だの言ってきているのだろう。ざっと流し読みする。

 しかし、ふいに目に入った「よだか」の文字を見つけ、スライドする指が止まった。


「ヨダ?」


 弟がどうかしたのだろうか。ただならぬ状況を瞬時に把握はあくする。


「……うわぁ」


 連続したメッセージに、ナオはうんざりと顔をしかめた。

 ずらっと並ぶ文字の中、「よだか」だけを探す。

 あった。そこには、思いもよらない文章が短く記されていた。


『よだかが、いなくなっちゃった。何か知らない?』


 その質問の意味が分からず、ナオは天井を仰ぐ。そして、思考停止した脳を回転させた。


 与鷹がいない。

 いなくなった、ということは家出が考えられる。その理由は一〇〇パーセント母親にあるだろう。

 身体的な暴力と精神的な暴力、その二つをたくみに使い分けるあの人のことだから、与鷹も逃げ出したに違いない。

 しかし、どこに逃げたのか。祖父母の家は遠いし、確か飛行機で一万円以上はかかるはずだ。新幹線ならもっとかかる。中学生の与鷹が一人で行けるとは思えない。

 いや、どうだろう。母親の実態を知って逃げ出すなら、たとえ遠くても死にもの狂いで行く。自分ならそうする。


 ナオは画面を閉じ、アドレス帳から父を呼び出しながら席を立った。

 図書館の外に行き、入り口のすぐ側で迷いなく電話をかけてみる。コール音が続く。この時間は仕事だろうが、息子の家出にどこまで干渉してくれるのか、確かめたくもある。


『もしもし、ナオか』


 やがて繋がったその声には、わずかな落胆らくたんがあった。


「あぁ、うん。久しぶり」


 あまり感情を込めずにそっけなく言う。


「なんか、母さんから連絡があったんだけど?」

『与鷹が昨日から帰ってきてないんだ。連絡もつかない』


 その言葉の裏で、重機がひずむ音が響いている。やはり仕事に出ているのだろう。ナオも父に負けず、落胆の息を吐いた。

 その瞬間、わる知恵が働く。ナオは口元を笑わせたが、その笑いを悟られないように声を低めた。


「あぁ、そのことか。ごめん。ヨダなら、んだよ。心配すんなって言っといて」

『え? 本当か、それ?』

「本当本当。だからもう連絡しないでくれよ、俺も忙しいからさ。そっちも忙しいだろ? ヨダに構ってられるほど暇じゃないんだし」

『でも、寮にいるって……信じていいんだな?』

「父さん、俺のこと信用できないの? それ、すげーショックなんですけど」


 やや芝居しばいがかってなげくと、父は「ごめん」と慌てて返してきた。


『じゃあ、分かったよ。母さんにそう言っておく』

「うん。よろしくー」


 間髪を入れずに通話を切る。

 すっかりおとなしくなった画面に目を落とし、ナオは肩を震わせて笑った。


「バーカ」


 嘘をつくことに罪悪感はない。むしろ愉快ゆかいな気分だった。しかし、与鷹の行方が分からないのは気持ち悪い。

 ナオは響からのメッセージにようやく目を通してみた。


『ヨダのことで話があるので、至急連絡されたし!』


「されたしってなんだよ」


 ふざけている文面に思わずツッコミを入れたが、返ってくるはずがない。ただ虚しいだけで、ナオは渋々メッセージを打ち込んだ。

 すると、待ちわびていたかのように響のメッセージがすぐに返ってきた。


『ヨダを預かってる。場所は言えないけど、とにかくナオと話がしたいの。お母さんのことは全部聞いた』


「へぇぇ」


 何を聞いたかは知らないが、ついにあの能天気な弟も家出を決めたことには感心している。

 心は大して動かないが、それでもあの憎い母親が慌てふためいて泣く姿を目に思い浮かべると笑いがこみ上げてしまう。


 ――ようやく分かったか、あの家のことを。


 ふと、窓ガラスに映る自分を見た。ゆがみきった心がそのまま現れているかのような顔に不快感を覚える。誰も見ていないのに、慌てて笑いを引っ込めた。

 再び、スマートフォンを見やれば、連絡するなと言ったばかりで母からの着信が入った。無視する。本当は着信拒否をしたいが、今はまだできない。

 いつまで経っても、離れていても母親に監視されているような気がしてならない。家を出ても、やはり母の支配下にあるのだろう。結局は逃げられない。嫌になってくる。


 しかし、機転きてんを利かせて父に嘘を言ったのは与鷹にとっても好都合だろう。それに、本人から直接聞いた訳ではない。響からの誘いも乗る気はない。

 傍観ぼうかんしている方が楽でいい。でも、把握だけはしておこう。その方が身のためだ。

 響への返信は後回しにし、与鷹の電話番号を呼び出した。


『――おかけになった電話番号は、現在、お繋ぎできません』


「まぁ、そうだろうな」


 期待はしていない。そもそも、母から逃げるのが目的なのだから、そうやすやすと連絡が取れるはずがない。

 しかし、念には念を入れておかないと。嘘をついてしまったので、口裏を合わせないといけない。

 ナオは素早く指をスライドさせ、短いメッセージを入れた。当然、返事はない。



 ***



 七時に起きるのが与鷹の日課だったが、どうやら今日は寝過ごしたらしい。目を覚まし、時計を見るとすでに十時を回っていた。

 プラネタリウムは電源が切られており、部屋は真っ白に清々すがすがしい色だった。暗幕も開いており、外からが射している。


「あれ? 先輩?」


 布団から抜け出すと、我竜の姿がないことに気がついた。


「どこ行ったんだろ」


 置き去りにされるとどうしたらいいのか分からない。

 与鷹は途方とほうに暮れ、再び布団に寝転がった。


 今頃、家はどうなっているんだろう。本当に帰らなかった。

 脅威にさらされないことは、とてもありがたく、一夜明けてしまえば心地よささえ感じる。

 うるさい起床コールもなく、家事を言いつけられることもない。勉強しろと言われたり、そのくせ勉強ばかりするなと言われる理不尽もない。態度が気に食わないからと殴られることもない。

 暴力と口撃こうげきのない朝を迎えたことで、与鷹は天井を仰ぎながらクスリと笑った。


 ――ぼくがいなくなって、慌てふためいていればいい。


 家出バンザイ。

 そんな屈折した思いを浮かべて、大きく伸びをした。腕を回す。枕元にあったスマートフォンが手に当たった。

 そういえば、電源を切ったままだった。電話とショートメール、トークアプリ、いろんな通知が来ていることをある程度は予想しながら、恐る恐る電源を入れてみる。真っ暗な画面から、数秒かけて起動していく。そして、ホーム画面が現れた。

 まず目に入ったのは大量の通知だった。電話にもアプリにも数百件にも及ぶ連絡が入っている。留守番電話も入っていたが、それを聞く気にはなれない。


 母の声を聞きたくなかった。一度拒絶してしまえば、受け入れる勇気がない。恐れと不安が現実を後回しにしようと企んだ。

 もう一度電源を切ろうかと思った矢先。画面が切り替わり、着信が入った。

 母かと思ったが違う。父でもない。有馬那鷹と書かれた文字に、与鷹は目を見張った。


「兄ちゃん……」


 電話なんて珍しい。いや、あの母からすでに家出のことを聞かされているだろうから、この着信は必然的だろう。しばらく、指が迷った。着信はまだ続いている。

 出るべきだろう。でも、もし、兄が家に帰っていて、母の言いつけで家から電話をしていたとしたら――母が近くにいる可能性がある。

 想定外の想定をしろと、先日に言われたばかりだ。ここは慎重になるべきだ。


 事情を知る兄ではあるが、母に逆らうことはあの兄でも難しいだろう。母から命令され、仕方なく連絡を寄越している可能性だってある。

 与鷹は頭の中で何が最善かを考えた。その間にも、早く切れないか願っていると早々に着信が途切れた。


「はぁ……」


 無視してしまった。出ずにいたことを悪く思いつつ、安堵あんどしていた。それもつかの間で、今度は画面にメッセージが入った。


『どこにいるんだ?』


 ナオの言葉は一年半ぶりにしては短く、そっけないものだった。それに、この言い方からして、すでに母から連絡がいってるのだと確信した。

 返事をしようかと思ったが、やはり指がためらう。その間にもナオの無愛想な言葉が通知欄に重なった。


『俺の寮にいるって言っといたから、そういうことにしといて』

『でもあのひと、全然りてないからな。気をつけろよ』


 それを最後に、通知は途絶えた。意味は分からない。でも、悪い予感がする。

 ため息が思うように出せず、与鷹は目を瞑った。

 考えていると全身が罪悪感で萎縮してしまう。頭が重たい。だるさを感じ、先ほどまでの達成感はとうに消え去っていた。息を吸っても、体に行き渡っていないように思えた。

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