箱庭④

 菓子を食べ終えてから、響はスマートフォンでどこかに連絡を入れた。


「あ、もしもし? 先輩、今大丈夫ですかー?……え? いやいや、どうせ暇でしょ」


 不躾ぶしつけな言い方で話をさっさと進めていく。


「突然ですいませんけど、明日、あたしの幼馴染おさななじみを連れて行きますので。中三男子です。そうそう、前に話した子」

「えっ」


 よそでも幼馴染のことを話をしているのか。

 思わぬ事実にうろたえるも、こちらの様子にはまったく気づかない響である。彼女は機嫌よく「先輩」とやらに話を続けた。


「えーっと、なんか親と……めてるっぽいので、助けたいんです」

「響ねーちゃん、あんまり大ごとにしないで」

「大ごとよ! もうすでに事件は起きてるの!」


 響の声が公園内を震わせた。その声に驚き、与鷹はもう口を閉ざしてしまう。

 彼女も我にかえり、電話に戻った。唸りながら言葉を紡ぎ出す。


「どうしたらいいですか? あたし、どうしても助けたい」


 揺るぎない正義感を、誰かに確かめている。そんな印象を持ち、与鷹は怪訝けげんに思った。電話の奥にいる誰かは、なんと答えているのだろう。

 分からないが、だんだんと響の目が明るくなっていくのを見る限りだと、どうやらこちらも響と同じ人種のようだ。


「はい! りょーかいです。明日、連れて行きます。詳細は後でメールします。んじゃ」


 響は電話を切った。そして、こちらの困惑をみ取らず、ニコニコと笑顔を見せてきた。勝ち誇ったように腰に手を当てる。


「よーし。逃亡の手配はこれで完了だ」

「逃亡って言い方やめて」


 なんだか悪いことをしている気分になるじゃないか。そんな非難を込めて言うと、響は豪快に笑った。


「あはは! でもワクワクするでしょ?」

「……まぁ」


 それが実現できたらの話だが。不安は拭えない。

 黙り込んでいると、響は与鷹の手を握った。急なことに手を引っ込めようとしたが、彼女は強引につかんで離さない。


「少しの間、家族と距離をあけよう。でないと、本当に大事件になっちゃう。言ってること、分かるよね?」

「うん……」


 あのどす黒い殺意を思い出すだけで背筋が凍る。夏の夜風にでられ身震いしたら、響が心配そうに顔を覗いた。


「取り返しのつかないことになる前に、ひとまずあんたをかくまうことにする。なんとかする。絶対に助けるから……本当なら、今すぐにでも連れていきたいくらい、心配してるの」


 そんなことを言われたのは初めてだった。

 返す言葉が見つからず、彼女の厚意こういを受け取るように奥歯を噛み締めた。手のひらが熱い。真っ直ぐな優しさが染み込んで、それが堪らなく熱いから冷え切った心が怯えている。


「……ぼく、逃げていいかな」


 確かめたい。それが本当に正しいことなのか。


「当たり前でしょ。逃げよう。全然かっこ悪いことじゃないんだから」


 こんなに頼れる幼馴染だったろうか。響の力強い言葉に、与鷹は目を瞑った。そして、息を吐き出して頷く。


「よっし。決まりだね……えーっと、ヨダの連絡先、あたし知らないや。スマホ、持ってる?」

「持ってる」


 与鷹はナイフが入っている方とは逆のポケットからスマートフォンを引っ張り出した。これは、ナオが出て行ってから持たされているものである。


「番号教えて。登録するから」


 言われるままに連絡先を交換し、互いの家に帰ったのはそれから深夜〇時を過ぎた頃だった。



 ***



 息をひそめてこっそり玄関を開けると、鍵を回す音で気付いたのか、母がすぐさま玄関に飛んできた。


「おかえり。遅かったね」


 すでに寝間着ねまき姿だ。髪の毛も乾いているので、寝る頃合いだろう。与鷹は母の目を見ずに、気まずく唸るだけにとどめておいた。わざわざ待っていたのだろうか。


「お風呂入っておいで」

「うん」


 取り留めもない会話だが、何かしら緊張を感じていた。響の言葉がよみがえる。


 ――決行は明日。おばさんたちがいない時間だよ。迎えに行くから準備しておいて。


 ゴクリと喉を鳴らしながら、与鷹は母の視線から逃げた。


 ――とにかく、簡単に着替えを持てるだけ。そんで、必要なものだけを持っておいで。宿題とか、スマホとか。


 あと、他には何がいるだろう。財布はほとんどカラだから必要ないかもしれないが、一応持って行こう。制服と教科書も。

 でも、そんなに多くは持っていけない。今は必要なものだけだ。


 ――いい? チャンスは一度きり。失敗はできないよ。見つかって、連れ戻されると次は警戒されて、それこそ外出もできなくなるかもしれない。


 それは御免だ。外に出られず、家に閉じ込められるなんて、考えただけでもゾッとする。とくに、ダイニングへは必要以上に寄りつきたくはなかった。

 風呂に行き、あくまで日常を装う。パーカーとシャツを脱いで、ふと動きを止めた。このパーカーは持って行きたい。フードがあると隠れるのに最適だ。実用性は高いだろう。それがいい。風呂から上がったら部屋に持って行く。


「与鷹ー?」


 ひょっこりと母が顔を覗かせる。与鷹は必要以上に驚き、危うく悲鳴を上げそうになった。この尋常じゃない驚きに、母は不愉快に顔をゆがめた。


「なに驚いてんの?」

「急に開けるから。ノックくらいしてって、いつも言ってるのに……」


 しかし、すぐに言葉を止めた。不用意に文句は言えない。眉をつり上げる母のため息が怖い。


「なによ。なんか見られちゃまずいわけ?」

「いや……うん、まぁ、ほら、いろいろ。びっくりするから、さ」


 急いで取りつくろうと、母は「ふうん」と探るようにジロリと見た。その視線が怖い。


「ま、いいわ。それ、洗濯するからね」


 母は少しだけ声音を低くさせ、与鷹のパーカーを指差した。


「え? 洗濯するの?」

「するよ。なんで? ダメなの?」

「まぁ……明日、着ようかなって思ってたから」

「洗濯するからね」


 拒否権はない。与鷹は降参した。淡い期待はむなしく砕け散っている。パーカーは諦めよう。


「じゃ、おやすみ。お風呂のお湯、抜いといて」


 地味な絶望を突きつけ、それを知る由もなく母はようやく脱衣所を出て行った。寝室のドアを開け、入って行くまでを確認し、ようやく安堵の息をつく。


「嘘だろ……パーカーひとつも守れないのに、どうやって明日脱出するんだよ」


 くだらないことなのに、どうにも気分が落ち込んでいく。そんなに好きでもなかったはずのパーカーが、今では人質に取られたようで無性に寂しくなる。

 しばらく、どうやって守るかあれこれ画策したものの、体が冷えて思わずくしゃみをした。それが思考停止の合図となり、与鷹は未練がましくパーカーをカゴに放った。




 結局、風呂の中でもパーカーを守る手段は思いつかず、上がった頃には明日のことを考えるので手一杯だった。

 とにかく、荷物を詰めれるだけ詰めておかなくては。部屋に戻り、大きなカバンを探す。兄の部屋にボストンバッグがあったような。あれを使おうか。


 ――自分の持ち物以外は極力使わないこと。でないと、ナオにも被害が及ぶ可能性がある。


 響の忠告を思い出した。それのなにがいけないのか、あまりよく分からなかったが、真剣に脅してくる響には逆らえず、そして律儀りちぎに守ることにした。無知な自分が余計なことをするわけにはいかない。失敗は許されないのだから。


 最低限、必要なものを審査し、与鷹はベッドの上に並べたものを通学カバンに入れた。

 Tシャツの着替えを五枚。ズボンを二着。制服を一揃い。あとは下着を詰められるだけ詰める。スマートフォンと充電器は明日、ポケットに入れていく。そして、サブバッグの中に宿題だけを投げ込んだ。筆記用具、束になったプリント、問題集。

 カバンの中身を全部取り出して、机の上に重ねていたプリント類を一枚一枚確認していく。一番下に高校受験マニュアルと志望校の記入用紙(第二回調査分)が出てきた。さらには、夏休み明けにある三者面談の日程表まで。


 与鷹は目を瞑って頭を抱えた。そうだった。受験を忘れていた。

 自分の偏差値でどうにか引っかかる高校でいい、と四月の時点では緩く考えていたが、もう二学期が始まろうとしている。

 世間では大事な時期だと言われているのに、命がおびやかされている自分がやはり情けなく思う。

 見なかったことにしよう。現実逃避だ。家から逃げる、すなわち現実からも逃げる。それを響が許してくれたのだから、今は少しくらいそんな希望を持っていたい。自由への扉が待ち遠しい。



 ***



 朝はいつも母に起こされる。きっかり七時に。

 今朝も父が早くに出て行き、母も朝食を済ませて仕事に向かった。


「いい? 洗濯機、回してるから、終わったら外に干しといて」


 出かけに言いつけられ、与鷹は曖昧に笑った。

 あれこれと仕事を言いつけられたが、それも午前中には済ませられるだろう。与鷹は引きつった顔で母を見送った。自転車に乗って四辻を抜けていく母を、キッチンの窓から観察する。角を曲がった。もう引き返しては来ないだろう。昨夜の粘着質な追及が嘘のように、母は怪しむことなく出て行った。

 与鷹はすぐにスマートフォンを出した。響に連絡を入れる。電話はすぐに繋がった。


「あ、もしもし。響ねーちゃん? 与鷹だけど」

『………』

「え? あれ? 響ねーちゃん?」


 返事がないので不安になる。確かに繋がっているはずなのに。

 しばらく、耳から離したりくっつけたりを繰り返していると、ようやく響からの応答があった。


『あぁ、ヨダか。おはよう……早すぎない? いま何時よ……うわっ、まだ七時半じゃん。ふざけんな』


 寝ぼけた声が荒っぽい。なるほど、寝起きだったか。なんとも堕落だらくした生活を送っているものだ。こちらの緊張とは対照的に、響は隠しもせずに電話口で欠伸あくびをした。


『ふぁーあ。えーっと、さてさて? おばさんは家を出たわけだね。そんで、今からどうする? もう出る? って言っても、あたしが寝起きだからもうちょい待ってほしいんだけど』

「あー……いや、家事をいろいろ押し付けられたからそれをやっとかないと」

『はぁ? 寝ぼけてんじゃないよ』


 与鷹は眉をひそめた。寝起きの響に言われたくない。


「なんで?」

『なんでって、あんた、これから家出しようとしてるやつが、律儀に洗濯物でも干しますかって話よ。いい? これは反乱だ。遊びじゃないのよ』


 昨夜の決意が、どうやら生半可なものと思われているらしい。寝起きで「家出しようか」と言っている響きの呑気のんきさもどうかと思うが。


「んー……じゃあ、無視していいの?」

『いいんだよ』

「それなら、今からすぐに行ける」

『よし! んじゃあ、ちょっと一時間だけ待って。支度するわ』


 今から、と言って一時間も待たなくてはいけないのか。それなら、洗濯物くらいは干せそうだ。ちょうど、洗濯機が終了の音を鳴らす。慌ただしく通話を切った響と同じく、与鷹は脱衣所の洗濯機へ向かった。

 あのパーカーを外に干すと思わずため息が漏れたが、いつまでも未練を残していては前に進めない。


「じゃあな。お前のことは忘れないから」


 自分でも呆れるくらい呑気だと思う。しかし、一人でいるいまが一番気を抜いていられる。狭い庭に干した洗濯物をぼうっと眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。

 慌てて家の中に入り、部屋を経由して玄関へ向かう。

 インターホンを確認せずにドアの鍵を開けてしまったことにわずかな後悔をしながら、恐る恐るドアを開ける。

 燦々さんさんと降り注ぐ太陽の下で、明るい灰色の髪が片手を挙げて立っていた。


「おはよ!」


 改めて挨拶をする響は、今日はノースリーブのパーカーとカーゴパンツだった。ピンク色の服が忍ぶ気ゼロだ。


「準備万端? 荷物は?」

「うん。部屋にある」

「えー? いつでも出られるように出しときなさいよ」


 そう言って響は欠伸をし、勝手に家へ上り込む。与鷹は慌てて止めた。


「ちょっと、なんで通せんぼするの」

「いやいやいや、待って」

「なんで?」

「手伝ってもらうほど荷物ないし。ここで待ってて。取りに行ってくる」


 それに部屋には入ってほしくない。なんとなく。やましいことはまったくないのに。

 この曖昧な心情を察したか、響は「オーケイ」と軽々しく承諾した。

 転がるように部屋へ行き、通学カバンとサブバッグを手に取る。その際、机に置いた志望校記入票と果物ナイフが目に留まった。すぐに逸らして置き去りにする。逃げるように部屋のドアを閉めた。

 一方、響はおとなしく玄関先で待っていた。荷物を見るなり怪訝そうに言う。


「本当にそれだけで大丈夫?」

「大丈夫。だって、あんまり大きい荷物だと怪しいじゃん」

「確かに」


 響は納得といった様子で手をポンと打った。大胆な脱出計画を立てておきながら、考えがどうにもずさんだ。


「よし、それじゃあ行こう」


 響は意気揚々と玄関を開けた。その扉をくぐり抜けると、太陽が眩しかった。あんなに鬱屈うっくつとした気持ちが全部落ちていくかのように、あっさりと抜け出した。

 響は向かいの自宅のガレージを開けている。

 その間、与鷹は玄関の戸締りをした。古い木製のドアが、つい最近までは憎たらしかったのに。恨めしくこちらをにらんで、寂しげな音を立てるものだから後ろ髪が引かれた。それに伴い、うなじを触る。絞めつけられた痕を自力で確認することは、やはり不可能だった。


「ヨダ!」


 ガレージから、スマートな白い軽自動車を動かした響が窓から声をかけてくる。その声で我に返り、もう振り向かずに助手席を開けた。

 バタンと勢いよく閉めれば、それが引き金となって、思いにふたをすることができる。それに、いつの間にか湧き上がる達成感におぼれた。


「さぁ! 世紀の大脱出だ! 張り切って、逃げ出そう」


 エンジンをかけ、響が勢いよく言う。


「響ねーちゃん、車持ってたんだ?」

「いやいや、さすがに持ってないわ。これはうちのママの。たまに借りるんだよ」


 アクセルを踏む。タイヤがきゅるりと音を立て、家から遠ざかっていく。

 ぐんぐん道を進んでいく車の中で、与鷹は冷たい風に当たりながら、背もたれに体を預けた。抱えた荷物を足元に置く。


「あ、ヨダ。シートベルトして!」

「ごめん!」


 そんな慌てぶりも、響は楽しそうに笑い飛ばす。

 その声につられて、与鷹も歓喜の笑いを上げた。

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