箱庭③

 公園を出て四辻に入って、二人で並んでコンビニまで歩く。冷たく白い街灯と蒸し暑い空気のバランスが悪い。

 泣いたせいで体は熱かった。一方、響は心配するそぶりを見せつつ明るげに話しかけてくる。


「そういや、ナオは元気? ママから聞いたんだけど、あの桐朋館とうほうかん高校に受かったんだってね。すごいじゃん」

「さぁね。兄ちゃんとは全然連絡してないよ。帰ってこないし」

「えーっと、寮に入ったんだっけ? 帰ってこないって、どういうことよ?」

「まぁ……いろいろあって」

「そのいろいろってのを聞きたいんですけどー……あ、着いた」


 響はコンビニの駐車場に堂々と白い自転車を置いた。首から下げたファンシーな緑色のうさぎのコインケースを開け、どうやらお金を確認している。やがて、満足に頷いて「ゴー!」と腕を突き上げた。

 大きな冷蔵庫の前に立ち、与鷹は明るい光に目を細めながら、首をすくめたままで物色する。

 響は菓子コーナーを見ていた。スポーツ飲料水を選んで、響の元へ行く。


「チョコ食べる? ポテチの方がいいかな?」


 どうやら飲みもの以外にも買ってくれるらしい。与鷹はうさぎのコインケースをちらりと見た。


「お金、あるの?」

「あるある。よゆーであるわ。大学生なめるなよ」


 ふふん、と得意げに笑う響がおかしくて、思わず吹き出した。


「迷うくらいならどっちも買っちゃえ。ピーナッツチョコとー、ポテチはのりしおだな。これ一択。あとは、あ、スポドリいいねー。あたしもおんなじのにしよう」

「ひとりごと多すぎ」


 四歳上には思えないくらい無邪気な響は両手いっぱいに品物を抱え込み、パタパタとサンダルを鳴らしてレジに向かった。どさっとなだれると、店員は呆れ顔を隠さない様子で苦笑した。それを与鷹は遠巻きに眺めておく。

 思わぬ買い物が増え、二人はそれぞれ荷物を提げて道を引き返した。公園に戻る。


「開けていい?」


 持っていたペットボトルを持ち上げて聞く。響は当然のように指で「OK」をつくった。


「遠慮なんかしなくていいのにー。勝手に飲みなよ」

「ありがと」


 他人行儀であることは自覚している。五年ぶりほどの再会で、奇妙な気まずさがあった。よく知る相手のはずなのに人見知りしている。

 そんな気恥ずかしさを隠すようにジュースを飲んだ。空はすみを塗りたくったように真っ暗で、星は一つも見えない。


「それで? 誰にやられたの?」


 自分のうなじを指して聞いてくる響に、遠慮というものはなかった。飲んだジュースの後味を感じながら、与鷹は思わず冷笑を飛ばす。


「直球だね」

「あたし、ふざけて聞いてるんじゃないのよ。真面目だよ、大真面目。誰かにやられない限り、そこに痣なんて作らないでしょ」


 鋭い響の指摘に、与鷹は心臓が窮屈になった。顔が引きつる。同時に喉も突っ張った。

 言ってしまうと、耐えていたものが全部壊れてしまいそうで怖い。でも、本当は声をあげて叫びたいくらいだった。

 与鷹はもう一度ジュースを飲んだ。甘く爽やかな飲み物を喉に流せば、熱した気持ちもいくらか軽減すると思った。その間にも、響はあれこれと考えを巡らせている。こちらが何も言わないからか、思い当たるものを挙げた。


「いじめられたの?」

「ううん」

「じゃあ、不良に絡まれた?」

「そんなわけないだろ」

「あのねぇ、このへん物騒なんだからさ、いくら男の子でもひとりでうろつくのは危ないんだからね」

「だから違うって。それを言うなら響ねーちゃんこそ、ひとりで出歩くなよ」

「それはそうだけど」


 与鷹はジュースを飲みながらやり過ごした。彼女の真剣な質問を笑ってかわしていく。しかし、響の考えには回避できそうもなかった。


「自殺とは絶対違うし……うーん、誰だろ……」

「その犯人を当てたとして、響ねーちゃんはそいつをどうしたいんだよ」


 聞くと、彼女はすぐにこぶしをつくってファインティングポーズをとった。


成敗せいばいしてやる」

「はぁ……バカらしい」


 やれるものならやってみればいい。屈折した思いが浮かんだが、言葉にしようとまでは思わなかった。

 そんな与鷹の胸中を察することなく、響はだんだん顔をくもらせる。


「……いや、待って。それはない。やだ」


 何かひらめいたらしく、彼女の息が不穏を帯びていた。与鷹も恐ろしくなる。

 響は立ち止まり、与鷹の首に手を当てた。夏場だというのに、ひんやり冷たく汗ばんでいた。


「まさかとは思うけど、親?」

「違う」


 思ったよりも即答できた。与鷹は気まずく視線をそらし、爪で鼻の頭をいた。その手を響が乱暴につかむ。


「本当なんでしょ」


 響の声が暗い。目を見張ったまま、与鷹の手をつかんで顔をのぞきこむ。その勢いに押されて、甘くなった唾をごくりと飲み込んだ。


「どうしてそう思うんだよ」

「当てずっぽうだった。でも、あんた、鼻を掻いたでしょ」

「それが?」

「ごまかすときの癖だもん」


 与鷹は響につかまれた腕を見た。すぐに振り払うと、彼女の手はあっさりと解ける。


「ヨダ。やばいよ、それ。通報したほうがいい」


 彼女の目は真剣だ。今にでも電話する勢いだった。それを阻止しようと、与鷹は彼女の肩をつかんだ。


「母さんも悪気はないから。ぼくが悪いんだ」


 どうして母を擁護ようごしているのか自分でもよく分からなかった。早口になっていくと、響の眉が責めるようにつり上がった。

 ますます慌ててしまい、口は思ってもいないことをペラペラとまくしたてる。


「それに、ほら、いまどき珍しくないしさ。警察だって暇じゃないし、大ごとにはしたくないし」


 逃げ場がなかった。肩をつかんだままで項垂うなだれる。


「お願い……通報だけはしないで。でないと、後でどうなるか分からない」

「警察じゃなくとも、児童相談所とか、そういうとこに連絡だけでも」

「絶対だめ。お願い。本当に、やめて。お願いだから」


 みっともない懇願こんがんだと思う。それをあわれまれるのも嫌だった。何より、家族の恥ずかしい事情を他人に知られるのが怖い。


「バカだよ、ヨダは」


 やがて、響は声を震わせて言った。


「バカなのは分かってる。言われ慣れてるし。でも……」

「そんなの、あたしが絶対に許さない!」


 顔を上げると、響の怒りが至近距離にあった。両目に涙を浮かべて、真っ直ぐにこちらを見ている。その怒りが伝播でんぱんしそうで、与鷹はすごすごと離れた。


「許してもらわなくていいよ。響ねーちゃんには関係ないし」

「はぁ? 関係あるし! なんで諦めるの? ほんと、最低。ありえない。バカじゃないの、おじさんもおばさんも、ヨダもナオも」


 公園に着く前に響は鼻をすすって、くもった空を見上げた。こらえきれずに目尻から涙が落ちていき、それは与鷹の涙よりもはるかに量が多かった。


「それで? ナイフを持ってたのは?」

「まぁ、護身用だよ。こっちは死にかけたんだから」

「はー……了解。いや、了解したくはないんだけどさ。あーもう、信じらんない」


 やはり、最初からバレていた。大っぴらにベンチでナイフを出していたのだから、彼女が気づかないはずがない。きっと、それすらも分かった上で話しかけてきたんだろう。

 どうにも目のやり場に困った。それすらも見透かされていることに気がつけば、自分が何を考えていたのかを改めて振り返った。恐ろしいことを平気で考えていたのだと背筋が震える。

 しかし、この怒りや悔しさをどう消化すればいいか分からない。黒い感情が育っているせいで、もう手遅れだと思った。


「ねぇ、ヨダ。復讐はなんの得にもならないよ」


 響は静かな声で言った。

 綺麗ごとの定型文みたいな言葉が、まさかここで飛び出すとは思わない。与鷹は目を細めてポケットを見つめた。ナイフの柄を握りつぶす。


「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

「助けてって言えばいい」

「そんなことできるわけないだろ」

「なんで?」

「なんでって。そんなの、考えたら分かることじゃん。誰も助けてくれないからだよ」


 父は現状を知らない。兄も逃げた。誰も助けてくれない。捨てられたも同然じゃないか。

 それに、響の言葉がどうにも耳障りに思えた。薄っぺらな正義感だ。口ではなんとでも言える。

 自転車のタイヤがカラリと音を立てた。前を向くと、響は歩き出していた。なんだかその背中は怒っている。立ち止まったままでいると、彼女は素早く振り返った。


「ちょっと、ヨダ。ぼうっとしてないで、さっさとおいで」


 言われるままに嫌々ながら早足で響の横に並んだ。

 公園は息をひそめたように誰もいなかった。ブランコだけが寂しい。そこまで与鷹を無理やり連れてきて、響はコンビニの袋をガサガサあさった。

「ん」と短く強気に菓子箱を押し付けられる。仕方なくケースを開け、袋を開く。響はポテトチップスの袋を雑に開けた。


「あのね、復讐する方法はいくらでもあるんだよ」


 響が食べながらもそもそと言う。


「復讐する方法?」

「そう。殺す殺さないっていう物騒なものじゃなくってね。もっと平和的な復讐がある」

「そんなもの、あるわけないじゃん」

「いいからよく聞きなさい」


 塩だらけの指を向けられ、与鷹は思わず体をのけぞらせた。それがビビっていると捉えらえたのか、響は満更でもなく笑った。唇に海苔のりを貼ったまま。


「傷つけられたからって、人を傷つけていいわけがない。だったら、自分を傷つけた相手を見返してやるくらいに幸せになってやる。それが一番平和的な復讐だよ」

「やっぱり綺麗ごとじゃん。そんなので平和になるんなら、世界だって平和だよ」

「ひねくれてるなぁ。いつの間にそんな風になっちゃったのよ。昔はのんびり屋で、素直でかわいい泣き虫だったくせに」

「……反抗期なもので」


 自嘲気味に笑ってやると、響も苦笑した。しかし、その笑いをすぐに引っ込める。


「とにかく、綺麗ごと上等ってことよ。汚いよりも綺麗なほうが気持ちいいじゃない。そういうのがダサくて恥ずかしいんなら、無理にとは言わないけど。でも、あんたが親を殺すなんて未来は、このあたしが阻止してやるからね」

「それも無理だよ」


 響の気持ちは素直にありがたいが、それを受け取れる余裕はなかった。遅すぎる。もう心は擦り切れている。


「ぼく、おかしいんだ。ずっと。兄ちゃんがいなくなって、母さんに毎日殴られて、お前はバカだって言われて、父さんからは反抗期だからって諦められてて。そしたらさ、ぼくはもうどこにも居場所がないんだ。気づいたら、頭の中で母さんを殺してる。それが現実になったら……」


 考えたくない。いつもそこで思考は停止する。でも、それが本音だ。殺したいくらいに憎い。

 育てた憎悪のせいで、心臓の底がじわじわと腐り始めている。その腐臭に気がついたら吐き気がした。自分がいかにみにくい存在か自覚してしまい、感情は上昇と下降を交互に繰り返す。その波にまんまと流されて、息ができなくなる。


「逃げよう」


 思考を遮るように響の声が割り込んだ。


「ナオが逃げたんなら、ヨダも逃げればいい」


 切り札でも出すような揚々とした顔を見せてくる。それに対し、与鷹は頭を振った。冷笑が込み上げる。


「現実的じゃないよ。響ねーちゃんって思ったよりも相当バカなんだね」

「あたしは真剣だよ! バカじゃない!」


 立ち上がって抗議する。その勢いに押され、与鷹は顔をしかめた。ともかく、話を聞こう。


「じゃあ、どこに逃げるの? じいちゃんは県外だから、そんなお金ないし。母さんに言ったところでその費用を出してくれるわけないだろうし」

「それは今からあたしが手配する」


 思わぬ言葉に、今度は目を丸くした。食べる手はすでに止まっている。


「でも、その前にまずは、ヨダ。この合言葉を使わなくちゃいけない」


 響は強い口調で言った。大真面目に、そして滑稽こっけい稚拙ちせつな、単純な言葉を恥ずかしげもなく言い放つ。


「助けてって。あたしに言って」

「………」


 海苔と塩でベタベタな口をそのままに眉を寄せて言うが、真剣なんだろう。しかし、与鷹は素直にその言葉を吐くことができなかった。口を開いて、すぐに閉じる。これに響は首をかしげた。


「どうしたの。たった四文字だよ?」

「いや、字数の問題じゃないし」

「じゃあ何? くだらないプライドが邪魔してるの? そんなの、守る価値はないよ。親を殺そうとするくらい思い詰めてるんなら尚更だよ」


 遠慮を知らないのだろうか。こうもズケズケと言われれば、もう反論はできない。「でも」だとか「いや」だとか、そんな取り繕いの単語をモヤモヤと浮かべるだけ。

 そうしてやり過ごそうとしていたら、響は呆れの息を吐き出した。


「あぁ、もう。あたしはあんたを助けるよ。見捨てられるわけないでしょ」

「合言葉はいらないの?」


 意地悪に言うと、響は煮え切らない幼馴染の頬を触ろうとした。しかし、それは全力で拒否させていただく。


「手! ベタベタ!」


 思わず言うと、響は我に返って気まずそうにはにかんだ。

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