箱庭②
どうしてこうなったんだろう。
死んでしまうんだろうか。今日、この日をもって死ぬのか。消えて、なくなる。そうすれば、もうこのつらさから逃げられるだろうか――いや、よくない。嫌だ。まだ、死にたくない。
苦痛を理解した瞬間、息ができないことに気がついた。
死に物狂いで足をばたつかせてもがいて、母の手首をつかむ。
力任せに握れば、母の手首が折れそうに
「痛い……ひどい……与鷹、なんてことするの」
何を言っているのか分かるはずもない。
与鷹は息を吹き返して、床に
「もうやだ……こんなはずじゃなかったのに。なんで、なんで……!」
母の声はしおらしく、苦しげに泣きじゃくっている。
与鷹は潰れかけた喉と、破れそうに痛い首を指でさすった。目の前で小さくうずくまる母を
――どうやって殺そうか。
今朝に考えた物騒な言葉を思い出す。ふつふつと湧き上がるのは、純粋な殺意とねじ曲がった復讐心。しかし、思いに反して体は動かなかった。
***
「じゃあな、ヨダ。俺、もう帰ってこないから」
一年半前、兄は去り際に吐き捨てた。市内でも最難関の私立高校を受験し、合格した。それは母の反対を押し切っての受験であり、また彼は入寮を希望した。父をどう説き伏せたのかは知らないが、勝手に手続きを済ませて母の目の前に書類を突きつけた。
それからだろう。家族がバラバラになったのは。
いや、もっと前からそうだった。でないと、兄がなぜ家を出ていったのか説明がつかない。母の重苦しい圧力は、年々増している。それに対比するように、父と兄、与鷹は母から遠ざかっている。顔を合わせることも今はほとんどない。
「――ただいま」
父が帰ってきたのは、いつもと同じ二十二時を回った頃だった。その時にはすでに与鷹は部屋にこもっていた。
「どうした? なんで泣いてるの?」
すぐ隣の部屋なので、壁越しに父の驚いた声が聞こえた。耳をすませる。
「与鷹が私を怒らせるのよ!」
母の
「あの子、私をバカにしてるのよ。ナオだってそうよ。あの子たちは私のことなんか大嫌いなのよ。だから、だから、なんでこんなにうまくいかないの……」
支離滅裂だ。鼻をすすって泣く母に、父は優しげに言った。
「大丈夫だって。みんなそんなこと思ってないから」
「何よ! あなたに何が分かるの! 与鷹はね、今日、私に黙ってバイトなんかしてたのよ! 店から電話がかかってきて、それで私がどんなに恥ずかしい思いをしたか、あなたに分かるの? 分からないでしょ! あなたは家族のこと、なんとも思ってないんだから!」
早口にまくしたてていく。
今日のことが父に伝わってしまった。しかも、最悪な状態で。
与鷹は痛む喉をさすった。ざわざわと
「――与鷹、いるんだろう? 開けるぞ」
遠慮がちに細く扉を開けられ、父はこっそりと与鷹を見る。べったりと汗ばんだ顔は疲れていた。そのよそよそしさに、
「バイトをしてたって、本当か?」
声は母にも向けていたものと同じく、優しげなものだった。しかし、わずかに
「母さんを困らせるなよ」
それだけ言うと、父はドアをぴしゃりと閉めた。
「……はぁ? なんだよ、それ」
それだけなのか。それだけしか言うことがないのか。この状況をなんとも思わないのか。そう問いたくなる。
――こっちは殺されかけたのに。
ここで父に打ち明けたらどうなるんだろう。でも、希望は持てない。訴えてもやんわりもみ消される。いつだって父は母をかばうのだから。
その負い目か、母があんなに泣いていても、父は与鷹を叱ることはしない。父に叱られた記憶はない。また、兄の家出にも加担していた。それは母も与鷹をも
居間で二人が密やかに話している音が壁越しに聞こえてくる。なだめるような父の低い声と、すすり泣く母の高い声。それが、自分をないがしろにしているような気がして、与鷹は力任せに机を足の裏で踏んだ。ガツンと大きな音が鳴る。その音に両親は黙り込んだ。
「……どうでもいいや、もう」
喉から笑いが飛び出した。その時、骨がきしんで痛みが走る。与鷹は顔をしかめて、喉をさすった。どうやら声を出すと、痛みを思い出すらしい。唾を飲むのも怖くなる。
――どうして。
どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。
そこまで悪いことをしたのか。あれは、万死に値するほどの罪だったのか。母を怒らせるのは、そんなに悪いことか。そこまで、自分の存在が母を追い詰めているのか。本当に死んだ方がいいのか。死ねばいいのかもしれない。
そうすれば、母は救われる。きっと、母は与鷹のことが嫌いで嫌いで憎くて堪らない――
「与鷹も分かってくれるよ。ほら、今はまだ中学生だし。あいつも反抗期だから」
父が言う。すると、母は
イライラする。胸に沸き立つ怒りが我慢の限界を知らせていた。頭が痛くなってくる。何も考えたくないのに、あの母の形相が頭から離れない。その顔を踏みつけてやりたくなる。
そして、それができない自分の不甲斐なさにいらだつ。
「……与鷹」
か細い声が聞こえ、与鷹は警戒心あらわに布団から顔を出した。目を腫らした母がうつむいている。ノックもなしに現れるのは常だが、よくも白々しく入ってこられるものだ。
「ママはね、何も憎くて怒ったわけじゃないのよ。あんたのことが心配で、あんたのことを思って怒ってるの。分かるよね?」
なんの
すぐに恐怖が巡り、与鷹は金縛りにあった。そんな息子に構わず、母は甘く優しく腕を回して抱きしめた。
「痛かったよね? 本当はそんなつもりはないんだよ。ママはね、与鷹のことがとっても大事」
「え……?」
「ナオがいなくなって、与鷹までいなくなったらママはもう生きていけないから……だから、与鷹だけはママを見捨てないでね」
突き飛ばしてやっても良かった。でも、それをしてしまうと、この脆く弱い生き物はどうなってしまうんだろう。また鬼のように怒りをあらわすのだろうか。本当に死んでしまうのだろうか。
「……ごめんなさい、母さん」
答えが分からず、感情を込めずに言葉だけを吐いた。しかし、言葉の底を一切読まない母は、与鷹にすがって泣いた。
――気持ち悪い。
感情は
母の肩を押して「もう寝るから」と冷たく言ってやると、母はすごすごと部屋を出ていった。こちらの感情に鈍感な両親は勝手に安心しきっている。
逃げたい。逃げ出したい。今すぐに。
兄は本当に賢いと思う。こんな家から堂々と逃げおおせたことが、素直にうらやましかった。そして、裏切られたことに気が付く。
思い返せば、両親が
両親が寝静まった時間を見計らい、与鷹はそっと床板をすり足で滑りながらキッチンへ向かった。
今朝に使った刺身包丁が記憶にちらついている。鋭く光る危ないもの。
あれを母の腹に刺したら、どうなるだろう。
解放感に喜べるだろうか。でも、父は悲しむだろう。どうなんだろう。兄は帰ってくるだろうか。
幼い考えだと分かってはいても、この衝動を抑えることはできない。感情が先走っている。
いや、落ち着け。そんなことをしたら人生が終わる。あんな人のために、自分の人生を棒に振る気か。でも、そうしないと、あの人がいなくなってくれないと、このままじゃこっちが死んでしまう。
与鷹は鼻の穴を膨らませ、戸棚を開けた。
若干、刃こぼれした暗い鉄色を見つめていると、心臓が早鐘を打つ。
――やばい。
音を鳴らしてでもすぐに戸棚を閉じた。我に返ると、汗がどっと吹き出す。
一体、何を考えていた。
母を殺そうと考えている自分に恐ろしくなる。与鷹はすぐに脱衣所へ行き、蛇口をひねって洗面台へ頭を突っ込んだ。冷水がすぐに熱を流していく。
しばらく水で頭を冷やし、十分に冷静になったところで蛇口を閉めた。髪に
――殺せ。殺してしまえ。そうすれば、お前は生きていられるぞ、与鷹。
でも、そんなことをしたら人生が狂う。それだけは嫌だ。あんな人のために、一生罪に問われるのは
じゃあ、自分が罪に問われないように完全犯罪を企てればいい。そうすれば、お前は逃げられるぞ。
でも、もしバレたら? 今日みたいに。アルバイトすらできない子どもに、そんなことができるのか?
そんなの、考えている暇があるのか。このままじゃ、お前は死ぬぞ。それでいいのか。
――嫌に決まってるだろう。
「……あーあ。バカらしい」
自問自答を繰り返すだけで、現状は満足だ。
与鷹は深く息を吸い、まだ呼吸ができることに救いを覚えた。まだ生きている。でも、いつ死ぬか分からない。その脅威を取り除かなくてはいけない。
もう一度キッチンへ戻り、今度は食器棚の引き出しを物色した。
「………」
引き出しの中には、小刀のような黒い柄の果物ナイフがあった。
これを持っておこう。あくまでも護身用として。
***
それから、有馬家は何事もなかったように穏やかな日が続いた。母の機嫌は不安定なものの、あの件ほどの癇癪は起きなかった。それが与鷹の殺意を鈍らせる。
もし次、首を絞められたら、これを使う。
きっと、以前から母への殺意はあったんだろう。そんなことを脳裏へよぎらせる。自分はそんなことはしないと高をくくっていながら、必死に妄想で補おうとしている。果物ナイフを見ていると落ち着いた。それも決まって、夜中に一人で近所の小さな公園でベンチに座り、ナイフをそっとポケットから出して見つめている。こうしていれば、不幸に酔える。ゆがんだ心に話しかければ、まだ理性を保っていられた。
やろうと思えばいつでもやれる。そんな勇気もないくせに、憎悪だけは一人前に育てている。我に返って自分を責めることもある。お前が一番悪いんだから、と罪悪感で満たした。
それも三日続ければ、日課のようになっていた。
今夜も家を抜け出して、虚しくナイフを見つめている。このナイフで腕を傷つけてみたらどうなるんだろう。こうやって自殺する人がいるのは知っている。手首を切ったら本当に死ねるんだろうか――いや、バカらしい。
顔を上げて息を吸い込んだ。喉はもう痛くない。深く呼吸すれば、夜の熱気が
その時、前方のフェンスが騒がしくなった。今や、感覚は鋭利に研ぎ澄まされ、危機管理能力だけが異常に発達している。
そんな殺気立つ与鷹の目の前に、灰色のおかっぱ頭の女性が現れた。キョトンと目を丸くして、自転車を押して駆け寄ってくる。
「やっぱり。誰かと思えば、ヨダじゃん」
ヨダ、と呼ばれるのがはるか遠い昔に思えた。
クルンとカールしたまつげと小さな鼻だけが面影を残している。灰色の髪型のせいで、すぐに誰だか分からなかったが、星空のTシャツとバルーンスカートが可愛らしい小柄な彼女に、与鷹は警戒心を解いた。
「響ねーちゃん……?」
幼馴染の野中響は、にっこりと笑って自転車を停めた。
「久しぶりだね! 元気にしてる? 何年ぶりだろー。最近めっきり会わなくなっちゃったからねぇ」
彼女はひと
「それにしても、随分とまぁ大人びちゃって。大きくなったねー。でも顔は全然変わんないから、すぐ分かっちゃった。こんなとこで何してんの?」
ひっきりなしにしゃべる響に、与鷹は口をパクパク動かした。まるで金魚のようだと
――元気だよ、久しぶりだね。ぼくも会いたかった。
言おうとして、言葉が詰まった。視界がぼやける。涙腺が壊れたようだ。
「えぇ? なんで、どうした! ちょっと、ヨダ? なんで泣くの!?」
「泣いてない」
顔をうつむけて、喉に迫る嗚咽を必死に隠す。しかし、鼻水が垂れそうで怖くなり、すぐにすすった。泣き顔だけは見せたくないのに、どうしても隠せずに
響はお構いなしで顔をのぞき込んできた。さらっと滑らかな灰色の髪が近い。
「あらら。どうしたのよ。そんなにあたしに会いたかった?」
おどける響は、どこか
与鷹は鼻をすすって、涙を拭った。顔をさらにうつむけると、それまで和やかだった響の息が変わった。
「ちょっと、どうしたの、その首」
街灯がうなじに当たったのかもしれない。非難めいた口調の響に、与鷹はすぐに顔を上げた。見られてしまった。焦りを覚え、すぐに首を隠す。
「なんでもない」
「なんでもないことないでしょ。誰かにつかまれたみたいな
油断していた。まさか、まだ痕が残っていたなんて思わなかった。表の痣はもう薄れていたのに。
響の目は探るようで、それが見透かされているような気になり、心臓が忙しく働いた。脈拍が早いことは自覚している。与鷹は喉の渇きを覚えた。
「響ねーちゃん」
「ん?」
「ジュース飲みたい」
子どもっぽく言ってみれば、響は口の端を伸ばして曇った空を見上げた。逡巡する。
「んー、オーケイ。んじゃ、そこで待ってて。逃げないでね」
逃げるつもりはない。家に帰りたくないから、まだしばらくはここで時間を潰すつもりだ。与鷹はベンチから立ち上がった。
「一緒に買いに行こうよ」
「あ、そっちの方がいいか。んじゃ、レッツゴー」
響も元気よく立ち上がり、自転車を動かした。
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