流線を描いて飛べ
小谷杏子
第一章 箱庭
箱庭①
どうやって殺そうか。
ふと、そんな言葉が
冷たい銀色のキッチンの隅で、解凍済みの赤身を前にして、長く鋭い刺身包丁を握り直す。包丁を差し入れると意外と硬く、サクッと音を立てて切れた。規定のサイズにきっちりと合わせ、丁寧に身を離す。
サクッ、トン、サクッ、トン。
まな板を小気味よく叩いていくと、考えていたことが頭からすっぽり離れていた。
――なにを考えていたんだっけ。
「有馬くん、もう店開けるから、急いで」
アルバイトのチーフが、パントリーのドアから顔を覗かせて声を掛けてくる。チェーン店の回転寿司は今日も忙しくなりそうだ。目の前でコンベアが回りだし、積み重ねられた皿がグラグラと危なっかしく通過する。
与鷹は赤身をバットに並べて、ラップを掛けた。足元の冷蔵庫へしまう。
銀色の業務用冷蔵庫を見ると、自分の顔がぼんやりゆがんだ。日に焼けて黒ずんだ少年から、すぐに目をそらして仕事に取り掛かった。
業務を終えたのは夕方だった。日が沈みかけた時間帯、それまでダラダラと続いていた年配の客層から、家族連れへと切り替わっていく。
「お疲れ様でした」
すっぱい制服と、のりがきいたエプロンから、おさがりのポロシャツとジーンズに着替えた与鷹は、キッチンに向かって深々と一礼した。この店のルールらしいことは初日に叩き込まれている。
店の裏手であるスタッフルームを出ようと、ドアノブを回した。
その時、小太りな男性社員が追いかけるようにキッチンから慌てて声を掛けてきた。店長だ。
「有馬くん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
なるべく快活に言う。
店長の青い口元にはうっすらとした笑いがある。与鷹は口の端を伸ばして、引きつった笑みを浮かべた。不自然な間が空く。
「えーっと、なんですか?」
聞いてみると、店長は「んー」と
なんだろう。途端に動揺が走り、喉の奥に唾液が溜まった。与鷹の視線は自然と下を向く。
やがて、店長はおずおずと切り出した。
「……有馬くんってさ、本当に高校生?」
店長の言葉は遠回しでもなく、かと言って直球でもない、確かめるような節があった。
「え? あ、はい、そうですけど?」
唾液を飲んだあと、咄嗟に声を発したので
しかし、店長の目をごまかすことは不可能だと悟った。彼はもう笑顔を消している。
「違うよね」
鋭い指摘に足がすくむ。グラグラと床が揺れるような気分だった。
「ちが、くないです」
「調べはついてるんだよ。あの履歴書、嘘だよね。君、中学生でしょ」
店長の声は暗く
エアコンのモーター音がやけに大きく回転し、与鷹は首をすくめた。空気の冷たさに身震いする。
棒のように立ち尽くしていると、店長はこれ見よがしにため息をついた。そして、エプロンのポケットからスマートフォンを出す。
「親御さんには連絡を入れるからね」
「ちょっ、待って! 待ってください!」
固まっていたはずの足が急に動き出す。勢いあまってつまずき、真ん前に飛び出た与鷹に店長は目を細めた。その無情さに恐怖が回る。ヒリついた空間で、与鷹は命乞いするように店長にすがった。
「待ってください! 親には言わないでください!」
「でもね、これは悪いことなんだよ。契約違反だってことくらい、中学生でも分かるよね?」
やんわりと優しい口調は、なんだか子どもに言い聞かせるよう。
与鷹は唇を噛んだ。目を
「……親にだけは言わないでください。もう、二度と来ません。給料もいらないし、迷惑もかけないので、お願いします」
「嘘をついて働いて、また嘘ついたんだから、そういうわけにはいかない」
店長は厳しく言った。事前に登録していたのか、電話を掛けるまで数秒と経たなかった。血の気が引いていく。
「あ、もしもし。突然のご連絡、恐れ入ります。私、すし
店長の口が滑らかに動く。
「あの、おたくのお子さんがうちで働いておりまして。中学生の子なんですが――あぁ、やはりご存知ありませんでしたかー」
耳を塞ぎたくなる。与鷹は逃げ出すこともできずに呆然としていた。
八月十五日は、与鷹にとって永遠に続く鬱屈とした時間となった。学校は夏休み期間中で、あと二週間は待たなければいけない。その時間をアルバイトに捧げるつもりが、今日この日で終わった。まったく、人生はままならないものだ。
一週間ももたなかった。まさか、研修三日目で素性がバレてしまうとは思わない。社会はそこまで甘くないのだと痛感した。店が繁忙期だということもあり、すんなり採用されたことで、正直なめていた。
店長が母と電話口だけで話をし、本日付で退職という運びになるのはごく自然の流れであり、解放されたのは面接時よりも早かった。
母はどうやら「改めて謝罪を」と言っていたようだが、店長は「忙しいので結構です」と冷たく断った。諸々の手続きなどを済ませ、追って書類を郵送されるという。
それから店を放り出され、与鷹は一人で帰路についた。
街を過ぎ、住宅地へ入る大通りに差し掛かれば、焦りは虚無へと変わっていた。
家に帰りたくない。帰ればどうなるか分からない。さすがに父へも連絡がいってるだろうか。
まったく、中学生という身分はどうにも自由がきかなくてイライラする。店に素性を隠して働いていた罪悪感はもう完全に消え失せている。
与鷹は進路を変え、家とは逆方向の中学校へ向かった。
県立
怒られることは明白だった。問題は、母の怒りがどの程度のものかを推測しなくてはいけない。黙ってアルバイトをしていたことがバレたという最大級の問題を引き起こしているのだから、ただでは済まないだろう。
与鷹は自分の腹を触った。
目立った外傷はなくとも、先月殴られたところが急に痛む。
「この前みたいに暴れられたら面倒だな……はぁ、最悪」
反省よりも先に身の危険を感じていた。
虫の居所が悪い時の母は、人が変わったように荒れ狂う。中間テストで赤点をとった時は夕飯抜きで机に縛り付けられていたのだが、学期末テストで赤点をとった時は叱られはしたものの、夕飯は食べさせてもらえた。
それはまだ序の口で、直近でひどい目に遭ったのはつい先月のことだった。夏休みに入ってすぐ、貯金していた金を出せと突然に言われたのだ。
「受験生なんだから、遊びに行く時間はないからね。お金も使わないでしょ」
母は手のひらを出して言い放った。
「ぼくが貯めたものなんだけど」
全財産を奪われては堪らない。当然に抵抗したら、母の眉が一気につり上がった。手のひらは与鷹の頬を叩き、その威力に驚く。
「正月のお年玉でしょ。それは誰が働いて作ったお金だと思う? ママやパパのお金なんだよ。あんたのものじゃない。勘違いしないで」
――だったら渡すなよ。
今思い出しても、あれほど理不尽なことはない。理不尽と言えば、母は怒りのタイミングが不規則だ。暴力のタイミングがつかめない。機嫌が悪いのはいつもだが、兄が家を出た一年半前から与鷹への当たりが強くなっているような気がする。
「あんたはいいよね、毎日楽で」
外はセミが咽び泣く三十八度の世界なのに、家の中は氷点下のごとく冷え切っているのだ。
「仕事してもお金は貯まらないし、それなのにあんたは能天気にご飯食べて、いいよね。うらやましい。そんな風にぼーっと生きてていいよね」
母の粘っこい
「パパの稼ぎが悪いから」「こんなに頑張っても意味がない」「お兄ちゃんは帰ってこないし」「あーあ、こんなはずじゃなかった」
不満の言葉を途切れ途切れに思い出し、気が滅入った。
――逃げたい。
家にいても居場所はない。金もない。母の不満の材料になるくらいなら、兄のように家を出て行って逃げたい。
でも、それはまだできない。中学生だから。
二つ上の兄の経歴を使って履歴書を書いた。自分でもバカなことをしているとは思ったが、もう後に引けなかった。そんな抵抗も阻まれてしまえば、逃げ場所なんてない。中学三年生の夏休みなど、家庭環境に輪をかけて受験も迫っている。現実を直視できないほどに地獄そのものだった。
与鷹はときおり足を止めて、時間をやり過ごす。しかし、いずれは帰らなければいけない。
なんと言って謝ろうか。どうせ、母は「謝れ」の一点張りだろうが、その猛威は果たしてどの程度なのか。殴られるのは覚悟しよう。
「黙ってバイトをしてすみませんでした……で、いいかな」
空に向かってぽつりとつぶやいた。答えは返ってこない。
「お前はいいよな、自由で」
白い満月を背にして飛ぶトンボに、指でつくった銃を向ける。「パーン」と口を動かして笑う。それは干からびていて、トンボはびくともしなかった。
学校の校門に辿り着くと、門がぴったり閉じられていた。鉄門の脇は青々と茂る桜の木が植わっている。部活生もいない。
スマートフォンをポケットから出し、画面を見るとすでに十九時を越えていた。
「うわっ……最悪」
見計らうかのように母の着信が入った。夕飯の時間を過ぎていることもあり、もしかすると電話口で怒鳴られるかもしれない。そんな不安に掻き立てられ、与鷹はコールをやり過ごそうとした。しかし、いくら待っても着信は続く。与鷹は諦め、ゆっくりと通話ボタンを押した。
「……はい」
『何してるの?』
耳に押し当ててすぐに母の声がした。怒った口調ではなかったので、意外だと思った。心配しているのかもしれない。もしそうなら、とても申し訳ないことをしたと思う。
「ごめん。すぐに帰る。今、学校の前にいるんだけど」
『学校? まさか先生に呼び出されたの? 与鷹、どうしたの? 何があったの?』
「えーっと……」
『黙ってアルバイトなんかして、まだ中学生でしょ? どうしてそんなことしたの? 非常識よ、こんなの』
「それは……」
――母さんが金をとったから。
言えたらどんなに良かっただろう。しかし、出かかった言葉は喉元で固い
『もういい。早く帰ってきなさい』
冷たいガラスで隔てられたままでは、母の顔色まで窺い知ることはできない。しかし、声音から不安と混乱があることは読み取れた。母の早口に従い、通話が切れたスマートフォンをポケットに押しやる。
確かに、今までこんなに過激な反抗をしたことはなかった。母の困惑はもっともだろう。黙ってアルバイトを、しかも中学生の身でありながら。非常識だと非難されても仕方ない。冷静に考えてみれば、自分がいかに無謀なことをしたのか思い知る。先ほどまであった怒りやもどかしさは鳴りを潜めてしまった。
ここ最近は、どうにも理性が働かなくなっている。思考が暴走して、こんなバカなことを引き起こしてしまった。いや、常識から外れたことは何度もあるのだが。
テストのことはともかく、学校からの提出物を出し忘れることや、雨に濡れて帰ってくることなどなど。これではまるで、母に怒られるためにわざと事件を起こしているみたいだ。最近覚えた「
母が怒るのも無理はないだろう。こんな出来損ないが家族の一員だなんて、恥ずかしいに決まっている。
「ぼくが悪いからな……ぼくなんて、いなければ良かったのに」
早く常識的な大人になりたい。そうしたら、母も怒らなくて済むだろう。父も兄も認めてくれるはずだ。
与鷹は坂道を下った。まだ家に帰りたくはないが、いつまでも子どもみたいに
家までの道は、行きよりもわずかに速かった。フェンスで囲まれた公園を横目に住宅地の道へ入る。
与鷹の家は四辻が並ぶ通りの、三筋目を左に曲がった通りに沿って建っている。古びた平屋の一軒家は生まれた時から変わらない。
その向かいに、最近建て替えた大きな四角い家がある。石でできた表札にはおしゃれな明朝体で「野中」という文字が彫ってある。ガレージに白い自転車が置かれていた。かごのないロード用の自転車は、四つ上の女子大生で幼馴染である
「響ねーちゃん、帰ってきてるんだ」
久しぶりに口にしたその名前に、思わず兄を思い出す。そう言えば、兄は夏休みだというのに一切うちに帰ってこない。
市内の私立高校に通う兄、
そんなことをぼんやり思い出していると、有馬家の玄関が開いた。
「おかえり」
言葉とは裏腹に母の顔は陰っていた。暗く、目元は
「ただいま」を言う前に、母は与鷹の服を引っ張った。そして、力任せに玄関へ放り込む。与鷹は突然のことに受け身が取れず、床に肩をぶつけた。痛みにうめく間もなく、母は黙ったまま鼻息荒く玄関を上がる。そして、与鷹の服を掴んでダイニングまで引きずった。
「痛い! 母さん、やめて!」
テーブルの脚に体がぶつかっても、母は構うことなく無情に引きずる。そして、手が離れたかと思えば、怒りに歪んだ母の顔が目の前に立ちふさがった。テーブルの下には買い物をしてきたと思しき野菜が、無造作に転がっているのが見える。
「あんた、自分が何をしたか分かってんの?」
震え声と唸りが耳の中へねじ込まれる。細い手首には血管が浮き出ており、その手は与鷹の襟首をつかんでいた。反対の手が飛ぶ。それを目で捉えて、すぐに顔をかばった。振り下ろされた手は与鷹の手の甲を弾く。痺れるような痛みが広がる。
「ママがどれだけ恥ずかしい思いをしたか、あんたに分かる? ねぇ、なんでこんなことするの? なんであんたはそんなにバカなの? ちょっと考えたら分かるでしょ!」
――あぁ、今日はもうダメだ。
与鷹は諦めた。頭の中は真っ白で、脳は機能停止したかのように母の言葉を認識しない。
「ごめんなさい……母さん、ごめん」
「謝って済むと思ったら大間違いよ!」
抵抗なんて考えていなかった。目の前で金切り声を上げられ、襟首は掴まれたまま。謝っても許してもらえない。当たり前だ。それくらいのことをしたんだから。
「理由を言いなさい! なんであんなことをしたの!」
言葉に詰まる。今日こそ言ってやればいい。そう意気込んでいたはずが、どうしたことか。母の鋭い目はまるで捕食しようと睨む鷹のようだった。
「聞いてるの? ねぇ、口がきけないの? その口はなんのためにあるの? さっさと説明しなさい、与鷹!」
――うるさい。怒鳴るな。そうやって怒鳴るから話したくないんだ。
頭の中ではなんとでも言い返せる。だが、口は自分のものじゃないように命令を無視している。何も言わないでいることが一番いい。何か余計なことを喋りそうで怖い。情けない。されるがまま、言われるがままの自分がどうしようもなく惨めだった。
母はそんな気持ちを汲み取ることはなく、与鷹を揺さぶった。狂気的な威圧がのしかかる。次は腹を殴られるかもしれない。髪を引っ張られるかもしれない。ここまで怒らせた自分が悪いのに、どんな目に遭うかを想像して動けなくなる。
「なんなの? 当てつけのつもり? 何が気に食わないっていうの? ナオもあんたも、どうしてこんなにママを苦しめるの? ママのこと、バカにしてるんでしょ!」
「してない、そんな、バカになんか」
「してるんでしょ! いつもいつもママを困らせて、苦しめて、陰で笑ってるんでしょ! あんたたちはいつもそうよ! 冷たい人間よ!」
母は与鷹の真正面に立ち、横っ面を叩いた。弾くような音が痛みに変わり、与鷹の口はますます動かなくなった。もうずっと耳の奥がわなないている。
それからも母は喉が枯れるほど叫び続けた。こうなってしまえば手がつけられない。父が帰ってきてくれればいくらか収まるだろうが……今、何時だ。いつまで耐えなければいけないんだろう。
頬が痛い。腫れているかもしれない。首も疲れてきた。頭も耳も重たくなっていく――
耐えようと目を瞑っていると、急に体が軽くなった。不気味な静けさが漂う。
「……あんたなんか、もういらない」
低く暗い母の声。それが鈍くなった神経を掻い潜ってくる。呪いのような言葉だった。その意味が脳内で変換された瞬間、漠然と悲しみがのたうつ。
恐る恐る目を開けてみると、母は与鷹の上にのしかかってきた。目は虚ろで、涙を流している。苦しそうに歪んだ顔と、伸びる手に恐怖を覚えた。
――殺される。
そう思った時にはすでに遅く、母は与鷹の首を絞めていた。
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