第6話 妖しい光の海水鳥苑(シーバードホテル)中編 

 魔の間、という部屋に案内された僕に鍵を渡して動物は寂しい長い廊下をカツンカツンとまた戻って行った。

 ここへ来るまでもたくさんの客間の前を通ったし、この先もまだ客間は続いているようで、その証しに、客間の名を記した提灯が遠く向こうまで一定の間隔で連なっていた。その果ては薄い冷気に霞んで見える。

 

 僕は魔の間の戸を開けて入った。

 ぼんやり赤い提灯が照らす短い廊下の奥に座敷があり、そこへ上がると僕は濡れたままの服を脱いで乾かし、随分古い掘り込み式のコタツに入って体を温めた。

 部屋の掛け時計は四十時という時刻を指していて僕はすぐ見るのをやめた。奥まった床の間に、けったいな動物の彫刻がある。青塗りで、垂れ下がった鼻に黄色い目の、なんだかうんざりする動物だった。掛け軸には上から下まで眼が並んで僕を見ていた。

 暫くしてようやく身体が温まると、部屋の中を少し歩き、押入れを開けてみる。色んな浴衣が無駄なほどたくさん掛けてあり、僕はそれを一つ――泳ぐ金魚の模様の付いたものを――着て、窓際に立った。障子を開けてみる。コオコオ、と唸るような音がして、冷気がゆっくりと部屋に入り込んで来た。

 相変わらず高く澄んだ夜空で冷たく輝く星達が、随分高い所で静止したままだ。夜は動いていないようだ。顔を出すと、大小のネオンが横へ下へ揺れて続いている。景色は暗くぼんやりした影としてしか見えない。この部屋は旅館の入り口とは反対側にあたるのだろうか。あまり寒くなるといけないので僕はもう障子を閉めて今一度コタツに戻った。

 すると部屋の明かりが随分暗くなった、と思ったら、天井の電灯が消えかかって、二、三度点滅しようやく明るさを取り戻したが、それでもこの部屋の明かりは幾分暗い感じがする。

 

「ここはどうも疲れがとれない。僕は食事も済んでいないし、浴場へも行こう」

 僕はこの部屋に不釣合いな妙に光沢のある黒電話を取った。

「浴場と食事場は一緒の階にありますか。そうですか、それあ随分下りないといけないと。ところで夜は何時に明けます? 八十時? そうですか……」

 

 僕はもう一度掛け時計を見た。針は百時(漢字で書かれていた)で一周していた。時間の経ち方、針の進み方は通常の一秒、一分、一時間、のようだ。

 

「とにかく夜は長そうだ……」

 僕は部屋を出た。

 

 

 廊下を歩き客間を六部屋ほど過ぎると、その脇に、ぼうっとした提灯に照らされ、赤い絨毯の敷かれた階段が下へ続き、一度踊り場があって折れてまた下へ続いていた。その下にもまた踊り場があり、暗くて見えない下の方まで、階段は続いていくようだ。その下の下の暗闇には暗緑の薄い灯りが薄ぼんやりと漏れているのが見える。階段の中程に冷気の丸い珠が浮いて漂っている。

 見ていると一度光が何か影に遮られて歪んだので、誰かいるのかと、僕は階段を降り始めた。

 手摺りは漆塗りの艶々した焦げ茶だが随分と古そうなもので、埃が被り、よく見ると絨毯にも薄っすら埃が積もっていた。やはり下方に揺らめく暗緑の光は幾度かそれを横切る何かで揺れるので、人がいるのだと思うが、一向にその元は近づいてこない。やがて、下の方に確かに人の声らしきものが何か旋律と拍子とに混ざって聞こえてくるので間違いないと思うが、よく聞くと恐ろしくもうずうっと下の下の方でそれはしているようだった。階段から覗き込んでも光はまだまだ下の方にある。埃の層もますます厚くなり、この階段はどうも人が使ってはいないと僕は判断し、次の階まで降りると脇の廊下へ踏み出した。

 そこも僕の宿泊する階同様、恐ろしく長い回廊が提灯と共に左右へ伸びておりその一方の奥を目を凝らし眺めようとすると、ふいに後ろから何かに触れられた。振り向くと同じように続く回廊、少し見下した位置に、僕を部屋に案内したのと同じ旅館の者らしい着物の小動物が立っていた。

 

「驚きましたな。お客様、階段を下りてどちらまで? ええ、ここは十七階。風呂の間は百四十二階ですぞ。夜の内に辿り着けませぬ。エレベータをご使用くだされ。はい、二階まで下りればありました。以降五十五階までの宿泊施設にはどの階にも付いております。風呂場の上百四十階まではまた客間で……さあ、こちらです。お乗り下さい。では、下ります。百四十二階、風呂間……ええ、その間は、従業員の部屋ですとか、あと、クジラとか海の司祭がお泊りになる階があります。ええ、海の司祭達はそれはもう……ただクジラの奴目はここだけの話、奴はひとりでまるごとひとつの階を使いますから、あれが泊まると浴場も時間を禁制せねばなりませんし商売あがったりなもんで……さあ着きますよ。エレベータだと早いのです。いえもうクジラはここ百年は泊まっておりませんし、さ、さ、お降り下さいませ、ええこれからも泊まる予定はありませんのです……ごゆっくり」

 

 小動物の黄色い目が、閉まったエレベータのドアの向こうに消えた。ウンウンと小さく音がしてエレベータは上がっていってしまった。

 

 

 エレベータを降りたところは幾分広いスペースで、もう寒さや冷気は全くなく、ただ低い天井の電光が消えかかって点滅しているので暗かった。横の壁に、暗いのでよく見えないが黒板や、掲示板に何やかんや貼ってあり、「風呂間」と墨で書かれた大きな木札も掛かっていた。長椅子と灰皿らしいものも置いてある。

 立ち止まって黒板に何か書いてあるのか、掲示板に張ってある紙にはなんと書いてあるのか少し眺めていたが、ホテルや風呂場の決まりが書いてあったり、あとは古くて黄色くなったり薄茶けた文字も読み取れない紙が、またもっと古い紙の上に貼ってあったりするだけだった。

 エレベータと向かい合った壁にある風呂間の入口からは、先程から、明かりとともに人の声や音楽が聞こえていた。階段の上から聞こえていたのもこれと同じものと思われたが、ここで聞いても不思議と同じくらいの距離で聞いているように思われるのだった。

 

 扉もない開きっぱなしの入口を抜け、暫く続く薄暗い幅広の廊下を進んで行くと、次第に声と音楽は大きくなり、急速度に増していった。病院の床のような柔らかいリノリウムの床だった。途中の脇に階段があり、自分がさきに途中まで下った木造階段とは様子が違って白いタイル張りの階段だったが、ここが一階までつながっているのだろうか。それを横目に通りすぎ、古びた扉を一つ開けると、どうやら風呂間へ到着したようだった。

 

「風呂間と言うか、その一端なのだろう。風呂から上がったあとにくつろぐ宴会場なのだ、これは」

 

 宴会場らしいその天井の高い大広間の、随分中途な位置にある非常口のような扉から出たのだった。

 すぐ目の前に、鍋やとっくりや食事の盛られた長い食卓の一つがあって、同じ長い食卓がずうっと反対側の端まで二、三十くらい並んで、この位置から見て左手側にあるステージの前まで、右手側にある浴室への案内まで、長食卓は四、五十メートルはあろうかという程に伸びている。食卓の前にはいい塩梅に出来上がったのから泥酔のまで、中にはもう既に眠りこけているのまで、風呂上がりの浴衣を着た老人ばかりが胡坐をかいて、ステージから流れる演歌のカラオケと歌い手の歌に合わせて、手拍子を取ったり踊ったり、薬缶や食器を鳴らしたり、お面を被ってはしゃいだりはたまた鼻ちょうちんで鼾を掻いたりという光景が広がっているのだった。

 

「僕はさっさと風呂に入ろうか」

 

 壁際を通って、浴場への入口までもまた随分歩かねばならない。壁にもたれて寝る老人、箸やしゃもじを振り回す老人、酒を呑めと絡んでくる老人をかき分けながら進むので余計疲れてしまう。

 

「ただ、ラーメンを食べている老人を見て、どうも食欲は回復した。僕も風呂から上がったら、隅っこであれを頂くとしよう。お金なら幸いにたくさん持っていたわけだから。宿泊費を払うにしたところで一人分くらいどうってことはない。   

 ……? しかしここは随分と老人ばかりだな……これは、ラリステイションを出た者たちではないか!? 独楽出もこの中にいるのではないか?」

 僕は目の前の壁にもたれ泥酔している老人の肩をゆさぶる。

「もし御仁、あなたは何処から来なすった? ラリステイションではないでしょうか。そして、独楽出はこの中にいますでしょうか?」

「うーい! 黙れ、ワシャ風呂から上がって来たんよ! なんか知らんが、探し物なら自分で探せ! ワシャもう探しもんはたくさんじゃ。この上他人の探し物までしておったら見つかるまでに死んでしまう! ワシャ今食っておるこの蟹の脚の如く残ったワシャの生を貪っておる最中じゃ。邪魔するな!」

 

 誰に聞いても、同じ答えが返ってくるばかりだった。食っているものが、蟹の脚か、豚か、メロンか葡萄か、醤油ラーメンか味噌ラーメンかという違いくらいで、皆貪っているのは自分の生で、探し物を異様なまでに拒否した。皆、爺か婆か判らぬよぼよぼの老人だった。僕は浴場への入口までこうして老人達に返答を求めたが、何も得ることなく、男湯の暖簾をくぐった。

 

 湯気に曇ったガラス戸を開けようとすると、一人、風呂上がりの赤くのぼせた老人が立ち現れて、「いやもう探し物はたくさん。ワシも今から残り少ない生を貪りに行く」と言って宴会場へ去った。

 老人が行った後、着替え室にはもう誰もいなかった。小ぎれいに片付いて、たくさんの木の笊の幾つかに、手拭いや下着が置き忘れてあった。浴衣を脱いで(しまった、着替えを持ってくるのを忘れたな)、すぐ浴室へ移った。

 

 さっきの宴会場の百分の一しかないだろうと思うほど、浴室の方は狭くてがらんとしていた。

 四角い大き目の浴槽が一つ、脇に一人か二人入れるくらいの浴槽がもう一つあるが、これは水風呂だった。左手にバケツ、石鹸類、蛙の置物などがまとめて置いてあり、右手に体を洗う場――縦長の鏡と蛇口と――が四つ程あるのみだった。壁にもとくに絵なども描かれておらず至って質素であった。風呂中に湯気が満ちていた。

 湯舟に浸かると、ちゃんと温かく、ようやくひと時の安らぎを得て今迄の疲れも取れていくようであった。

 よく見ると、湯舟の隅に、湯気に埋もれて更に顔半分まで湯に埋もれ心地よさそうに目を閉じている老人が一人残っていた。

 

 

 風呂から上がると、もう宴会場には人一人残っていないのだった。

 ステージだけは明かりが落ちて暗くなっていたが、大広間の天井の電気は付いたままで、食卓の上は食べかすや湯気の上る鍋や薬缶が、畳の上にも食べこぼしや酒瓶や蟹の殻が、散らかったままだった。しかし寝息を立てて眠る老人の一人も残されてはいなかった。全く今はシンとしてしまった。ステージ脇の大きな振り子時計は、59時に差し掛かっていた。後ろを振り返ると浴室の明かりももう消されていた。

 

「もう今は真夜中で、消灯時間なのかも知れない」

 

 言うとまさしく、パチと宴会場の明かりが全て消えて、最初に入って来たドアの上に非常口の緑色の照明が点灯するのみだった。

 

 風呂間を出ると、やはり深夜の病棟のように静かな薄明かりの廊下だった。階段の横を通りかかった時、今度は上の方から(と言っても随分上からだろう)、微かに拍子や笛太鼓の音が聞こえてくるのだった。

 僕は眠い目を擦ってエレベータに乗った。

 二階……。

 

 

 二階で降りたが、降りた所に、小さな戸がひとつポツンとあるだけだった。そこを開けると、真っ暗だがどうもトイレらしい小部屋に入った。便器がある。もう少し目を凝らすと、個室用らしい浴槽もある。ここは個室の客間? 僕の部屋に風呂は付いてなかったが、付いている部屋もあるのだろうか? しかしおかしい。ここは本当に客間なのか? 二階に降りた途端にこの部屋だったが? 本当に二階だったろうか? 一つの階全体が一つの部屋。クジラの宿泊部屋……ということが僕の頭をよぎった。もしかしたら階を間違えたのかも知れない。でも、クジラの階にはエレベータは到着しない筈……そう考えるうちに、このトイレと浴槽のある個室の外、さき入って来た戸と反対の方から、人の話し声が漏れてきた。客間からここへ入るのだろう本来の扉がある。扉はわずかに開いており、扉の向こうも明かりはなく真っ暗のようだ。そこを静かに出ると、暗がりに身を潜めた。

 

 荒くなった二人の息が聞こえてきた。

 いっそう辺りは静けさを増したようで、男と女の息はその静寂の中大きく、女の息遣いは耳元で響くようにまで思えた。漆黒の闇の中、女の白い肌が、暗い水面をよぎる魚のように美しく光ってちらついた一瞬、僕はあまりそれが綺麗で「あっ」と声を上げた。また真っ暗闇に戻りその中からすぐ声がした。

 

「誰、そこにいらっしゃるのは?」

 声は一寸も取り乱した様子がなかった。

 声がやむと辺りはピッタリと静かになり、さきまでの二つの荒い息はもう整っており、今度は一つ離れてせわしくなる息遣いがあった。僕はそれに耐えられない。

 

「い、いえすみません……ここが他人の部屋だと気付かなかいままに入ってしまって……通りすがるつもりだったのです」

「その声……! あの時の……。どうします? あなた」

「俺が猟銃で撃ち殺してやろう。この猟銃はとても痛い、とても痛いのでな、有名なのだ小僧」

「どうかご慈悲を!」

「あなたおやめになって。さあすぐ、ここを立ち去るのです!」

 

 もう一度暗闇の中に婦人の白すぎる肌が見え、透明な汗がツツと流れた。

 身をかがめ部屋を横切り駆け去る僕の後ろでまた荒い息遣いがし出して、「聞かれなかったか?」「かまわないわあんな……」と、そこまで声が聞こえ、僕は次にもう入口の戸を抜けていた。

 

 そこは廊下から奥まった石畳を隔てた豪華な玄関にいっそう大きな提灯が下がった立派な木の門戸で、「六鹿の間」と書かれていた。濁り硝子の向こう、灯りが揺れて滲むのは見えたが、もうここは冷たくてシンとして、何も聞こえなかった。石畳を歩むと、延々客間が続く廊下の一番突き当たりだった。提灯の火が斜めに揺れる。

 

 僕は廊下をいっぺんに走り出していた。

 百くらいの提灯は越したと思う。そのうち階段が見え、確かにここは二階だったのだ。二階と記された提灯がぶら下がっているし、この階段を上がり、六つの客間を越して僕は自分の宿泊部屋「魔の間」に戻り、僕が部屋を空けている間に敷いてもらってあった布団にもぐり込んで全くそのままあっという間に眠り込んでしまった。

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