第II部 妖しい光の海水鳥苑 - シーバードホテル -

第5話 妖しい光の海水鳥苑(シーバードホテル)前編 

 随分筋肉が痛む。それに、随分寒い、本当にもう凍えるようだ。

 救命艇の入口は半開きで、外から冷たい空気が入ってきている。前面のガラスは白く凍って見えないが、半開きのドアから、暗い夜空に星が点のようにばら撒かれているのが見えている。真ん中の席に独楽出はおらず、シートは霜が下りたようになっていた。その横で固まった老人も霜でいっぱいだった。随分小さくなったように見えた。目は閉じて、口は開いたままだった。

 

 僕は立ち上がり(体に付いていたたくさんの霜が落ちた)、首や肩、手足を二、三度動かすと入口へ向かう。

 

 暗黒の星空の下、広大な冷々とした大地が広がっていた。

 視界に入る地平の彼方いっぱいに広遠な黒い山脈が連なり、大地には、冷気なのだろうか青白い霧か煙のようなものが這うように流れている。後ろを向けば、視界の果てる向こうで青白い煙の塊が濛々と渦を巻くように立ち上っているのが見える。地を這う霧のせいではっきりとは見えないが、大地はゴツゴツとした原野のようだった。

 救命艇から下り立つと、それまで気付かなかったが青くて丸い小さな鳥のような生き物が艇の周りに集まっていたようで、それがわあっとヒヨコの如く逃げ散って四方の霧へ消えていった。

 暫く辺りを眺めていると、煙が濛々立ち込める方角の遠くに、赤や黄色やピンクやらどうも灯らしいものが見える。街の灯かりのようにも見える。

 

 僕がそちらへ向けて歩き始めた時、ズルズル重たいものを引きずる音が聞こえ、行き先の霧の中に影が見え、やがて小さな老人の姿になり、そして独楽出だな、と判定できた。彼は黒い重たげな大きな長方形を綱で引っ張ってきた。

 

「起きたか? 小僧。棺は一つでよかったな。高かったのだぞ。さあ、死んだ油侭をここへ入れるのを手伝え!」

 

 僕は言われるままに、艇内からかちかちになった油侭老人の体を手伝って運び出し、黒い棺に納めた。

 棺は一つでよかっただと? 僕もここに入れるつもりだったのか。よく見ると救命艇の脇に、さきに運んできたのか同じような黒い棺がもう一つ置かれていた。

 湯侭老を棺に葬る時、見たこともないけばけばしいまでに青い色をした大きな花びらの花が、棺の中いっぱいに敷き詰められていた。

 

 湯侭を葬ったこの男を、僕はさき独楽出だと判断したが、男の顔色は恐ろしく青ざめ、しかしこれが本来元の顔だったかのように自然で、目は黄色く鼻は細長くぶら下がり、皮膚はささくれ立って、知らない動物のように見えた。どうもあなた独楽出ですよね? と聞くのを躊躇わせた。この腰の曲がった知らない動物は、冷たさに湿って折れ曲がった黒いハットの下から小さな目を覗かせて僕を見て言った。

 

「運ぶのは明日にしよう。お前も先程から見えておるだろうな、あそこに妖しくチラチラ光るのが海水鳥苑じゃ。あの向こうはすぐ海で、あそこが最良のホテルでな。お前も今晩はあそこへ泊めてやろう。この棺は一晩ここへ寝かせて明朝また取りに来るのでお前も手伝うのじゃよいな」

 

 黒いハットに黒い外套を纏って腰の折れた動物と、黙々、三、四十分も歩いただろうか。

 靴は足元を流れる冷たい霧でビタビタになり、服も湿って気持ち悪かった。水滴が髪を伝って垂れてきていた。時折歩く足元に、さきいた青いヒヨコがぱたぱた姿を見せては逃げまどった。

 筋肉はかちかちになって疲労は限界に達してきた。段々近付いていたと思っていた灯が暫く見えなくなっており不安になっていたのだが、どうやら緩い勾配を下り上りとしてきたらしく、突如、あの灯の街が眼前に拓けたのだった。

 少し濁ったような青白い霧の中に、まばゆい光を揺るがして巨大な建造物があった。古い造りの豪奢な旅館を思わせる。幾多の窓や随所に掛かる看板や提灯やらがその色とりどりの光を発しているようだ。足元が幾らか緩い勾配になって下り始める所に、建物の入口に続く橋が架かっている。

 橋のたもとまで行くと大地は途中から急勾配になっているのがわかり、眼前に見えているのは建物上階の一部分であり、この巨大な建造物は急勾配の下方に渦巻く濃い霧の中に消え入って見えなくなるずっとずっと下の方まで続いているのだとわかった。最上階部分が入口になっており、そこへ木造の橋が架かっているという風な造りだ。


「さあ。ここの夜は長く寒いのだ。今晩はもう風呂にでも浸ってゆたりと休み、明朝必ずここに来い」

 黒いハットの動物はそう言い、僕に橋を渡るよう促した。

 

 冷気がその下を渦巻く橋を渡って、旅館の入口へ向かう。

 海水鳥苑と書かれた一際大きな青白い提灯が燈り、装飾の柱や縁取りに彩られた豪壮な入口を照らし出していた。眺めれば建物の左右にも覗けば橋の下にも、大小百色のネオンが、遥かに小さく見えて霧に消え入るまで延々と揺れていた。

 木の戸を開けて、僕は中へ入った。

 入ったところは割に小ぢんまりとした古い木造旅館の受付といった様子だ。

 すぐその場にいた人が一礼をして出迎えた。

 

「シーバードホテル、海水鳥苑へおいでやす。今宵客間は詰んでおりますが、ひとつ魔の間が空いております。尤も、安全な部屋ですよ。さあどうぞこちらへ」

 

 この者も、腰の曲がった、青ざめた顔に黄色い目と細いぶら下がったような鼻の、古びた着物を着た小動物だった。

 館内も些か寒く、ここにまで冷気の小さな塊が漂っていた。

 所々薄明かりの照らす寂しい石の廊下を、動物に案内されて僕は歩いて行った。

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