第4話 彼女

 シミが一つ、壁から剥がれていた。彼は何か弱々しく語っている。

 

「すまんが、独楽出どんよ。わしも乗りたいんじゃ」

「油侭老人、どうした、何故じゃ」

「急に生きたくなったんじゃ」

「黙れ! それなら先に言わぬか? もう遅いわ。われ等、覚悟はできとったじゃろうて? あ?」

「そうじゃがの、そのう……いざとなったら死にとうないんよ。後生じゃ、頼む」

「そんなのは皆口に出さんだけで同じじゃあ。それが覚悟いうもんちゃうんけ?」

「あのう……どうかよければ相席なさったら……」

 言ったのは彼女だ。

「当たり前じゃ。相席はするわい。わしがな。わしは元々最後に乗るつもりじゃったのじゃ。わしは生きねばならん人間なのだ」

「それはわかっとるが……」

「あの、……私の代わりに乗って下されば……」

 何だって、何でそんなことを。彼女は何を言っているのだ。

「ごめんなさい。私……考えたいことがあるので、ここに残って……」

 そう言うと彼女は僕の方を向いた。

「今迄ありがとう。そうだ私、一つ最初に嘘を付いていて……実は彼氏、いたんです……ごめんなさい。嘘を言って」

 そんなこと本当にどうだっていいのに。三重に着くまでのパートナーだって言ったじゃないか。それに、よこしまな気持ちは起こさないって……。ああだけど、三重に着く、だって……? そんなことはもう遠の昔に何処か別の所へ行ってしまった問題じゃないのか? 僕は何処へ行く? ……僕も考えたい。ここに残って。

「あの僕も……」

「ええのじゃ、ええのじゃ! 嬢ちゃん。こんな老人、口ではこう言うけど、言ってみたかっただけなんだよ? わかるかい? さあ、もうじき救命艇が着くから、乗っていくのじゃぞ? わしも一緒じゃ」

「でも……」

 

 暗いレール線の消え入る方から、これで最後らしい救命艇の音が大きくなってくる。

 ああそうだ。なんでここに残る必要がある。この飛行艇はもうもたないって言ったじゃないか。ここに残る老人達は、「死」を覚悟していると説明されたじゃないか。ここに残ったら死ぬんだ、ここへ来てそれがわかってないのか? この女性は、頭もいいし物わかりもいいのに、ここへ来てまたパニックか……そうか、最初の出会い、あの転倒した電車の中で初めて会った時もパニックだったじゃないか……いや、初めて会ったというなら、名古屋を出た時からこの人はずっと僕の前の席に座っていたじゃないか。大人しく、礼儀正しく、あの気品のよさは電車に乗ってきた時からわかっていたことだ。僕は何となしに彼女を気にしてはいた……か。でもそれがなんだ。僕らは〝この旅が終わるまで〟の……

 救命艇がホームに入ってきた。

 

「さあ、乗るのじゃ。若いの、さ」

「はい。皆さん、さようなら」

 

 ……それに、今の彼女は本当にパニックか? 電車が転倒した時のようにあからさまなパニックじゃないけど、頭の中はどうかしているのじゃないのか、だってそうじゃないか!! いやむしろ、あの事故の前の、気品があって落ち着いた彼女じゃないか、今目の前の彼女は……

 

「本当にいいんです。さあ、おじいさん」

「おお、すまんのう……優しい娘じゃ……」

「命拾いしおって! どうせすぐ死ぬ命を……。それに引き換えもったいない……あの美しい白い肌……」

 

 何を言ってるのだ、この初老の男が……

 ?!

 そんな馬鹿な筈はない!!

 僕の左に乗っているのは(初老の)老人、その左に乗っているのはさらに(もう本当によぼよぼの)老人! その左の彼女は……ガラスの向こうじゃないか!!

 こんな馬鹿なことはない!! こんな馬鹿なことは……

 いちばん左の窓際の老人は涙を流して彼女を見ている。そしてガラス越しに、ガラス越しに、その彼女が手を振っている。

 違う! 彼女は、僕に手を振っているのだ!! 彼女は僕を見ている!

 よぼよぼの爺さんが両手を合わせて拝んでまでいるその先に……もう彼女の姿はない!!

 もう最後の救命艇は出たのだ。後ろを振り向いた時見えた明るさは俄かで、すぐに仄暗い穴の中に僕らは入った。男一人に、老人二人を乗せた最後の救命艇が。

 

 彼女は僕を見て――いた。

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