第2話 不思議の始まり
街の方へ向けて歩く人達に加わった。
人々は列になり、田畑を通る幾本の畦道をぞろぞろと歩いて行く。
列車の中に残された怪我人もいるだろうけど、これはけっこうな人数だ。十車両くらいあったろうから、こんなくらいになるか。
救助活動をしている人達もいたが、それには加わらなかった。もう随分な人数が救助に当たっている。随分な人数も街へ向かっている。どちらでもいい気がした。どちらでもいいのだ。
時刻は午後三時半。日が暮れるまでにはまだ時間はある。とりあえずは街がどうなっているのか、まずは街へ向かうしかない。可能性は薄いがバスやタクシーは動いていて、意外と早く三重に、お互いの市へ戻れるかも知れないし、もしかしたら家とも連絡が取れるかも知れない(これも可能性は薄い……)。
街へ向かう人、人の列。途中で休む人もいたし、列車の方へ戻る人(置いてきた荷物を取りに戻るのか、救助の手助けをしようと思い立ったのか)もいた。電話でも借りるのか、怪我のためか、その辺の民家(田畑の近くに小さな民家が数軒あった)に立ち寄る人もいた。一人で言葉もなく黙々と歩く人、数人の友人で半ばピクニックのように騒ぐ人。無傷の人も、血を流し続ける人もいた……。
田畑を抜け、避難したのか既に人のいない様子の幾つかの民家を横目に、人の群れは市街地らしい所へと入っていった。
最初の大きな道路に出るまでの通りで既に人だかりになってしまって、ゆっくり前に進むのを並んで待つよりなかった。随分長かった。こうなると、二人になったのが幸いだ。僕らは、お互いのことを軽く話し合った。路地裏らしい狭い道だったけど、自動販売機がやけにたくさん見えていて、そのうち列が進むと買うことができた。彼女はジュース代くらいはあるみたいだったが、おごってあげることにした。あまり意味はないとも思ったけど。
彼女とは、話した感じではそれなりにうまく行けそうだ。考え方も近いところがある。ただ、ジュースは、僕は冷たいココアを買ったんだけど(僕はココアが好きだ)、彼女はレモン味の清涼飲料水を買っていた。いや僕が先に冷たいココアを買ったから、わざわざ一緒のものにしなかったのかも知れない。冷たいココアまで一緒だったら、もっと親近感を持った気がするのに、かなり一度に近づいた気がしたろうになあ、と意味もなく少しばかり残念な気がした。
路地裏の道の半分を過ぎたくらいまで来た。もう午後四時半近くになっていた。進むにも戻るにも、もう人ごみに埋もれてしまってどうしようもない。尤も、逆行する人はいなかったが。僕はあまり人と同じことをするのが好きな方ではない、むしろ少しばかり人と違うくらいの方が好みではあるのだが、ここで敢えて逆行してみようなどとは思わなかった。
他の人に聞かずとも、とにかく皆街の中心へ出ようとしていて詰まっていると、それだけがわかることでそれだけしかわからなかった。前の方でも後でも、そんなことばかりが、つぶやかれたり、怒鳴り散らされたりしていた。何台もあった自動販売機のジュースもさすがにもうなくなったみたいで、喉が渇いて泣いている子どもや深刻に嘆いている大人も見受けられた。巻かれた包帯やタオルから血がにじんでいる人もいたし、頭を抱えて道の脇に座り込む人もいた。随分苛立っている人達もいた。店の裏口(ここは路地裏でどの店もこちらに裏口を向けている)を「開けてくれ!」と叫んで叩く人もいたが、ドアは閉ざされたままだった。そう言えば、どの店も、上階の窓を見上げてみても、人の気配がなかった。空は煙のせいもあるのだろうが、随分汚い色で曇っていた。雨が降りそうな空ではなかったが。
もうすぐのとこまでは来ているのだが、路地裏を抜けた大通りらしきところから聞こえてくる物音やサイレンやらはなくって、ただこの狭い路地裏の道に充満するつぶやきや呻き声、怒鳴り声や叫び声、ヒソヒソ話や騒ぐ声が響くのみであった。前方の大通りからも僕らが来た後方からも隔離された一つの場所のようだ。
後ろの方でとうとう店の裏口の戸を叩き壊すような音と喚声が聞こえたが、その時列がごそっと進んで、僕らは前へ押し流された。
*
路地裏を抜けた途端、人は突然まばらになって、喚声も遠のいた。薄暗い。ここは地下鉄のホームらしかった。すぐ後ろの階段の上の方から、さきの人々の喚声が聞こえる。あの路地裏を出たすぐに地下鉄への階段があって、押し流されて来てしまった? それにしてはあまりに唐突だったのだが。それにあれだけいた他の大勢の人達の姿はなく疎らに人がいるのみだ。
とにかく階段を上がって大通りへ戻るか。
「旦那さん、危ないでっせ。そっちへ行くのは」
僕は、階段を上がろうとしたその時に、幾つかのことをした、かつされた。先ず最初に、彼女、さっきまでずっと一緒だったあの列車の前の席の女性とはぐれたのではないかと思い立ち振り返った――これが先ずしたことだと思ったが、その前に誰かに声をかけられて、腕を引き止められた――こっちのがわずかに先だったようだ。一瞬差で、彼女のことへの思考が自然と立ち上る直前、誰かに腕を引かれたのだ。それから立ち上りかけていた思考(彼女はどうした?)が出てきた。そして(僕の腕を引いた誰かじゃなく)彼女を探すという思考で後ろを振り向いた。そうしたら、その誰か――黒い帽子をかぶった背の低い初老の男性――が目に入った。と同時に、その幾らか後方、売店らしき窓口に向かって話している彼女が確認でき、ちょうど彼女はこちらを向いて軽く微笑んだので、安心――何故だか随分がつくくらい安心した(彼女は僕のことを見失ってなかったのだな。僕が階段を一人で上って行こうとしてしまったことには、今こちらを見て気付いたか。いや僕はその前に向き直っていたわけなので、彼女にしてみれば売店の方を向いていたその前に僕を確認しているならそのままの状態ということだ。そしてさき僕を呼び止めた人がちょうど僕の今前にいて、呼び止められてもすぐ返事できずにいる僕に(先ず彼女のことを探してしまったからね)少し首をかしげている)。僕を呼び止めた人は、僕の返事の前に僕にもう一度話しかけてきた。
「大丈夫ですかい、旦那? 上へ行くのは危ないでっせ」
なんて返事をしよう。この呼びかけには幾つかの疑問が出る。しかし、僕は実は、階段を上がろうとする前、彼女のことへの思考が立ち上るより前、この初老の男に呼び止められるよりも前に、既に一つの疑問が自然と立ち上っていたのだ。整理しよう。
僕は階段を上りかけた。その時には一つの疑問が頭に浮かんでいた。誰かに腕を引かれた。彼女のことへ思考が立ち上った。誰かに呼び止められた。そして振り向いた。この時点で僕の頭にある最優先事項は彼女への思考なのでそれに基づき先ずは彼女を探した。見つけて安心して彼女のことはひとまずOK。そして呼び止めたこの人への対応。この人の言葉からは幾つかの疑問が生じる。しかし先ずはそもそもことの一番初めに自発的に浮かんだ疑問を解決することからだ。
「旦那……」
「どうもこんにちは。どうして、この地下鉄のホームには人がいるのです。避難するなら逆にここから出ねばならないし、残っている意味は……」
それに、なんでこの人は僕を引き止めたろう? なんで上の方が危ない? さっき二回ともそう言った。どうもこの質問一つでよさそうだ。
「まあ、そう急ぎなさんな。とにかく今上へ顔を出したら危ない」
この人は、そう言うと後ろを向いてしまい、タバコを取り出してプカプカ吸い始めた。
彼女が売店から、何か袋を持ってこちらへやって来た。
「お弁当買ったの。もうお金なくなっちゃったけど……この後は、最初に言った通り、ごめんなさい、お願いします。その代わり、このお弁当はおごり」
「あ、ああ……。それはそうと……」
いつの間にか、階段の上から聞こえていた喚声は、どうもゴウゴウという風のような音に変わっていた。少なくとも、人間の声ではないのは確かだ。
ホームの吊り看板が点灯し、今度は薄暗いレールの向こうから、地下鉄の走ってくる音が聞こえてきた。それで階上の音は聞こえなくなった。ホームに入ってきたのは、列車ではない、おかしな、せいぜい二、三人が乗れる球状の物体だ。横側にドアが一つあり、正面ほぼ全体が大きな窓になっていて、中にはイスも見え、乗り物であることは確かだ。
奇妙な物体が停止すると、気になっている階上の音を聞こうとしたが、さきの初老の男がまた声をかけてきた。
「お若いのから、乗りなさるがよいかな。お前さん達あとから来たが、もうここに残っとるのはほとんど老人ばっかじゃしな」
「い、いやちょっと待って下さい……」
僕は彼女に、
「どういうことだかわかりますか?」と聞く。
「いえ……」彼女は初老の男へ向き、「とにかく、私達はさっきお弁当買ったばかりで今から何処か行くにしても食べてからにしますので、どなたかお先にどうぞ」と言う。
すると売店とは逆の方向のベンチに座っていた男が立ち上がって言った。
「じゃあ俺は行かしてもらうよ。じいさん、確かに残ってるのはほとんど老人ばっかだが、俺はまだ一応それ以外なんでね……」
黒いあごひげを生やしたスーツ姿のその男の隣の、またそれよりも幾らか年若い様子の婦人がすっと立ち上がって続いた。
「すまんが、三人乗りじゃから一人相席させてやってくれい。そこの若いお二人が乗らんのじゃったら、このあとはもうほんとに老人ばっかじゃ。ほれ、じゃあペプチド爺さん行きなされ」
初老の男性に急かされ、よぼよぼの老人(と言ってもここにいる残りはもう全員がよぼよぼの老人だった)があごひげの男と婦人に相席した。
球体状の乗り物は出発した。意外に重たい音が響いて遠ざかっていった(それでさきも列車が来るものと間違えたわけだ)。
「さあ、早う、弁当を食べなされ。次のは18時13分発。もうあと七、八分あるわい。この飛行艇ももうあまりもたんぞ。小型救命艇ももう数があまりないんじゃ。ここに残っとるよぼよぼの老人のうち何人かはもう間に合わん。でもお前さんらは行け。どうせ覚悟はできとったんじゃ」
「飛行艇?」
僕はいつもの落ち着きをなくした。と言うよりもある種の衝動に駆られた。僕は階段を駆け上がった。
「危ないと言うておろうに!」
後ろで初老の男の叫ぶ声が聞こえたが、僕は地下鉄の階段である筈の階段を駆け上がって行く。どうせ戻るつもりだ。彼女も下にいる。それにわかっていた。だから地下鉄の階段である筈の、と言ったんだ。ほら……
長い階段を上り切って、少し用心に顔を出すと、風にゴウゴウとその身を擦られる古びた鉄の艦板。上には空。上だけじゃない、右も左もその艦板が途切れたところは、空だった。
僕は冷静な男だが、衝動に駆られていた。そのまま艦板に上がって、四つん這いで艦板の途切れるところまで恐る恐る行ってみると、遥か下に、幾つもの街が模型、まるで小さな模型のように見えたのだ。街は何処も煙を上げて所々では炎が燃えていた。先程出立した小型救命艇がこの巨大な飛行艇の斜め前方に上がって来たのが見えた。そしてそれは地上には向かわず、夕刻の星が現れ始めた空へと小さくなって消えていったのだ。
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