06 ファーストコンタクト


 マンション裏側にて――。

 ダラス巡査は二番街を巡回していた。

 人通りのすくない暗い路地が一本あって、そこにトラックが停まっていた。その傍で二人組の男が缶コーヒーを飲んでいた。ダラスは二人に声をかけた。

「やあ、あんたたちは何をしてるんだ?」

「仕事ですよ」

 男の一人が答えた。

「そのようには見えないが」

「今終わったんですよ。ここのメンテナンスです」

 と言って、男は頭上を指差した。

 ダラスは見上げる。

 背の高いタワーマンションだった。

 ――ちょうど、そのとき。

 そのマンションの小さなトビラの向こうから、

 ぱん。

 とかすかに音が聞こえた。

 それは銃声のようにも聞こえたし、そうでもないような気もした。もしも銃声でないものを銃声のように思えたのなら、それは職業病かもしれない。

 ダラスはいちおう調べることにした。

 ドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていた。

「あんた、このドアを開けられるかい?」

 トラックに乗って行ってしまうところを呼び止めて、男にドアを開けてもらう。

「……開きましたよ、刑事さん。出るときは鍵は不要ですよ。中からは開くので」

 と言って男は去っていった。

 その背中に礼を言って、ダラスはマンションのなかに入った。

 マンションのなかは息を呑むほど綺麗だった。天井に嵌められた照明の白い光が大理石の床をきらきらと輝かせている。

 ……おれは一生こんなとこには住めないな、とダラスは思った。

 四角い柱の影から少年が出てきた。賢そうな顔をしている少年だった。彼はなぜか、ヘッドセットを付けていた。それも気にはなったが、それ以上に、少年の額に汗が浮かんでいることが、ダラスは気になった。

「やあ」

 ダラスは声をかけた。

 少年は手を振って応じる。

「なにをしてるんだい?」

「ケイドロさ」

「ケイドロ?」

「鬼ごっこだよ」

「ああ……」

 ダラスは思い出した。ケイドロと言えば、ここ最近ニューヨークで流行りの遊びで、チームに別れて戦う鬼ごっこのことだ。大きな大会なんかも開かれていて、そのもようがネットで中継されている。同僚のディランが事務室のパソコンでそれを熱心に観戦していた。

「ここでやっているのかい?」

「そうだよ」

「……さっき何かの音がしなかったかい?」

「さあ」

 少年は首をかしげた。

 ――やっぱりなにかの聞き間違えだったようだ。やれやれ、おれはやっぱり職業病らしい。

「人とぶつからないように気をつけなよ」

 ダラスは少年にそう言って身を翻す。

 彼は入ってきたトビラから出ようと思って、そのドアノブを掴んだ。


     ***


 そのすこしまえ――。

〈マテンロー〉には東側と西側にエレベーターホールがあり、それぞれ三基のエレベーターが設置されてある。

 エミルたちは西側のホールでエレベーターを二基呼んで、まずはそのうち一基を無人のまま一階へと向かわせた。エレベーターのランプは一度も止まることなく一階まで移動した。

「よし、大丈夫よ」

 ヘディが言った。


 こうすることで、途中階での待ち伏せを予防できるのだ。


 エミルたちは二基めに乗り込んで一階に降りた。無事に一階に降りることができた。廊下を慎重に、かつ、すばやく進む。ケースはエミルが抱えていた。その中身を知ってからというもの、もともと重量感のあったケースがより重く感じられた。もうすぐ出口だった。そのトビラがみえた。

 だが突然、反対側の廊下からテロリストが現れた。さっきの二人組だった。

 いきなり発砲してきた。

 ぱん。

「やめろ、バリー! ケースに当たったらどうする!」

 テロリストの一人が怒鳴った。小柄で痩せていて、顔に火傷の痕がある黒人だった。

「ああ、そうだな、フリッツ。すまんすまん」

 とは言ったものの、撃ったほうの男にわるびれる様子はなかった。そちらのほうは身長が6フィート3インチはありそうな大男で、目の上に切り傷があった。エミルには彼が海兵隊の隊員のように思えた。

「てめえら、動くんじゃねえぞ」

 銃口を向けたまま近づいてくる。

 言われなくともエミルたちは一歩も動けない。

「まずいな……」

 とラスティが呟いた。

 エミルも同感だった。まずいどころか、最悪だとしか思えない。

 ダイスケはバリーと呼ばれた男を睨みつけている。

 ――ひょっとしたらダイスケは、近づいてきたあいつに掴みかかるかもしれない。ダイスケは柔道の黒帯だ。それでも相手が悪すぎる。たとえダイスケでも、殺されてしまうかもしれない。

 エミルはそれを考えて、緊張した。――もしもダイスケがアクションを起こしたら、自分もいくしか選択肢がない。おそらく、ヘディやラスティもそうするだろう。最悪の場合、全員がこの場で殺されることになる。

 緊張でケースを持つ手が震えた。

 ――そのときガチャリと音がなって、出口のトビラが開いた。

 外から警官が入ってきた。

 恰幅のいい、中年の男だった。

 エミルは一瞬、その警官に助けを呼ぶことを考えたが、――すぐにそれを取り消した。

 テロリストはふたりとも銃を持っている。しかもこいつらはCIAのエージェントを殺している。街の警官一人で、どうにかなる相手だとは思えない。

 テロリストたちはトビラが音を立てた瞬間に、すばやく柱の影に隠れた。エミルたちも一歩だけ後退して、ひとつ隣の柱の影に隠れた。

 音のない時間が訪れた。

 警官は天井や床を眺めながら、無警戒でこちらに近づいてくる。

 柱の影でテロリストたちが息を潜め、銃を構えて待っている。

 彼らは近づいてきた警官を奇襲するつもりのようだ。

 このままでは警官は殺されてしまう。かといって、エミルにはどうすることもできなかった。

 そのとき。

 さっと、ラスティが柱の影から飛び出した。

 一同が息をのんだ。

「やあ」

 と警官が声をかけてくる。

 ラスティがそれに手を振って応える。

「なにをしてるんだい?」

「ケイドロさ」

「ケイドロ?」

「鬼ごっこだよ」

「ああ……」

 テロリストたちは銃を構えたままラスティの横顔を見つめている。

「ここでやっているのかい?」

「そうだよ」

「……さっき何かの音がしなかったかい?」

 と警官が言ったので、エミルはドキッとした。警官は発砲音を聞きつけてやってきたのだ。

「さあ」

 ラスティは自然なしぐさで首をかしげる。

 警官はそれに納得したようだった。

「人とぶつからないように気をつけなよ」

 と言って、彼は出口のトビラのほうへいく。

 エミルは思った。いまこの瞬間に、〈黒のケース〉をあの警官に託してみてはどうだろうか? 彼に向かって投げるのだ。

 しかし、それは良い方法とは言えない。

 警官は何の事情も知らないようだから、すんなりと受け取ってくれるはずがない。「これはなんだい?」と言って、立ち止まるに違いない。

 エミルたちもテロリストたちも、その警官が出て行くのを待っていた。……早くここから去ってくれ、と誰もが考えた。

 しかし警官はすんなりと出てはくれなかった。

 そのトビラは開かなかったのだ。


 まさにこのとき、

 この建物の出入り口すべてを、管理室にいるポールがロックしたのである。


 警官はドアノブをガチャガチャとやり始めた。なんどもなんどもガチャガチャとやってから――なんということだろう! 彼はこっちに向かって引き返してきてしまった。

 彼は不思議そうな顔をして言った。

「……どういうことだ? 中からは開くと聞いていたんだが――」

 突然、柱の影からテロリストの一人――フリッツと呼ばれた男――が飛び出し、警官めがけて発泡した。

 ぱんぱんぱん。

 乾いた音が廊下を反響する。

 警官は驚きと戸惑いの表情をしたまま床に崩れた。不幸なことに、彼はその理由も知らないままに絶命した。

「きゃあーっ」

 ヘディの叫び声とともにダイスケが床を蹴る。一瞬でバリーに迫り、彼の顔面めがけて下からすくい上げるようにアッパーを放つ。その拳はバリーの顎に直撃してバリーは大きく仰け反った。こうなっては仕方がない。エミルたちもバリーに特攻する。――が、そのときまたフリッツが発砲した。

 ぱん。

「動くなお前ら!」

 威嚇射撃だったために誰にも命中しなかったが、エミルたちは足を止めた。銃口がこちらを向いていた。ダイスケだけは動きを止めずに、バリーに追い打ちをかけようとまた腕を振りかぶった。

 ――ふいに、その拳を掴まれる。

 バリーは身体を仰け反らせたまま、ダイスケのパンチを受け止めたのだ。次の瞬間にダイスケがぎぃあああああと悲鳴をあげた。


「――小僧、日本のコミックは知ってるか?」


 バリーが不敵に笑った。

「その無謀に免じて、一つ、俺様の悲しみを教えてやろう。――俺様の握力は184だ! 『美堂蛮』に16も負けているのだぁああああああああ!!」

 ボキボキボキ……。

「ああ悲しいぜ! ちくしょう! 泣きたくなってくらあ! かめはめ波は無理でも、こっちはいけると思ったのによぉ! だけどどれだけ鍛えたところで――やっぱり、フィクションには届かないんだよぉぉおおおおおおおっ!!」

 その巨大な手のひらのなかで、鈍い音が鳴り響く。ボキボキボキボキボキボキボキボキ……。ダイスケの指の骨が砕ける音だった。ダイスケは絶叫し、攻撃というよりは、自分の拳を引き抜くためにバリーの腹を蹴った。

 ――ズドンッ!

 ダイスケの蹴りは強烈だ。

 まともに食らえば、大人でも失心する。

 しかし、それを正面から腹で受け止めたバリーは、何事もなかったようにニヤニヤと笑っていた。彼は――まさに規格外の怪物だった。彼はダイスケから手を離さずに「チッチッチ」と指を振って、次の瞬間、振りかぶることすらなくパンチを繰り出した。

 そのジャブを受けたダイスケの身体は折れ曲がりながら7フィート浮いた。バリーは握ったままのダイスケの拳を斜め下へ強引に引っ張り――ダイスケの身体が、弧を描いて床に叩きつけられた。

「ィ――――ッ」

 ダイスケは壊れたオカリナのような呼吸音をくちから漏らした。床のうえで動かなくなっていた。その眼球はどこを見るわけでもなく、宙をふらふらと彷徨っている。

「ケースを渡せ」

 フリッツがエミルを睨みつけて言った。

「…………」

 エミルはどうしていいのかわからなかった。


 このケースを渡さなければダイスケ以外のみんなもやられてしまう。


 でも、このケースを渡したからといって、みんなの無事が保証されるわけでもない。


 ぴくりとも動かないダイスケと、自分をまっすぐに睨みつけるテロリストの目を交互にみていると、エミルの頭は真っ白になった。

「……わかった」

 すぐそばにいるラスティが、エミルのかわりに答えた。「ケースは渡す」

 その返事を聞いているはずのバリーが、「よし」と言って、ダイスケのくちにリボルバーを突っ込んだ。カチリ……、とそのハンマーを起こす。

「渡すって、いってるだろぉっ!」

 ラスティが声を荒げた。

 それはエミルがこれまで聞いたこともない声だった。ラスティがうろたえているところを、いま、エミルは生まれて初めて見た。

「だから、お願いだ! 殺さないでくれ!」

「――てめえらテロリストを舐めてるだろぉおおおお!」

 バリーが怒鳴った。

「こいつは殺す! いま殺す! いますぐ殺す! ケースと交換するのはお前ら三人の命だ! それで十分だろうが!」

「やめてくれぇぇえええええええ!!」


 ぱん。……と乾いた音が鳴った。


 エミルはその音を聞いて――ふっと、意識が遠のきかけた。


 ダイスケが殺された。

 殺されたんだ。

 大事な、ぼくらの仲間が——。


 ——しかし、その銃声はバリーのリボルバーから発せられたものではなく、かといってフリッツの銃から発せられたものでもなかった。

 エミルたちの背後に二人の男がいた。

 金髪でロングヘアーの男が銃を天井に向けて発砲していた。――まるでミュージシャンみたいだ、とエミルはその男をみて思った。

 そのとなりに高価なスーツを着た男が立っている。彼はなぜかチェーンソーを肩からぶら下げていて、チェーンソーの先からは赤黒い血が滴っていた。

 チェーンソーの男が言った。

「バリー、銃をしまえ」

「ボス……」

 バリーは大人しくその男に従った。

「舐めてるのはお前の方だぜ、バリー」

 男は何の警戒もせずにゆっくりと、エミルの前まで歩いてくる。

 そしてその男は語った。

「……我々はたしかにテロリストだ。しかしただのテロリストではない。テロはいつだって敗北してきた。……だが俺たちは勝つんだ! 世界中のすべての正義に打ち勝ち、この世界を滅ぼす! 勝った者がこの世の正義だ! ……なんつー理屈がしばしば謳われるが、我々の目指すものは、それとも違うのだ。我々はすべての正義を倒す、ただそれだけだ。あとから『自分たちこそ正義』だなんて名乗るつもりは毛頭ない。……人を殺したやつが正義を名乗れるか? んなわけねーだろーが! アホか! 命は正義よりも重いんだよ! だから俺たちは悪にしかなれない! どれほど高潔な道義があろうと、人を殺した者は悪にしかなれない! しかし、俺たちはすげえ悪になるんだ! ——命は正義よりも重く、悪よりも軽い。俺たちが目指すのはブラックホールのような一流の悪だ。なにもかもを呑み込む重力だ。……いいかいバリー? 一流の悪というのは子供は殺さん。なぜなら、簡単につかみ取れる結果を誇らしげにするのは二流のやることだからだ。それでは駄目だ。そんなことでは勝ち目がない。我々が戦っている相手は何だ? ——世界だ。我々は必ずこの世界を征服する。だが――


 ——銃で子供を撃つような者に征服されるほど、この世界はぬるくない!」


「あぁ……」

 バリーは頷いた。「コリー、あんたの言うとおりだ。もしもいま俺がこいつを殺していたら、俺たちのテロはこの先、成功しなかっただろう」

「わかればよろしい。……さてと」

 コリーと呼ばれた男は、エミルを直視した。


「少年、そのケースを私にくれるかい?」


 脅すわけでもなく。

 かといって、優しい声でもなかった。

 そう。

 彼の言葉には。


 ――ただただ誠意が込められていた。


 エミルは思った。

 ――ひょっとしたら、この人の前職は銀行員なのかな? だって、まるで、契約書にサインを求めるような態度じゃないか。

 なんだか怖さのかけらもなかった。

 なのに。

 ……拒否する意志がへし折られそうだ。

 いつの間にか、ヘディが一人だけ離れた位置にいた。

 彼女はどさくさに紛れて、ちゃっかりと安全圏を確保している。……彼女の本領はいつだって、チームが混乱したときに発揮されるのだ。

 エミルとヘディの目が合った瞬間、ヘディのくちが動いた。


「(ケースをあたしに)」


 彼女は声を出さずにそう言っていた。


 その瞬間――少年のなかで、いまある世界がぐるりと一回転して、まえとよく似た、だけども別の世界がめまぐるしく再構築された。


 そしてエミルは決断した。


「……ゲームをしよう」少年はテロリストを見上げてそう言った。


 エミルは恐怖でどうしようもなく震える手を、ぎゅっと固く握りしめて、テロリストのボスの目を直視した。

「特殊部隊がここへ来て、お前たちを倒すまでの間、ぼくらはこのケースを守り続ける。逃げきってやる。……ぜったい、負けるもんか!」

 ヘディめがけて、ケースを全力で投げた。ヘディはそれを受け取り、すぐさま廊下のむこうへと消える。

 それを追いかけることもせずに、ただちらりと見て、コリーは言った。

「あの娘の名前は?」

「ヘディ」

「あそこで倒れているのは?」

「ダイスケ」

「そこの君は?」

「ラスティだ」

 とラスティは自分で応える。

 テロリストのボス――コリー・クロ・コップは、もう一度エミルに向き直る。


「それでは、きみの名前は?」

「エミルだ。エミル・イーストン」


「そうか、エミル。私はコリーだ。コリー・クロ・コップ。そしてこいつがポール、むこうの二人はフリッツとバリー。ちょうど4対4だな。……いいだろう。その勝負、受けて立つ。……我々は、必ず〈黒のケース〉を奪う」


 エミルは言った。

「勝つのはぼくらだ」


 コリーは言った。

「いいや、我々だ」


 ――こうして。

 泥棒役の小さなヒーローたちと、探偵役のテロリストたちとの、世界の命運を賭けた戦いが始まった。


     ***

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