一体なんの理由からか、のこのこ這い出てきたゴキブリを冷凍殺虫剤の噴射で殺してしまった正義と罪の考察に基づくいくつかの詩編

夏目礼人

誰も見向きもしないような、古くさびれた建物に私は住んでいた。

部屋も暗くして、住んでいることを悟られないように暮らしていた。

暗闇の中なら誰に見つかることもなく、少しの灯りさえあれば私は私で居続けられたから。

そうやって長い間、私は嫌な世界を我慢し続け、同時に世界に目を背け怯えながら、それでもささやかな安心を得ていた。

何年過ぎたのだろう。

ある時、音もなく扉が開いた。

暗闇の中へ差し込む光に気づいたのは、私に影ができたからだ。

伸びきった影。

突然、それが私に逆らって動くように見えた。

驚いて身を固くしたが、かまわず影は動きを早めた。

突き飛ばすようにして私から離れ、光に向かって逃げ出した。

まるでその時が来るのをずっと待ち続けていたかのように。

置いていかれた私は、なおも光を目指して走り続ける影の後ろ姿を見送るだけだった。

そしてそれが遠く小さくなる頃、形が変わるのを見た。

勢いをつけて跳躍した影は、私の形から突然翼を広げ、そのまま羽ばたいたのだ。

そしてついに、黒い点となって空へと消えていった。

しばらくぼんやりして、やっと私は気づいた。

影は逃げ出したのではなかったのだ。

そうではなく、飛び立つためにただ助走していたのだ。

誰からどう思われようと、ただ空へ向かうために。

本来のあるべき私の姿になるために。


人は言う、人生の変化を恐れるなと。

きっと影も私にそう教えてくれたのだ。


影を失った私は、それは恐ろしいことだったが、もはや何も持つものもなかったので、のろのろと扉の外へと向かうことにした。

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