七月 その六
東京駅に到着すると、二人はまず人の多さに驚いた。日本一人口が多いことに加えて、オリンピック期間中となると観戦客や観光客も例年とは比べ物にならないほど多い。人の波に流されないよう注意して表示を確認しながら、京葉線に乗り換え、潮見駅に向かった。
駅に着いて外に出ると、目立つところに看板があった。
「ホテル潮の風…こっちだ」
少し歩くと、そのホテルはあった。瑠瀬はよくあるビジネスホテルを想像していたが、全く異なる高級ホテルだった。入ることを躊躇していると、濃子が腕を引っ張った。
ロビーで麻林からもらった紙を見せると、すぐに部屋に案内してくれた。広い部屋にベッドが二つ。窓の外からは、明日行く競泳の会場である、オリンピック・アクアティクスセンターが見える。
時計を確認すると、午後五時半。瑠瀬と濃子は荷物を置くと、ベッドに腰かけて休んだ。
「ふぅー」
何とか栃木から二人だけでやって来れた。すぐにも寝てしまいたいぐらい疲れている。
「晩ご飯、どうしよう?」
濃子に聞かれて瑠瀬はお腹をさすった。いくら疲れてても、何か食べなければいけない。ホテル内のレストランという選択肢があるが…。中学生の財布には優しくない値段だ。
「コンビニで済ませようか?」
濃子がそう提案すると瑠瀬が、
「少しぐらい値が張ってもいいよ。美味しい物を食べに行こう」
と言った。早速スマートフォンで周辺の飲食店を検索する。
ピンポーンと、部屋のインターフォンが鳴った。濃子がドアを開けるとホテルの従業員がそこにいた。
「どうか、しました?」
「お食事の準備ができましたよ」
従業員に連れられて、二人は部屋を出る。ホテルの最上階にあるレストランの一席に案内された。
「こんなお金、ありませんよ!」
「部屋をご予約された時に、一緒にディナーもお取りしたではございませんか?」
驚く瑠瀬に従業員が言う。麻林が夕食も予約してくれたのだ。二人は席に着いた。
「そっか! 今日は濃子の誕生日だから…」
「あ!」
瑠瀬も濃子も、他のことで頭が一杯だったために、忘れていた。今日で濃子は、十五歳になる。そのお祝いをセッティングしてくれたのだ。
「麻林ちゃん…」
濃子は心の中で麻林に感謝すると同時に、申し訳なさも感じていた。麻林がいなければ、二人は濃子の誕生日など祝わなかっただろうし、未来からの訪問者がいなければ、ここに座るのは自分ではなく麻林であっただろう。とても複雑な思いだ。
料理は次々と運ばれる。その一つ一つを、二人はゆっくりと味わって食べた。
お腹をいっぱいにして部屋に戻って来た。このホテルには大浴場があるらしく、二人はそこで体を洗うことにした。
男湯で一人、湯船に浸かりながら瑠瀬は考えていた。
自分がどのように動けば、濃子の命を救えるのか。後遺症を負ってしまうのは避けられないにしても、自分が守らなければ後遺症どころか濃子は帰らぬ人となる。常に側にいるというのも手段ではあるが、テロが起きたら逃げ惑う人たちが押し寄せるだろう。それで離れ離れになることもあり得る。また一瞬だけ濃子が席を外している間に、テロが起きたら…。
濃子が明日死ぬという、最悪の事態だけは避けたい。それこそ、自分の命に代えてでも。
「化学…」
確か源治は、化学テロが起きると言っていた。サリンのような化学物質が使われるのだろうか? だとすれば観客席では、自分の物以外には触らないよう注意すればいい。それでも駄目だったら…。
「…」
その先は、予想しておかなければいけないのに、瑠瀬には考えることができなかった。いや、何も思いつけなかったから、考えたくなかったのだ。
自分の思いだけではどうすることもできない未来。瑠瀬は極端な話、濃子が死ななければそれでいいと考えた。
「それなら、短くても一緒にいられる…」
明日も、その後の十年もあっという間だろう。濃子と共に作る思い出を、もっと沢山考えなければいけない。
女湯では、濃子がサウナで座っていた。バクンバクンと音を立てる心臓の鼓動が早くなるのは、熱さが原因ではない。
「明日…」
どう転んでも、明日で全てが決まる。自分が死ぬか生き残るか。それによって選ばれる未来。明日のこの時間には、自分が息をしているかどうかもわからない。
一番頭を悩ませるのは、自分の生死と瑠瀬の運命は真逆になってしまうこと。生き残れば瑠瀬は不幸になり、死ねば幸せになる。
濃子は何度も何度も、心の中で天秤にかけ続けた。一方の皿には自分の命。もう一方には瑠瀬の幸せ。だが何回皿に置き直しても、結果は同じだった。
「ごめんね、瑠瀬…」
目から涙を流した。瑠瀬と一緒にいたいという気持ちよりも、幸せになってもらいたいという願いの方が勝る。
だとすると、自分の命は明日で終わり…。
平祁は、濃子は爆発に巻き込まれて死亡すると言っていた。それなら下手に苦しまないのだろうか。
濃子は首を横に振った。せめて今日ぐらい、明るくしていよう。そうでないと瑠瀬に失礼だ。それに今の自分の心境を知られても困る。
二人はほぼ同時に部屋に戻って来た。
「そっちは、どうだった?」
「気持ちよかったよ」
まずは浴場の話題から始め、寝る直前までおしゃべりをした。明日優勝する選手の予想であったり、小さい頃の思い出であったり…。
話をしている間、二人とも心が温かかった。その温かさは瑠瀬に、濃子の隣にいつまでもいたいと感じさせ、濃子に、瑠瀬にはもっと幸せな人生を送ってもらいたいと思わせた。
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