三十五年後 その一

 麻林のことを板倉東洋大前駅まで送ると、濃子は家に足を向けた。今日は母が出張で、帰って来ない。つまり、この夜は一人で過ごさないといけない。

 玄関の鍵を開け、中に入る。

「ただいま」

 中から「お帰り」の返事はない。だが防犯上、挨拶をしている。しょっちゅう母が家を空けるので、もう習慣になっている。ドアを閉めると、すぐに鍵をかけた。

 カバンを自室に片付け、キッチンに降りる。今日の夕食は何を作ろうか。冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板を置いて包丁を取ろうと引き出しを開けた瞬間、後ろで音がした。

 濃子が振り返ると、そこに平祁がいた。源治の目を盗み、濃子よりも先に家に忍び込んでいたのだ。

「…これなら誰にも邪魔されない。濃子、今ここで死んでもらう」

 短剣を濃子に向けて、平祁は言った。

「…?」

 平祁はすぐには、動き出せなかった。濃子が少しも驚いていないからだ。

「オマエ…。怖くないのか?」

 そんな台詞が飛んで来るほど、濃子は取り乱してないし逃げもしない。それが逆に恐ろしくて、平祁の方が後ろに下がった。

「それで私を、さ、刺せば、どうなるの?」

 濃子が聞く。その声から、ほんのわずかだが動揺が感じられる。本当は少し怖いのだ。

 しかし平祁も、もう後に引けない。短剣の柄を強く握りしめ、構える。

「オレが生まれるには、もう手段を選べない。許せ濃子おおぉ!」

 雄叫びと共に飛びかかる平祁。そして短剣を握る右腕を振り下し濃子の命を奪う。

 そのはずだった。

 パキッと音がした。

「な、何……?」

 短剣の刃が、根元から折れた。そしてその刃は、床に落ちると砕け散る。

 ほんの一瞬の出来事なのに、随分と長く感じた。

 濃子は自分の体に手を当てて確認する。何処も怪我をしていない。心拍数は上がってはいるが、放っておいても下がるだろう。

 対する平祁は…。無言で跪き、頭を垂れている。

「だ、大丈夫?」

 自分を殺そうとした相手にかけるべき言葉ではない。だが濃子は平祁に聞きたいことが山ほどある。しゃがんで平祁に語り掛けた。

「教えて欲しいことがあるの。それは平祁しか知らないことだから、あなたに言ってもらうしかない」

「そんな………馬鹿な…………」

 よく耳を傾けると、そんなことをうわ言のように繰り返している。そして平祁の顔はまだ、固まっている。ならば落ち着くまで待とう。


 十数分ほどかかった。平祁を食卓のテーブルに着かせ、濃子はコップに緑茶を注いだ。

「オレはオマエを殺めようとしたんだぞ? 今もそれを狙っているかもしれない。こんなこと、してる場合か? 今すぐ瑠瀬や源治を呼んだらどうだ?」

 濃子は首を横に振った。

「聞かせてよ。平祁の未来を。平祁も源治と同じく、未来からやって来たんでしょう?」

 未来という言葉に平祁は反応した。

「二〇五五年には、私はどうなっているの?」

 平祁はお茶を一口飲むと、

「そこまで知っているなら話は早い。ならオレの未来をオマエに、包み隠さず教えてやろう」

 平祁は語り始めた。

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