三十五年後 その二
「若様、おめでとうございます!」
執事やメイドたちから拍手を送られる。母も嬉しそうな顔をしている。しかし平祁は、ちっとも満足していない。一番祝って欲しい人が、そこにいないからだ。
「セリシンの活用性…。この研究成果があれば我が会社ももっと成長できます!」
「そんなことより執事長。お父様は?」
「先ほどモスクワにご到着との連絡が。それからベネチアに向かう予定でございます」
戻って来てはくれないようだ。父は多忙だから仕方ない。
「若様。夕食の準備が整いました」
母と共に食堂に向かう。椅子の数は多いが、座るのは二人だけ。
「執事長。料理はもう残っていないのか?」
「ありますが?」
「今いるこの屋敷の従業員を全員ここに集めろ。食事は多い方がいい」
「了解いたしました」
執事長が屋敷の人を集めた。ちょうど椅子が全部埋まった。みんなで食事を食べる。
平祁は自分の分を食べ終わると、空いた皿をキッチンに運んで洗った。急いで料理長が平祁の元に来る。
「若様、それは…」
「料理長はまだ、食べ終えていないだろう? 自分の食事に集中しろ」
そう言い返した。
洗い終えると一人、庭に足を運んだ。今日は終日晴れなので星空を拝める。噴水を出すブロンズ像の側まで歩き、近くで立ち止った。
「お父様…」
食堂の時計は、七時だった。モスクワとの時差は六時間だから、父は昼食を食べているのだろうか。
「ん?」
ぽたぽたと雨が降ってきた。上を見上げるといつの間にやら、雲が出てきている。天気予報が外れたのか? 今まで生きていて、予報は嘘を吐くことがなかったのだが…。
仕方なく屋敷に引き返した。
自分の部屋で時間を潰すことにした。何か、本を読もう。本棚に目をやった。そこには大量の専門書や図鑑、趣味の本までずらりと並んでいる。
「…勝ち組、か」
かつて大学の同期だった人が、平祁に向かってそう言ったことがある。
確かに、自分がお金持ちの家庭に生まれ、欲しい物は何でも与えられ、小学校から名門校で、大学も優で卒業したのは事実ではある。まだ四半世紀しか生きていないが、何一つ不自由のない人生だ。
しかし平祁は、そう言われるたびに否定してきた。
自分はただ単に、運が良かっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
この家に生まれていなければ、こんな所にはいない。学生時代の研究の延長をずっと続けていられるのは、自分が優秀だからではない。両親が援助してくれたからだ。
そんな平祁にも、不満はあった。
「日本を拠点に活動中って、去年はほとんど日本にいなかったじゃないか」
父に不満があった。文句を言いたいわけではない。父は自分よりもずっと人格者だ。それこそ非の打ちどころがないぐらいに。世界中を駆け巡る、平和活動家。昨年名誉ある国際的な平和賞を受賞し、今や世界中でその名を知らない人はいない。
でも活動に精力を入れ過ぎだ。小さなころは遊んでくれたが、最近は顔を合わせることすら稀である。自分が素晴らしい成果を出した時ぐらい、戻って来て欲しかった。
母はそんな父のことを誇らしげに思っている。もちろん平祁も尊敬している。
だからこそ、認めてもらいたい。いつか、越えたい。その背中をずっと追い続けているが、距離はこれっぽっちも縮まらない。
平祁は父の自叙伝を適当に開いた。
「私の人生の転機は、あの東京オリンピックテロ事件で訪れた…」
真っ先に目が行った文章を読んだ。
その時だ。上から紙が一枚、ひらひらと平祁の前に落ちてきた。
「これは…?」
随分と古い写真だ。写っているのは少年と少女。
全く身に覚えがない写真がどうして自分の部屋にあるのだろうか。
だがその疑問はすぐに吹き飛んだ。
「こっちの男の子は、若かりし時のお父様…? ならばこちらはお母様か、いや違う…」
少年の方は父で間違いない。しかし少女の方は心当たりがない。顔の雰囲気が違うというか、母ではないことは明らかだ。
次に背景を見た。暗いのでどうやら夜であるらしい。そして後ろは草むらで、奥に湖のようなものが確認できる。近くで言うなら渡良瀬遊水地か。
「そんなところでお父様は、誰と写真を撮っていたんだ?」
わからないことが多い。父に聞けば一番手っ取り早いのだろうが、今はベネチアに向かう飛行機の中。連絡は取れない。
平祁は写真を持って部屋を出た。母に聞いてみよう。母は父と、中学が同じだった。写真の父は、それぐらいの年齢。何か、知っているかもしれない。
部屋の戸をノックした。
「入ります、お母様」
返事を待たずに中に入った。母は自室で糸繰りをしていた。
「どうしたの?」
「これに心当たりはありませんか?」
母に写真を見せる。すると母は、
「かなり若い頃のお父さんね。こんな写真、よく見つけたわね」
少年は父で間違いなかった。
「そちらの少女は、お母様ではないのですか?」
母は少し黙った。平祁は聞いてはいけないことを訪ねてしまったのかと感じ、
「質問を撤回します…」
と言ったが、母は答えてくれた。
「これは、濃子様よ」
「ノウコ?」
平祁は首を傾げた。
「あなた、お父さんの自叙伝を読んだでしょう? 名前は伏せられているけれど、五輪テロで亡くなられたのが濃子様なの」
母の話は、重かった。友人の死を体験したことがない平祁はただただ、
「やはり私の質問は、間違っていました…」
と答えた。
「そんなにかしこまらなくていいの。その事実はもう覆らないんだし」
母が無理矢理フォローしてくれた。
「当時、一番困ったのは母さんだよ。テロは、お父さんに振られた直後だったから。何を言えばいいのかわからなかったけど、とにかくお父さんを元気づけたわ。そしてお父さんはすぐに立ち上がって、テロ撲滅運動を開始して…。若いのに色々と頑張っていてね、母さん、惚れ直しちゃったの」
母の話から、濃子という人物は、父の大事な人であることはわかった。
「お母様が負けるほど、魅力的な人物でもあったのでしょうか?」
「負けたっていうよりは、勝手に失恋したっていう方が正しいわ。誰かを不幸にして、自分が幸せになっても意味がないでしょう? 二人のためを思って手を引いたの。だけれどあんなことが起きてしまうなんて…」
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