六月中旬 その二
二人は谷中湖の中の島まで歩いた。これなら周りに、人はいない。
「麻林ちゃん。しつこいかもだけど、正直に話してよ。麻林ちゃんは、どうしたいの?」
「ですからそれは瑠瀬様が…」
悲しむだけだから選ばない、と繋がるのだろうか?
「一度だけ、瑠瀬のことは無視して考えて! もし瑠瀬が私のことを好きじゃなければ、私が瑠瀬のことを嫌いだったら、もし瑠瀬が誰とだって喜んで一緒にいられる人だったら…。麻林ちゃんはそれでも、私に一緒に行って欲しいの?」
「そ、それは…」
流石に想定外だったのか、麻林の返事はすぐに来なかった。きっとこの先に麻林の本当の姿がある。濃子はそれを語って欲しいのだ。
「もし私がいなかったとしても、瑠瀬と一緒に行かないワケ?」
麻林は目を瞑り、少し黙った。
次に目を開けた時、それは涙目だった。
「わ、わたくしだって、一緒に行きたいですわ! できるのならずっと、瑠瀬様と共に…。それなのに、瑠瀬様も濃子様もわたくしに何度も諦めろって言っているように感じて…。わたくしが何か、しましたって言いますの? わたくしに夢を抱かせてはくれませんの?」
今、涙と共にこぼれたのが麻林の本音だった。ここで初めて濃子は、罪悪感に襲われた。
麻林は麻林で、必死だったのだ。
濃子は泣き出した麻林の頭を撫でた。そこまでするつもりはなかった。もし麻林がどうしても瑠瀬と一緒に行きたかったと言うのなら、譲るつもりだった。そうした場合、未来がどうなるのかはわからない。けれど源治が教えてくれた未来よりは、瑠瀬は幸せなのではないだろうか?
ならばチャンスは今しかない。だが麻林は泣きながらも、言った。
「濃子様、わたくしの分まで、楽しんできて下さいね…」
それを言わせてしまったが最後、濃子は引くことができなくなってしまった。
麻林が落ち着くと、濃子は周りを歩こうと言った。
「私、ここを気に入ってるの。明治時代の良くない印象こそあるけど、自然が豊かで毎年いろんなイベントがある。よかったら麻林ちゃんも来てみたら?」
「そうしますわ。今度案内して下さいね」
木々や草が風に揺らして音を立てる。夜とはまた違う雰囲気が、この遊水地にはある。
「濃子様」
麻林の方が切り出した。ポケットから白い輪っかのようなものを取り出して、
「これ…。瑠瀬様たちがわたくしの両親の製糸場にいらした時にわたくしが糸繰りした絹を、少し手を加えてミサンガにしたものですわ。濃子様に差し上げます」
と言って濃子の前に差し出した。
「え…。う、受け取れないよそれは。麻林ちゃんが願いを叶えるために組んだんでしょう?」
そうに決まっている。ミサンガとはそういうものだ。しかし麻林は、いえいえと首を横に振る。
「確かにこれを組み終わった時は、諦めきれなくてって思いましたわ。ですがわたくしの願いは、瑠瀬様に振り向いてもらうことではなくて、幸せになってもらうことって後から気がついて…。それで腕に結ぶことができませんでしたの。瑠瀬様が一番幸せになってもらうには、濃子様と一緒にいてもらう以外には、方法はありませんわ」
そして続けてこう言った。
「わたくしは、誰かを不幸にしてまで自分が幸せになりたいとは思いませんわ」
それは今まさに麻林の口から初めて聞いたはずの言葉なのに、何故か濃子の中にはその言葉がどこかにあった。
「好きな人の幸せを願えなかった時点で、わたくしは濃子様に負けていましたわ。もうこれから先、濃子様や瑠瀬様に何て言われようとわたくしは二人の仲を邪魔しません」
「麻林ちゃん…」
今度は濃子が泣き出しそうになった。麻林はそんな濃子を慰めんと言わんばかりに頭を撫で、濃子の右腕にシルクのミサンガを結びつけた。
「濃子様の願い、わたくしに代わって叶えてもらいますわ!」
麻林は、亜呼や純心が思っているほどの悪人ではなかった。寧ろ、瑠瀬のことを任せたい程の善人だった。恋敵を前にあんなことが言える麻林を、濃子は羨ましく思った。
「それともう一つ、よろしいでしょうか?」
「な、なあに?」
濃子が聞き返すと、
「濃子様たちが行く東京オリンピックの詳しい日程を後で教えて下さらない?」
「いいけど…。多分もう、チケット取れないよ?」
「でもホテルは取れますわ」
予想だにしない返事に濃子が困惑していると、
「オリンピック当日、栃木から会場に行くのはきっと大変ですわ。ですからお二人のために、わたくしに宿を用意させていただけないでしょうか?」
オリンピックについて、そこまで考えていなかった濃子。流石に奢ってもらうには高額過ぎる。もちろん断ったが、
「わたくしの最後の我儘、聞いて下さらない?」
麻林はこれについては引き下がろうとしない。
「流石にここで、ありがとうって言えないよ…。瑠瀬に聞いてみないとオーケーできないけど…。どうしてそんなことまでしてくれるの?」
単純に疑問に思ったことを、ぶつけてみた。麻林の返事は簡単だった。
「瑠瀬様と濃子様のためですわ。瑠瀬様を笑顔にできるのは、地球上で濃子様ただ一人。お二人の幸せを!」
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