六月上旬 その四

 気づけばもう昼を過ぎている。瑠瀬はすぐ帰ろうとしたが、麻林が止めた。そしてここでお昼を食べさせてもらうことになった。映画の中のような食堂で、麻林と向かい合って昼食を食べる。食器と皿がぶつかって音を立てるたびに、マナー違反でつまみ出されるのではないかと瑠瀬は身震いした。

「気にすることはありませんわ。誰しもが通る道ですもの」

 そう言う麻林の作法は完璧である。

 食べ終わると、再び麻林の部屋に案内された。いや、瑠瀬が頼んでそうしてもらった。

「本当に、ごめん…」

 瑠瀬はもう一度、頭を下げた。麻林の気が済むまで、何度でも下げるつもりだ。場合によっては土下座だって構わない。

 何故なら、自分は麻林の恋心をへし折ったから。さっきは麻林も瑠瀬の主張を受け入れたが、本当は納得していないかもしれない。するはずがない。

 麻林の返事は、

「もう。わたくしに頭を下げるの、やめて下さる? 瑠瀬様のその姿、見たくありませんわ」

「何か不満があるなら、包み隠さず言ってよ。そうしてくれないと俺が、収まらない…。こんな雰囲気で麻林さんと仲が悪くなるのも、嫌だ」

 また瑠瀬は我儘なことを言った。すると麻林は、

「ならば東京オリンピック、わたくしと一緒に観戦に行きます?」

 これを聞いた瑠瀬は、一瞬表情が凍りついた。しかし今のは冗談のようで、

「嘘ですわ。わたくしにだって物事の分別ぐらい、ありますわよ。欲を言わせていただくなら、やっぱり瑠瀬様といたい。ですがそれでは瑠瀬様は心から喜んではくれません。濃子様に取られてしまうのは本当に悔しいことですが、わたくしが奪い返すことが今、正しいとは思えませんわ」

 そう言いながら、机の上の箱を取った。その箱の中には、蚕の幼虫が二十頭ほどいる。

「蚕の飼育は、わたくしの趣味の内の一つですの。最初に卵をここに用意した時、もう五頭はいましたわ」

「その蚕は、どうしたの?」

「亡くなりましたわ、卒倒病で」

 聞いたことがない病名。

「虫にも病気があるの?」

「比較的飼育し易い蚕で主に研究がなされておりますわ」

 次に麻林は、小さな冷蔵庫から大量の葉っぱを取り出した。

「瑠瀬様たちにお見せできませんでしたけれど、これが桑の葉ですの。これを蚕に与えます。今は人工飼料もございますが、わたくしは本物の桑の葉が一番と思いますわよ」

 箱の中の桑の葉は、もうほとんどが食べつくされている。それでも蚕たちは、箱から逃げようとしない。

「あの時も思ったんだけど、蓋をしなくて大丈夫なの?」

麻林は新しい桑の葉を箱に入れながら答える。

「逃げられませんわ」

「じゃあどうやって餌を探すの?」

「そんな事はしません。ただ餌を与えられるのを待つのみです。それが、人がいなければ蚕が生きていけない所以ですわ」

 葉を与え終ると、箱を机の上に戻した。

「瑠瀬様。瑠瀬様のわたくしに謝りたいという気持ちは、十分伝わってきました。ですからこれ以上わたくしに謝る必要は、ございませんわ。そんな苦しみに縛られて生きて欲しくありませんわ。蚕は翅があっても飛べず、箱から出て行けません。ですが瑠瀬様は、羽がなくったって未来に羽ばたけるでしょう?」

「…!」

 そうだ。瑠瀬は、選ぶべき未来に向かわなければいけない。濃子のことをテロから守り、濃子の後遺症と戦っていかなければいけないのだ。

「わかったよ。麻林さん、今日いきなり訪問して迷惑かけて、そこはまた別に悪かった…」

「とんでもありませんわ。わたくしも胸のわだかまりが消えて、スッキリしましたのよ。明日はもう登校できそうですわ。学校では、今まで通り接して下さいね。わたくしはそれだけで十分ですわ」

 瑠瀬は今日、麻林と話せて良かったと感じた。最初に考えていた心配は、一つも実現しなかった。それが一番嬉しい。瑠瀬は帰りの準備をすると、麻林が門まで見送りに来てくれた。

「じゃあ、また明日」

 門のところで瑠瀬が麻林に手を振る。

「ええ。お気をつけて、お帰りになって」

 麻林も笑顔で返す。

 屋敷に戻って来た麻林に、メイドが声をかけた。

「お嬢様。本当にこれでよろしいのですか?」

 話を一部聞いてしまったメイド。この家に仕えている彼女からすれば、麻林に一番幸せになって欲しいと願っている。

「いいのですわ」

 麻林がそう言った。

「誰かを不幸にして得られた幸せになんか、意味も価値も名誉もありませんわ。好きな人が幸せになってくれれば、わたくしはそれでいいのですわ」

 メイドにそう伝えると、麻林は夕食の時間まで自室に籠った。

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