六月上旬 その三

「お嬢様は三階の角部屋にいらっしゃいます。その前にお手を洗いましょう。こちらです」

 メイドに先導されて瑠瀬はまず洗面所で手を念入りに洗った。次に階段を登る。手すりも煌びやかで、手は石鹸で綺麗にしたばかりなのに掴まることができなかった。

 部屋の前に来るとメイドが瑠瀬に代わり、ノックをしてくれた。

「お嬢様、お客様です」

 中から「どうぞ、お通しになって」と麻林の声がした。元気そうな声なので、もう熱は下がったのだろう。

 ドアを開けてもらって、中に入る。麻林の自室は、瑠瀬のそれよりもはるかに広い。麻林は寝間着姿でベッドに腰かけていた。

「ええ、瑠瀬様? どうしてここへ?」

 当たり前だが、麻林は驚いている。

「麻林さんに話すべきことがあって、学校を抜け出してやって来たんだ」

 それを聞いた麻林の目は、希望の光で満ちていた。気の毒なことに、その光源を今から瑠瀬は、断たねばならない。

 メイドが紅茶を用意してくれた。瑠瀬も麻林もそれを飲んだ。

「熱の方はもう平気なの?」

「ええ。朝は心配でしたが、少し眠ったらすっかり下がりましたわ」

 体の調子は、大丈夫なようだ。少し安心した。

 まず先に、気まずくならないようにするためにあまり関係ないことを言おう。

「今日、社会の授業でレポート課題が出たよ。来週までに昭和の東京オリンピックについて、二枚以上調べて白石先生に提出だ。参考文献やサイトも明確に記せって」

「そのようなことをわざわざ、わたくしに伝えに来ましたの?」

 麻林はやはり、瑠瀬があることを言うのを待っている。

「東京オリンピック、一緒に観戦しに行こう!」

 残念だが、この台詞だけは言うことができない。源治が誕生するためにも、いや濃子と残されたわずかな時間を一緒に過ごすためにも…。

 瑠瀬は先に頭を下げた。

「ごめんなさい、麻林さん。オリンピックの観戦に、麻林さんとは行けない…」

「い、今、なんて…?」

 頭を戻すと、麻林は当然、驚いた表情だ。瑠瀬は申し訳なさでいっぱいで何を言えばいいかわからず、麻林も衝撃で言葉を失っていた。

 少し時間が経った。瑠瀬は、事情を正直に白状しなければ麻林が納得しないと考え、麻林が悲しむのを覚悟して切り出した。

「俺は、麻林さんが嫌いってわけじゃないよ。でも、濃子と一緒に行きたいんだ」

 それを受けて麻林も喋る。

「瑠瀬様は、濃子様の方が、お好きですの?」

 頷けば、麻林は泣くかもしれない。しかしここでお茶を濁すわけにもいかない。瑠瀬は無言で首を、ゆっくり縦に振る。

「麻林さんには、あまりよくわからないかもしれない。けど俺は、幼い頃からいつも濃子といたんだ。最近は話す機会が減っちゃったけど、だからこそ昔みたいに一緒に過ごしたいんだ」

 瑠瀬の発言は、かなり独りよがりだ。ただ自分が濃子と仲良くしたいだけ。だから濃子と観戦に行く。でも、好きな人と出かけたり、仲良くしたりする権利は、麻林にだってある。だから瑠瀬は、麻林からの反論を恐れた。何を言われるのか、何と返せばいいのか、自分が気負けしないか…。ほんの一瞬の間に、多くの不安要素が頭をよぎる。

「そう…ですのね……」

 麻林の声からは、さっきまでの元気が感じられなかった。その目には少し、涙を浮かべている。今、泣き出しても何ら不思議ではない。

 瑠瀬が再度頭を下げようとすると、麻林が言った。

「でも、仕方ありませんわ」

「え?」

 今度は瑠瀬が聞き返した。次に麻林が何か話すとしたら、必ず文句が出てくると思っていたからだ。

 でも麻林は、引き気味の態度。また不安が瑠瀬の中で生じる。麻林はここから言葉巧みに瑠瀬を誘導し、自分に都合のいいように話を持って行くかもしれない。

 そんな瑠瀬の懸念とは裏腹に、麻林の言葉は優しかった。

「だって、瑠瀬様にとってはそれが一番、幸せなのでしょう? ならばわたくしにそれを邪魔する権利はございませんわ」

 さっきまでとは、立場が逆転していた。今は瑠瀬が言葉を失っている。

「正直、観戦にご一緒できると勝手に思い込んでいましたので、誘ってもらえないのは悔しいことですわ」

「そ、それなら何か、文句はないの?」

 やっと口を開くことができた。

「一切、ございませんわ。お好きな方の幸せを願えない人に、幸せになる権利はあると思いまして?」

 麻林は、瑠瀬の意志を否定せず、寧ろ辛いはずなのに素直に受け入れた。

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