六月上旬 その二

 先生はその後も色々と熱弁してるが、瑠瀬は他のことを考えていた。

 観戦チケットのことだ。教えたのは自分じゃなくても、麻林を悲しませるのは自分だ。誘われないことを麻林に言わなければいけない。向こうから、聞いてくるかもしれない。その時麻林は、泣くのだろうか。それを周りのみんなが見たら、自分は批判されるのだろうか。一緒に行く濃子にも、それが飛び火する可能性もある。

 それが気が気でなく、先生の熱意が全くと言っていいほど頭に入って来ない。最悪みんなから酷いだの最低だのと言われても仕方がないとして、麻林が泣くのを想像したくない。

 瑠瀬は時計を見た。授業はあと、数分で終わる。筆箱や教科書の類をカバンにしまう。それでもあと五分残っている。その五分の間、心臓の鼓動は上がりっぱなしだ。今の落ち着いた表情は、完全に取り繕われた偽物だ。

「ちょっと余ったが、いいか。今日の授業はここまで。来週までにちゃんとレポート書いて出すんだぞ。特に和哉、お前が一番怪しい…」

「嫌だな~先生、ちゃんと出しますって…。アハハ…」

 和哉が笑って茶化した。

「日直。挨拶」

 日直が号令をかけた。

 先生が教室から出たのを見届けると、瑠瀬は朋樹と徹に叫ぶ。

「ちょっと体調悪いから、今日はもう早退するな、俺!」

 そしてカバンを持って教室から出て行き、先生と遭遇しないように反対側の廊下と階段を走って、昇降口に向かった。

「…体調不良の割には、随分と元気だったな」

「白石先生に見つかれば一発で仮病ってバレるぐらいに…」


 学校を飛び出した瑠瀬は一度電車に乗って、家に戻った。喫茶店の前を通ると親に見つかってしまうので、裏口から家に入った。いらないものは置いて、いるものだけを準備してすぐに家を出た。

「待てよ」

 製糸場まで行くことなんて、できるはずがない。だがあそこには住んでいないと言っていた。

「栗橋…だったはず」

 家で回収したスマートフォンを手に取り、地図を確認する。大丈夫、電車で行ける。瑠瀬はまた板倉東洋大前駅に行くと、反対方面の電車に乗った。

 麻林が住んでいる町はわかったが、場所をどうするか…。それを揺れる電車の中で考える。またスマートフォンを取り出す。

 直接、連絡を入れれば本人が教えてくれるだろう。しかしそれをすると、麻林に更なる誤解を与えかねない。

「駅員さんが特定の一個人の家を知ってるはず、ないよな…」

 駅で降り、改札を通過する時にそう感じた。知っていたとしても第三者に教えるわけがない。

 だが行き当たりばったりだった瑠瀬の目に、とある看板が飛び込んできた。

「藤枝紡績会社本店…」

 これは間違いなく、麻林の親の会社だ。ならそこで事情を説明すれば、家まで案内してくれるかもしれない。

 駅から五百メートル西方向。瑠瀬は走った。

 会社は見ればすぐにわかった。豪華な建物だからだ。だが逆にその豪華さが、瑠瀬にエントランスをくぐることを躊躇わせた。娘さんの友人だから入れて欲しい? 馬鹿げてるにも程がある。大体、今の時間帯に生徒は学校にいなければいけない。会社側も、不審者の入場は拒否するだろう。

 会社の前でウロウロしていると、中から係員が出て来た。

「キミ、どうかしたの?」

 話しかけられた瑠瀬に、心臓が止まるような感覚が走った。間違いなく補導される。

「アレ? キミは見たことがあるわね。どこでだろう?」

「え?」

 瑠瀬が顔を上げて係員を見ると、思い出せた。製糸場に見学に行く時、バスに乗っていたガイドさんだ。

「ああ、わかった! お嬢様のお友達ね。あの時のバスでお嬢様の隣に乗っていた…」

「そ、そうです! 僕です!」

 声をかけてきたのがこの人で、本当に良かったと瑠瀬は思った。

「今日はどうしたの? 平日なのに。学校は?」

「麻林さんに用事があるので…」

「お嬢様なら今日、家で休んでいるけど? お見舞い?」

 もう、そういうことにした方が早そうだ。

「はい。ですが、肝心の住所を聞いてなくて、仕方なくここに」

「じゃあ、案内してあげるね」

 ここの近くに住んでいるらしい。上司に報告でもするのか、係員が一度会社に戻った。

「ふ、ふう…」

 瑠瀬はため息をついた。ちょっと急ぎ過ぎだ。もっと落ち着かなければ。

 係員が戻って来たので、家の方へ案内してもらった。

「うっわ…」

 そんな声しか出なくなるほど、大きな洋風の屋敷。係員はインターフォンを通じて何やら内部とやり取りしている。

 門が自動的に開いた。

「さあ、どうぞ。私は本店に戻るので」

 瑠瀬は戸惑った。そんな事を言われても、本当に自分が入っていいのだろうか? つまみ出されやしないか?

 係員は本当に帰ってしまったので、瑠瀬は門をくぐって進んだ。中庭にはブロンズ像が噴水を出している。周りの木々は全部桑だ。よく見ると茶色い虫が飛んでいる。

「あれが、クワコかな? それとも他の蛾だろうか?」

 飛んでいるから蚕ではないことだけはわかる。

 ドアの前まで着いた。ここを引いて開けばこの屋敷に入れるが、その一手がなかなか出せない。

緊張して震える腕を押さえて、何とかドアノブに手をかけたその瞬間、ドアの方から開いた。

「あ!」

「大丈夫で…きゃ!」

 瑠瀬が遅かったため、心配したメイドが開けたのだ。

「えっと、毒島瑠瀬さんですよね?」

「はい」

 頷くと屋敷に入れてくれた。玄関で見上げると、綺麗なシャンデリアがつり下げられている。靴を脱いで上がろうとすると、美術品のような絨毯が敷かれている。踏むのが申し訳なく感じ、瑠瀬はこれを避けて上がった。

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