五月下旬 その五
「そういうわけにはいかない」
後ろで声がした。聞いたことのある声だ。二人はすぐに振り返った。
「お前は…」
鉄平祁だ。いつの間にか、後ろにいる…!
「二人で外に出て行くから何をするのかと思えば…。オレの言うことは聞けないらしいな?」
瑠瀬が怯える濃子の前に出る。
「お前の言うことは全部、嘘ってわかったんだ! 何が目的かは知らないけどな、もうお前の言うことは聞かないぞ!」
瑠瀬ははっきりと言ってみせた。それを受けて濃子も震える体を押さえながら、
「これ以上私たちに、か、関わらないでよ!」
と叫んだ。虫の音だけが響く草原に、二人の言葉を遮るものは他に何もなかった。
「そうか。ならばこれで最後にしてやろう…」
平祁は腰から何かを取り出した。
「何だアレ…? な、ナイフ?」
大きい刃で月光を反射するそれは、刃こそ手入れはされているものの、柄の部分は古びているように見える。ナイフと言うよりは、短い剣だ。
「死んでもらう。確実にな!」
平祁が走り出した。もちろん瑠瀬たちも逃げる。
「け、警察に通報…」
瑠瀬がスマートフォンでダイアルを押そうとした。しかし走りながらでは無理なこと。足元に目が行かず、石に躓いて転んでしまった。
「いてて…」
「瑠瀬!」
濃子が立ち止まり、瑠瀬の方を振り返る。
「逃げろ!」
助けに行って二人とも刺されました、は冗談にならない。転んだ自分よりもまだ走れる濃子の方が明らかに生存率が高い。
瑠瀬は地面に落としたスマートフォンを探した。せめて襲われる前に警察に通報できれば…。
そう思っていた瞬間、なんと平祁は瑠瀬を素通りして濃子を追いかけたのだ。
「え…?」
平祁は、狙うには絶好のチャンスだった自分を無視した。
「何でだ……?」
立ち上がりながら一人で呟く。一刻も早くスマートフォンを見つけ出した方がいいが、濃子が追われているのを黙って見ていられず、瑠瀬は平祁を追いかけた。
少しだけ振り返ると濃子は、自分だけが追われていることに気がついた。
「ど、どうして?」
瑠瀬が無事なのは嬉しいが、同時に疑問でもある。
平祁の方が足が速いのか、どんどん距離を縮められている。このままでは追いつかれてしまう。そう感じた濃子は胸ポケットからスマートフォン、生徒手帳、リップクリーム、シャーペン…手に取れる物を何でも掴んで後ろに投げた。
「クッ!」
声と音から判断するなら、どれか一つが上手い具合に、平祁の顔に当たったようだ。濃子は後ろを振り向き、それを確認すると足を止めた。
今度は瑠瀬が平祁に追いついた。余程痛かったのか、顔を押さえている。すれ違う時、足元の地面に突き刺さったナイフに目が行った。
「見覚えがある…」
平祁は知らない人だ。だがその人が、どういうわけか自分の知っている物を持っている。アレは喫茶店に飾られている、甲冑が身に付けている短剣だ。
どうにか濃子と合流できた瑠瀬。しかし平祁も起き上がる。もちろん濃子の前に出て、彼女を守る。
「どうやって持ち出したのかは知らないけど、あの短剣…。アレで切られちゃお終いだ」
実際にアレで怪我をした人間を知っているから、余計に恐怖心を煽られる。
ゆっくりと平祁が歩み寄ってくる。瑠瀬も濃子も、スマートフォンを今、持っていない。短剣と互角に戦える武器もない。そして中学生の体力で、大人の男から逃げきれる気もしない。現に二人は汗をかいており、息も上がっている。対する平祁はなんともなさそうだ。
平祁が短剣の刃先をこちらに向けて近づく。瑠瀬と濃子は少しずつ後ろに下がった。
やはり二人とも生き残るのは、難しい…。
「濃子。俺が何とかしてアイツを食い止めるから、逃げるんだ」
「何言ってるの?」
「この状況で二人とも逃げられるなんて、無理だ。濃子だけでも逃げてくれ!」
「そんなの嫌! 瑠瀬こそ生き延びてよ!」
二人がそんな会話をしている間にも、平祁は迫る。もう、数メートルも距離がないかもしれない。
夜風が音を立てて吹く。この状態でしばらく時間が流れた。瑠瀬と濃子は隙を見せるわけにいかないので動けなかったが、平祁も構えているだけで、そこから一歩も進まない。
「……!」
ここで瑠瀬は、あることに気がついた。平祁は短剣を、二人の顔の高さで構えているが、刃先が自分に向いていない。少し、右にずれている。
「だ、誰か助けて…!」
濃子の祈るような声が、瑠瀬の右耳に入って来た。
もしかして、平祁は自分を狙っていないのか? 濃子だけを殺す気でいるのか?
短剣のわずかなズレが瑠瀬にそう思わせた。そして瑠瀬が少し右に動いた。もし濃子だけを狙っているのなら、これで濃子と重なるような位置になるから短剣が自分に向くはずだ。
だが、平祁は短剣を下ろした。
「…おい、まとめて刺してやろうって気はないのか?」
平祁の感情を逆撫でするかの様な発言。しかし瑠瀬は言わずにはいられなかった。
「黙れ。オレはオマエには、用はない」
ならば、やはりここは自分が囮になって濃子を逃がせば…。いやでも逆上して振り下してくるかもしれない。そう考えると、やはり動けない。
真後ろでバタンという音がした。
「濃子?」
この緊張感に耐えられなかったのか、体力の限界が来たのか、濃子が尻餅をついて倒れてしまった。
慌てて平祁に視線を戻す。短剣は斜め下に構えられている。
「フ…。もらった」
平祁がそう呟くと、動き始めた。
「ウグッ!」
だが横から何者かに押された。
「何処かに逃げたかと思えば、ここに戻っていたとはな、鉄…」
平祁を押し倒した男がそう吐き捨てた。
「だ、誰? 平祁の知り合いなの?」
「この男はそう名乗っているのか。まあ本名なんぞ名乗れるはずがないが…ワタシは銅だ」
銅と名乗る男。瑠瀬は濃子に手を貸し起き上がらせると同時に、知っている人かどうか聞いた。濃子は首を横に振った。
「毒島瑠瀬に、斧生濃子だな? 事情は後で必ず説明しよう。今は逃げるのが先だ。ワタシがアイツと一戦交える。平祁の足は止まるからその隙に逃げるのだ、わかったな?」
濃子が銅のことをパッと見た。武器として使えそうなものは何も所持していない。
「本当に止められるの?」
「任せてくれ。絶対だ」
銅は相当な自信を持っているようだ。
「…………オマエにも用はない。だが、まだオレを邪魔する気なのか?」
「残念だが、ワタシはそうしなければいけない。アナタの思い通りにはさせない」
銅は拳を握りしめた。対する平祁はなんと短剣をしまい、反転した。
「…やめだ」
そう言い残して、振り返りもせずに走って去っていった。
「えっと、どういう、こと?」
目の前の事態に頭が追いついていない。瑠瀬も濃子も、混乱する一歩手前だ。
銅が言った。
「説明しよう。まずは場所を移したい。どこか、いいところはないか?」
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