五月中旬 その五
それが終わると、少し早いがお昼となった。製糸場の食堂で、瑠瀬たちはランチを奢ってもらうことになった。
「美味しいな。これが毎日食べられるんなら、ここに就職ってのもアリだぜ」
「私は職がここしかなかったとしても、ニートを選ぶぞ…」
「二人とも…。今は機械でやってるから、あんな風に糸繰りはしないんじゃないのか?」
朋樹と恵美の会話に、徹が割って入る。その隣で、由香が次の予定を麻林に聞いた。
「あ~。そう言えば、生きてる実物を見してくれるんだっけ?」
「瑠瀬は楽しみなの? あんた確か、バードウォッチングしたくて生物部に入ったんじゃなかったっけ?」
「飛べれば同じだよ。鳥も虫も」
鳥と虫は、羽ばたき方が違う。だから瑠瀬は虫の翅の仕組みにも興味があった。しかし麻林によると、
「蚕は、羽こそありますが飛べませんわよ、瑠瀬様」
「そうなのかい? でも確か、蛾の仲間じゃなかったっけ?」
繭を作る虫なら、真っ先にモスラが頭に思い浮かぶ。だから瑠瀬は、蚕を見たことがなかったが繭から蛾を連想した。
「蚕の衛生上、みな様をここの飼育室へ案内することはできません。しかし、今日は客間にわたくしが指定した蚕を用意しておりますわ」
瑠瀬は由香、麻林と話をしていたが…。一瞬だけ恵美がこちらを見て、怯えた表情をしたのを見逃さなかった。
「恵美、嫌なら麻林に断れば…」
虫嫌いの恵美がこれ以上、ここにいることができる気がしない。しかし彼女は、
「…少しくらいならつき合う。こんなところで仲間外れにされるなんて、ごめんだ」
プライドか何かが許さないのか、強がった。
全員が食べ終えると、麻林が客間に案内してくれた。移動の際に、瑠瀬が朋樹に話しかけた。
「蚕って飛べないんだってさ。何でだろうな?」
「蛾の仲間なんだろ? ミノムシの雌みたいに翅が退化してるのかもな」
瑠瀬は、なるほどと思った。言われてみれば一部の虫は、翅が退化して生えてない種が存在する。
客間の入り口に着くと、麻林が扉を丁寧に開いた。
「では、どうぞ」
しかし客間には、虫かごが置いていなかった。テーブルの上にあるのは、いくつかの段ボールだけだ。しかも蓋が開いている。
それを見た徹が言った。
「おいおい、これじゃあ逃げちゃうんじゃないの?」
しかし麻林は首を横に振る。瑠瀬が真っ先に部屋に入り、段ボールの中を確認した。そしてその中から、虫を一匹捕まえて指の上に乗せた。
「…真っ白だ。翅はあって羽ばたいてるけど、全然飛んでいかない…」
今瑠瀬の人差し指の上で一生懸命翅を動かしているのが、蚕の成虫だ。六本の肢で器用に指の付け根に移動する蚕。瑠瀬が左の親指を進路の前に差し出すと、その上に乗った。
「虫にしては随分と可愛いのね」
由香も段ボールの中を覗き込んだ。その中で十頭ほどの蚕が羽ばたいている。
「それらは全て、雄ですわ。雄は翅で風を起こして、雌の匂いを自分に引き寄せるのですわ」
麻林が違う箱を持ってくると、その中から一頭蚕を取り出した。
「こっちは雌ですわ。お腹にある器官で匂いを出して、雄を呼ぶのですわ」
確かに腹の末端から、黄色の突起を出している。麻林はその蚕を、瑠瀬の左手に乗せた。すると元々左手にいた雄の蚕がすぐさま雌の方へ歩み寄り、腹の先を押し当てて交尾を始めた。
「雄も雌も、両方とも飛べないのか…」
観察していた朋樹が言った。
「翅はあるし、動かしているのにどうしてだろう…?」
徹の疑問に、麻林は答えた。
「人が飛べなくしたと言われてますわ」
「人が?」
「大昔から品種改良が行われ、結果として体が重くなって飛べなくなったと言われていますわ」
部屋の入り口で突っ立っている恵美がやっと口を開いた。
「それなら、二、三匹逃げても電灯に群がらなくて済むな…」
恵美の思い浮かべる蛾と目の前の蚕は随分とかけ離れているが、それには瑠瀬も納得だった。逃げ出した先で増えると、自然環境が壊されてしまう…。しかしその心配は、麻林によって打ち壊された。
「蚕は、自然界には存在しません。それに恵美様、蚕は一頭二頭と数えますわよ。匹は用いませんわよ」
一同、その発言に驚いた。
「え、でも、バスで通った桑畑は? あそこに放し飼いされてるんじゃ…」
「瑠瀬様。蚕はあそこには一頭もおりません。葉を収穫して飼育室の蚕に毎日、与えるのですわ。それに蚕は、枝に掴まっていることができませんの」
「それじゃあ、人が餌を与えないと生きていけないじゃん?」
朋樹も言う。
「だから自然には一頭もいないのですわ」
今の台詞には、とても説得力があった。
「なら、蚕は何処から生まれてきたの?」
由香がそう思うのも無理はない。麻林は棚の引き出しから、クリアブックを取り出した。それを開いて中身を見せてくれた。
「この茶色いクワコ…。これが蚕の先祖だと言われておりますわ。この写真はわたくしが実際に捕まえて、育ててみた時のものですわ」
麻林によれば、クワコは蚕に似ているが別の虫らしい。蚕と同じく桑を食べるため、あの桑畑にいてもおかしくないらしく、そこで捕まえたという。
「最大の違いは、クワコは飛べることですわ。それを知らなくてわたくし、成虫になった途端に半分、逃げられてしまいましたわ……」
「虫の割には、奥が深いんだな…」
その点には、恵美も関心を抱いていた。
「そういえば、餌は?」
徹に言われて瑠瀬も気がついたが、この箱の中には餌が置いてない。
「成虫には口がないので、何も食べません。故に羽化すると蚕は、一週間ほどでお亡くなりになりますわ。蝉よりも短命なのですわよ。でもこれは、ヤママユやエリサンをはじめとする野蚕も同じなのですのよ。あの一番大きなヨナグニサンも同じですわ」
麻林の口からは、蚕の話題が止まらない。今度はまた別の箱を持って来た。
「うわっ!」
一瞬だけ中身を見た恵美が驚きの声を上げた。
「これが蚕の幼虫ですわ」
白い芋虫が蠢いていた。
「蛾の幼虫にしては、毛がないんだね」
瑠瀬が率直な感想を述べると朋樹が、意図せずして掘ってしまった墓穴を見逃さなかった。
「そもそも蝶と蛾の区別自体が曖昧だぞ? お前、そんな事も知らないのか?」
瑠瀬は黙り込んだ。
「これ、触ってみてもいいの?」
由香が手を伸ばした。麻林が止めなかったので、由香は幼虫を二頭、手に取った。
「何か、虫と思えない触り心地ね。ひんやりしてるし」
瑠瀬も朋樹も、徹も触ってみた。
「何か、色が色ならモスラの幼虫みたいだね。本物の眼じゃないけど、模様がそう見える」
すると麻林はクリアブックをさらにめくり、
「ひとえに蚕と言っても、これだけの種類がございますわ」
その写真には、色が黒だったり、模様がなかったり…。他にも色々な幼虫が写っていた。
「これも蚕?」
瑠瀬が聞くと、
「昔から人々はシルクを求めていましたから、世界中に蚕はいますわ。三千種ぐらい…。桑も同じ種類がありますので、蚕によって食べる桑も異なってくるのです」
「そんなに?」
麻林の答えに、驚きの声を隠せなかった。
「ええ。そして人がいなければ生きていけないので、それだけ人と蚕は繋がりが深いのですわ」
瑠瀬は手に持った蚕の幼虫を見ていた。もしこの幼虫を瑠瀬がその辺に放せば、この幼虫は次の日にでも死んでいるだろう。
「り、瑠瀬様?」
逆に箱に戻せば、明日も生き残ることができる。
「瑠瀬様!」
麻林に肩を揺らされて、瑠瀬は我に返った。
「ま、麻林さん? 大丈夫、だよ…俺は」
幼虫は箱に戻した。
「もし生物部で実験材料に蚕を使いたいのでしたら、わたくしがいくらでも補助してあげますわ。その時はお声をおかけになって」
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