五月中旬 その四
バスが高速道路を下りると、麻林がもうすぐ到着すると言った。気がつくと道路の両端が木々の緑で埋め尽くされている。
「麻林さんの家って、こんな自然豊かなところにあるの?」
ガイドの説明もちょうど終わったので、瑠瀬は麻林に尋ねた。
「これは全て、蚕のために植えられている桑ですわ。秋頃には、丸裸になりますのよ」
「これ全部?」
思わず大きな声を出した。今日見に行くところは紡績会社の製糸場と事前に聞いてはいたが、たかが虫の餌のためだけにこんなに大きな林を作るのか。瑠瀬はド肝を抜かれた。
「ここは製糸場があるだけで、わたくしは両親と栗橋に住んでおりますわ」
バスが製糸場の前で停まった。瑠瀬たちが降りる。とても大きな建物が目の前にある。周囲には桑畑。少し歩くと社員寮があるらしい。運転手とガイドは、降りずにバスと共に車庫に向かった。
「案内してくれるんじゃないのか?」
恵美がそう思うのも無理はない。今、瑠瀬たちが外にいるのに、製糸場からは誰も迎えに来ない。
「わたくし一人で十分ですわ」
麻林が説明を全て行うつもりらしい。
「本当に大丈夫? 迷子になったりしない?」
由香が心配そうに聞いた。
「由香様、その心配はないですわよ。わたくし、ここには数え切れないほど来たことがありますから!」
頼もしい…はずなのだが、瑠瀬は同い年の子が案内を全て行うことが少しだけ心配だった。
「さあ、参りますわよ」
六人は製糸場の中に入った。エントランスには豪華なシャンデリアがあると想像していたが、そうではなく普通だ。他にも高級そうなものはない。極力贅沢をしないで、質素を目指しているのだろうか。
「意外とあっさりしてるんだな。私は何かこう、いかにも金持ちの館って感じだと思ったが…」
恵美は瑠瀬と同じことを考えていたようだ。
「社員の衛生は徹底されておりますわ。それに最新機種を導入したり、研究したり…。どうやら先代が、意味のないところにお金はかけない考えを持っていたようでして…」
瑠瀬は納得した。確かに、工場に派手な照明器具なんて不要だ。一見ケチ臭いようだが、お金の使い方を熟知しているのだ。
「お嬢様。今日一日、頑張って下さいね」
受付の人が麻林を励ました。
まず向かった先は、紡績室。実際に糸繰りをしているところである。瑠瀬たちの頭には、富岡製糸場の光景が広がっていたが、現代の紡績はそうではなかった。機械によってシステマチックになっており、人もそれほど多くはない。
「工女がいると思ったのに、残念だ…」
徹もそんな事を言う。
「相変わらず…。下心しまえ」
恵美も反応する。
「すげー! アレ一台、いくらするんだろう?」
機械音を建てて動く紡績機に朋樹は夢中だ。しかし麻林はそれを心地よく思っていないのか、
「後で、実際に糸繰り器を使って、やってみましょう。機械に全て任せてしまうよりも、人の手で行うことの方が重要ですわ」
紡績室は簡単な説明だけで済ませると、もう次の場所に向かうことになった。
少し小さめの会議室に案内された。机の上には、水車の様なものがついた装置が六つ、置かれている。
「あれは何?」
今までに見たことがない物。全く想像がつかないので瑠瀬が聞いた。
「糸繰り器ですわ、瑠瀬様。機械化される以前は、一人一人がこれで糸繰りしてましたのよ。わたくしの趣味の内の一つですわ」
麻林が机の上に置いてある箱の中から、白い楕円形の物を一つ、取り出した。
「この繭から、糸を紡いでいくのですわ」
「これがさっき見た糸になるのね」
由香が納得する。
「ん? 繭?」
恵美は何かに疑問があるようだ。
「ではでは、みな様、やってみましょう」
簡単に操作法を教わると、一人一つ、繭が配られた。繭を温水の入ったビーカーに入れてほぐれ易くし、そこから糸口を見つける。それを少し伸ばして切れないように、水車のような部分…糸枠に巻き付ける。そして手元のハンドルをゆっくり回す。
「おお…!」
単純な作業ではあるが、糸枠に糸が巻き付いていく様が面白い。同じ場所に巻き付かないように、糸が左右に動く仕組みになっている。
「ああ、切れた!」
朋樹が悲鳴を上げた。
「早く回し過ぎですわ。落ち着いて、ゆっくりと。由香様が上手ですので、あのように…」
「しまった…」
麻林が言っているそばから、今度は恵美が切れたようだ。
「みな様、そわそわしているようで…」
眉間にしわを寄せて、麻林はちょっと呆れている。
「こうやってると、これで何ができるか楽しみだな…」
徹が言った。言われてみれば、紡績していると説明はあったが、そこから何を作っているかまでは聞いてない。
「あら、お上手ですわ」
ちょうど瑠瀬の方に麻林がやって来たので、聞くことにした。
「この糸で、具体的には何を作るの? シャツとか?」
「わたくしは、絹なら何でも作れると思いますわ。絹はそもそも動物性の繊維。人間の肌に合わないはずがありません。昔から、製糸場で働く工女の手は綺麗になると言われてますわ」
「言われてみれば…。麻林って、指、結構綺麗よね。羨ましい限りだわ」
由香がこちらに顔を覗かせて言う。
「別に由香が汚いってわけじゃないけど、確かにそう見える」
恵美も同じ意見だった。女性としては、憧れの的なのだろう。
「昔は釣り糸もシルクでしたわ。水に浸かると魚が認識できなくなるって、お爺様が言っておられましたわ」
テグスにこれが使われるのか。さっき朋樹と恵美が切ってしまっていたので、想像するのが難しい。魚が簡単に逃げてしまいそうだ。
「今みな様が着てらっしゃる衣服のほとんどは綿か合成繊維ですわ。ですがわたくしは、絹製の着物を常に身に付けていますわ」
麻林は自分の履いてるタイツを少し抓って、
「これだってそうですわよ。第二次世界大戦が始まる前、アメリカはストッキングのために日本から絹を輸入しており、戦争になってそれが止まると、国中の女性が猛反対したそうですわ」
「それは、大変そうだね…。トルーマンも頑張ったのかな?」
朋樹が言った。しかし間違えて覚えている。トルーマンは戦争末期に大統領だった人物で、開戦時はルーズベルトだった。瑠瀬は自分の頭の中で訂正した。
「それが原因で、アメリカでナイロンが誕生しました……」
代わりとなる繊維ができたと言う。
みんなコツを覚えてきたようで、糸繰りは順調に進んだ。
「繭が薄くなってきたな…」
「朋もか。俺のもだよ。中に、茶色いのが入ってるんだど、何だろう?」
繭の糸もなくなりかけているのか、どんどん小さく、そして薄くなっていく。
「麻林、この茶色いのは一体何だ?」
恵美が尋ねると、麻林は笑顔で答えた。
「それが蚕ですわ」
「はぁ?」
恵美は、麻林の発言が信じられなかったのか、聞き返した。
「いや、え…。中身を取り出して…る、んだよな?」
麻林は首を横に振る。
「蚕の繭は、元を辿れば吐き出された、たった一本の糸からできておりますわ。中身の蛹を取り出すなんてこと、できませんわよ? お湯で煮てありますので…。後で生きてる蚕をお見せしますので、どうかご安心を!」
しかし恵美にとってはその言葉がかえって彼女を刺激した。
「ひゃあああ!」
勢いよくハンドルから手を離す恵美。
「どうかなさいました? 恵美様?」
「麻林、恵美って虫、苦手なのよ。触ることはおろか、見ることすらできないぐらいに…」
由香が麻林に事情を説明した。
「あらそうでしたの? ですがそんなに怖がることはありませんわ」
「駄目な物は、駄目なんだ!」
恵美はその場に尻餅をついた。今この場に生きている虫はいないが、今ここで虫製の物を触っていたという事実にさらに恐怖し、額に冷や汗を流している。
「大丈夫ですって。まずは立ちましょう」
麻林が近づいて手を差し伸べるが、
「そ、その服もリボンも、全部元を辿れば虫…なんだろう?」
断る恵美。もう見てられないと言わんばかりに由香が、
「気を悪くしないで、麻林。恵美はもう重症なの。きっと一生治りそうにない」
すると麻林はあからさまにがっかりして、
「そうですの? とても、残念ですわ…」
恵美だけ、机から離れて座った。瑠瀬たちは糸繰りを続ける。お湯に浸かった繭が、もう原型を留めていない。繭から蛹がはみ出ている。
麻林が、それくらいで大丈夫と言ったので、瑠瀬たちは手を止めた。そして糸枠から糸を外した。
「昔はこういう感じに糸を取ってたのね。麻林、これもらえないの?」
「もちろん。少し乾燥させたら、差し上げますわ」
「私はいらないぞ、絶対に!」
女性陣がそんな会話をしている。朋樹が、
「母さんにあげたら喜ぶかな?」
と言うと徹が、
「虫から取り出しましたって言ったら、恵美と同じ反応だろうな…」
その会話を横で聞いていた瑠瀬は、複雑な気持ちになった。自分が使うわけでもないで誰かにあげるのが良いのだろうが、もらう人も虫の繭から取って何も加工してないと聞いたら嫌がるかもしれない。
麻林が製糸場の職員を一人呼んだ。その人に全員の糸を渡して乾燥させてもらうらしい。残った残骸を、麻林が一人で片づけた。
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