五月中旬 その一

 スマートフォンのアラームの音が鳴る。斧生おのお濃子のうこは既に布団から出ており、着替えの途中だった。余裕を持ってアラームを止める。

「また…あの夢を見た」

 濃子はいつも目覚ましよりも先に起きるのではない。今日が特別だっただけだ。もう十年前になるが、まだあの光景が網膜に焼き付いており、今でも夢で見るのだ。

「濃子、起きたの?」

 母の声がした。

「今、起きた。すぐ下に行くから待ってて」

 部屋は二階にあり、濃子は階段を下りて食卓に向かった。だがテーブルには、一人分の朝食しか用意されていない。

「濃子、お母さん今日早いから。もう行ってくるわね」

 そう言うと、もう出勤してしまった。一人残された濃子は、椅子に座って朝食を食べ始めた。大した量ではないので、すぐに食べ終わる。時間にも余裕があり、母に苦労させたくないので食器も洗う。

 一度自分の部屋に戻り、学校へ行く支度を済ませると、濃子も家を出た。

「行ってきます」

 誰もいないのは百も承知だが、そう挨拶をして家の鍵を閉めた。

 最寄り駅の板倉東洋大前駅まで歩き、そこから電車に乗って栃木駅まで行き、楸中学校にたどり着く。今日はいつもより少し早かったので、電車はまだだ。

 ホームのベンチに座って、今日見た夢のあの光景を思い出した。


 十年前に家族旅行に行った時のことだ。濃子はこの旅行に乗り気ではなかった。だが家族に迷惑をかけまいと参加した。

 旅先は北海道。寒いところに行きたくなかったわけではない。時期は夏だったし、動物園や五稜郭で一番はしゃいでいたのは濃子だった。

 問題は、帰りに起きた。濃子は具合が悪くてホテルから出られそうになかったため、母と延泊することになった。父と兄が先に、飛行機で茨城空港に向かった。

 だが、飛行機は着陸することがなかった。磐梯山の麓に墜落した。原因はエンジントラブルや燃料不足ではないかと当時騒がれたが、最終的に整備不良で落ち着いた。

 濃子はホテルで、母と共に飛行機の残骸、燃える山中の映像をテレビで観ていた。その時どうして母が泣いていたのかを、父と兄の葬儀で理解した。

「死んだんだ…。私のお父さんとお兄さん…」

 それを改めて認識すればするほど、当時の映像に恐怖心が湧いてくる。マスコミも原因がわかるまで映像を流し続けたこともあって、濃子は嫌でも何度も観ることになった。それがきっかけで、今でも燃え上がる機体が映るニュースを、何もできずにただ観ているだけの夢を見る。

 しばらくすると、母が落ち着いた。そして寝る前にいつも枕元で濃子に語り掛けていた。

「濃子の具合が悪くなかったら、お母さんたちも亡くなってたかもね」

 冗談交じりの台詞。母なりの現実逃避なのだろう。濃子も、

「そうだね、お母さん。頭痛と吐き気に感謝しないとね」

 と決まって返した。


「ごめんねお母さん。アレは、嘘なんだ」

 濃子が吐いた嘘。それは体調不良に感謝しているということではない。

 具合が悪いと、当時言ったこと自体が嘘である。つまり濃子は、ホテルで仮病を使ったのだ。

 では何故仮病を使ったのかと言うと、それは「帰り道、飛行機は駄目。海路か陸路で帰って来てくれ」と幼馴染に言われたからだ。でもそんな話、変なことを言っているとしか思われないので口にしたことがない。


 電車が来た。降りる人がみな降りたことを確認したら、濃子は電車に乗り込む。今日は席が空いているので、そこに座る。

「ドアが閉まります。ご注意下さい」

 いつもアナウンスと同時に、電車に乗り込んでくる人物がいる。それが濃子の幼馴染にして命の恩人、毒島ぶすじま瑠瀬りゅうせだ。瑠瀬とは同じ中学校に通っている。幼稚園も小学校も一緒だった。しかし中学に上がってクラスが別々になると、交流が途絶えてしまった。幸いにも今年、中学最後の年に同じクラスにはなれたが、それでもしょっちゅう話す仲とは言い難い。

 瑠瀬は、特別な人間だ。勉強に秀でるとか、スポーツが万能とか、そういう意味ではない。

 彼によれば、寝ている時に夢を全くと言っていいほど見ないらしい。例外はある。例を挙げるなら瑠瀬は、十年前の夏休みに濃子の家族が旅行に行く直前、飛行機事故である一家が全員死亡する夢を見ている。その夢の中で死んだのが、濃子の家族だった。

 早い話が、瑠瀬は予知夢しか見ない。そして濃子が死んでしまうかもしれない夢を見て、それを回避するために濃子に帰り道、飛行機に乗るなと言ったのだ。濃子も濃子で、瑠瀬の夢の特性を幼稚園児の段階である程度わかっていた。

 だからホテルで、仮病を使ったのだ。

 濃子が顔を上げると、ちょうど瑠瀬と目が合った。

「おはよう」

 瑠瀬はあくびしながら挨拶した。

「おはよう。今日の中間テスト、大丈夫?」

 今週末は中間考査だ。濃子はしっかりと試験範囲を押さえた。対する瑠瀬は、

「…多分」

 濃子としては、瑠瀬はその気になれば出来る人だとは思う。だが中々身が入らないのか、中学に上がってから成績が良くなったという類の話は耳にしない。

「平均点より高けりゃ、満足だよ俺は。濃子はどう?」

「バッチリだけど」

 それ以上瑠瀬は、濃子に何も聞いてこなかった。濃子もどんな話題にしようか決めかねており、悔しいことに会話を続けることができなかった。

 中学生になって毎日こんな感じである。この一時だけ、濃子は昔から想いを寄せる人と話ができる。

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