第一話 とある准教授
二〇一〇年度が始まって三週間、まだ四月である。しかしこの講義室には学生が全くいない。わずかに座っている学生は、馬鹿真面目でサボることをしらないのか他人のために講義資料の回収が目的である。こうなっているのは出欠を取らないことが原因である。でも改善する気はない。
「…であるからこの場合の塩基配列は…」
益子大学生物学部の准教授、
堀北准教授の講義は楽に単位が取れる。ある学生が喋っていた噂。堀北自身否定はしなかった。事実だからだ。
ある程度の解説はした。時計を見るとちょうど講義の終了時間。
「では今日はここまで。来週はプリントの続きをします」
そう告げて講義を終える。学生はさっさと帰っていく。堀北も今日は講義はないので自室に戻る。
普通だったら詰まらなさすぎる生活。普通の人だったらこんな状況は耐えられないだろう。だが堀北は違った。
堀北の本業はここからと言っても過言ではない。堀北は自室に置いてある、段ボール箱の中身を確認した。
「順調に育っているぞ。いいな」
中には蚕の幼虫が数十匹いる。餌である桑の葉をもくもくと食べる。
堀北が実験に蚕を選んだのには理由がある。第一に世話が楽なこと。毎日餌を与えなければならないものの、逃げたりしないので気軽に飼育できる。それに成虫は翅こそあるものの飛べず、餌も食べずに二週間ほどで死ぬので処分がしやすい。
第二に、蚕はゲノム配列が解読されている。そのためどこの遺伝子をいじればいいかが簡単にわかる。実際にオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質を導入させれば、光る糸を作らせることすら可能なのだ。
堀北はこの蚕の遺伝子を操作した。蚕の糸は普通、黄色か白色。そこにもう一色、加えたのだ。メラニンを作る遺伝子を導入されたこの蚕たちの吐く糸は黒い。まだ繭を作る段階ではないが、蚕は移動手段として糸を吐く。それがもう黒いのである。既に繭を作る段階まで待つ必要はなさそうであるが、堀北は成虫になるまで飼育する気だ。
もう一か所、遺伝子を操作した。フェロモンを作る遺伝子をノックアウトしたのだ。この蚕の雌は成虫になってもフェロモンを作れないので、雄を呼ぶことができず、交尾ができない。要は生殖機能を阻害してみたのだ。一代限りの蚕。その結果が上手くいているかどうか、見る必要がある。
「堀北准教授、先に上がりますよ」
ノックもせずにドアを開けて学生が言った。堀北は慌てて段ボール箱の蓋を閉めた。
「おやおや、
二人は自分の研究室に配属になった学生だ。二人とも、いやもう二人堀北の研究室に学生がいて、四人とも推薦で大学院への進学を狙っている。成績は十分であり、学習意欲も高い。四人に関しては問題はない。
いや、ある。四人は堀北が何をしているのか知らないのだ。四人だけではない。上司や同僚、また堀北の家族ですら、堀北の行動を知る人は誰もいない。その辺は、堀北の実験は徹底していた。
「後は
もう二人の学生が帰ってくれなければ、次の実験を進められない。堀北は自室を出て実験室に向かった。ドアの窓越しに実験室を覗く。二人は真面目に実験をしていた。今、帰れと言うのは不自然だ。タイミングを見計らう。
二人が実験をやめ、結果をノートにまとめている。その手が止まった時に、人権室のドアを開けた。
「実験は順調かい?」
卒業まであと一年あるのだ、ここで躓いても後から取り返せる。返事には期待していない。
「全然ですよ、准教授。電気泳動、ゲルの濃度ミスってたから結果のバンドが出ませんでした…」
甲斐君と橘川さんは落胆している。
「落ち込むことはないぞ、甲斐君。わたしもね、学生の時は原因不明の失敗ばかりだったよ。それに比べちゃ君たちは、そのミスさえなければ成功していたんだろう? なら明日は成功だ!」
喝を入れる。と同時に帰ることを促す。
「今日はここまでにして、明日頑張るんだ。きっと成果が出る」
「わかりました。じゃあ片付けたら帰りますよ、准教授」
二人はそう言うと後片付けを始める。堀北は自室に戻った。堀北には考えるべきことがあった。次の実験プランだ。蚕は成功するだろうし、明日から何か別の生物で実験してみたい。そんな気持ちを抑えられない人間だ。
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