20161110

美術館や展覧会に行くのが好きだと言うとよく、お世辞だろうけれど「いい趣味」だと言われるし、親戚一同も「あらー、優雅ー」みたいに私はいまだ子どもに思われてるのかな?って思うほどにおだててくれるもちろん母親だけは私をからかうけれど。そうだね、とも思う。だが、私にとっては、それ以上だ。

芸術というのは、遊戯でもなければ幻想でもない。現実そのものだ、と思う。

私はほんとうに、いわゆるコンテンポラリーアートが好きで、今回のロストヒューマンもそうだし、それっぽいのがやってたら可能なかぎりで足を運んでいる。『4分33秒』や『泉』などの印象が先行していたり、また直感的ではなく難解だがかならずしも論理的でないゆえ、誤解を受けやすいと感じている。

私がコンテンポラリーアートを愛するのは、なんだかんだ私が現代というものを愛しているから。見たまんま聴いたまんま感じたままそのまんま、世界を受け取れる時代は終わった。私たちはもう素朴実在論の時代には戻れない。認識の薄闇に投げ出された、不安危機感露悪趣味、呻くようなかすかな祈る声。



いままでわりと多くの展覧会に行ったという自負があるけれど、さっすがに泣いたのははじめてだわあ……。

いやあの、すごいというか圧倒というか、なんだろう……なんていうんだろう……。

ここだ、と思った、私の目指す場所はここ、帰る場所もきっとここ。私はその点において間違ってはいなかった。私ひとりではなかった。安堵と怒りで頭とこころがぐちゃぐちゃになった。悲しみを感じるまでにはすこしばかりの時間が必要だろうし、希望をもつというのはさらにその先のことだろうな。

絶対的な芸術体験というのは、たしかに体感の経験になりうる。

みなさん見るのに必死で、私の涙などだれひとり気づいちゃいなかっただろう。



あーーーそうだ、こないだってかきのう空手やって思ったんよ。私は最底辺白帯なわけだから当然黒帯で年下の同期や先輩たちに教えていただくわけだけれども、なんだろなああいうのって腹立たないし反発もないじゃん。教えるがわも教わるがわも、真剣だけれど平和じゃん。小説はさー、って。

私小説しかわからんからあえて限定して話すけれど、小説を教えるという行為はもうほんとうに難しく、なおかつ互いが不愉快になることもある営みだと思うんですね。さいきんではどちらの立場もわかるっていうか。教わってても「ん?」となるし、教えてても「あれっ?」ってなることがよくある。

なまじ日本語だからなのかなー日本語はみんな使えると思い込んでるし、とも思うんだけれど、なんか根っこはそれだけではない気がする。なんというかね小説って自分の全体というか、もっとも自分で認めたくない根本から出てくるものだから、ありかた、みたいなものまでかかわってくるのかなーって。

よく初心者のかたが言うよね、作品を否定されると自分を否定された気になる、って。私はもはや初心者とは言えないのだけれど、そういう感覚はいまもわかる。

私は自己評価が超絶低かったことが、小説に限定するとかなりうまく働いて、つまり初期は愚直なくらいに素直だったんですね。相手の言うことをあまり疑わず、わりとそのまんま受け取って、ずっとずっと考え込んだ。その態度ってそれはそれで問題があるのだけれど、私の場合はうまくいったんだよね。

それまでの人生でありえなかったくらいにきついことを何度言われても、落ち込むというかまあそりゃ十代だったしねプロとか以前に親に近い年齢のおとなたちにそう言われるのは落ち込んだけれど、どちらかというとどうにかしなきゃとずっと思ってた。どうにか、どうにかして、進む、と。

……まあデビューしたらもっと辛口になったけれどね。

私はみなさまのおっしゃいます通り底辺作家というかもうたぶん消えたと思われていますけれども、そんな私でも作家志望のかたの作品を見る機会ってけっこうあるんですね。そういうときに、まあ私小説でできないことも多くって、けっきょく文章しか明確に話せないんで、言うんですよね。そういうときさ。

私の実感ね、特定のだれかというわけではなく抽象化しての感想ね。私読めないんだよ、文法が崩壊しまくってる文章ってそもそも読めないの。だからそのことを伝えるわけですよ。「読める日本語で書いてください」って。そうするとたいていのひとが、日本語が書けると思ってるんだなーってびっくりした。

ちなみに私は日本語が書けるか書けないかというと、さいきんやっと「文法的に正確、という意味においてはかろうじて書けなくもないのかもしれないが、まあ文体の問題もあるしねまだまだ」みたいな自己認識だよ。そう言うと「ふーざけんなっ☆」って言われることもあるけれど、まじでまじで。

もちろん相対的に見れば書けるよ。でも自己評価ってまだ別問題じゃん。

「だーーーからなつきちゃんは日本語はもういいって言ってるでしょ???」っていう声が聴こえてくる気がしますがねえ気のせい気のせい。

まあとにかくそういうわけで、自分の弱いところってなかなか気づかないもんなんですね。私はたまったま読書オタクだったせいで日本語だけは書けたってだけであって、ストーリーとかまじで問題外だわーみたいな感じだったからね。じっさい私もそのことを気がつくまでにはかなり時間がかかった。

なんでしょうねえ、小説を書くってだけなら自己完結できるんだけれど、それをひとに見せる、さらに感想をもらう、そこまでいくと技術というよりは気持ちとか自己意識の問題になってくるよなあ、とさいきんまじで思います。だからこそ、小説は空手のようには教えられない、いろんな意味で。

いますぐ出てこないんでわからないけれど、じっさい電撃の評価シートでも文章力はAとか低くてもBプラだったっけな、でもだから私が見るべきはそこじゃないんだよね、なんかもうだいぶ忘れかけているけれど、ストーリーとオリジナリティはけっこうきつい評価をいただいてた気がする。

苦手を克服するか長所を伸ばすか、っていう考えかたもあるけれど、これは難しいよね……なんかそういうことじゃない気もするし……。

まあとにかく私がかりにも一冊出せていまも書かせていただいているのは、文章力としつこさだけですよってね、いつも言っているけれどね。

たぶん、なにかひとつでも、執着するものがあれば、それだけでとりあえず本は出せるという極論を唱えてみる。

私の場合は関係性ね、絶対単数二人称と単数一人称の個別的な関係性。文章力とかごちゃごちゃ言っているけれど、たぶんぶっちゃけ私はここだけだと思う、だけってことはなくても、これがなければそもそも私は小説などひと文字も書けない。



あとね、表のタイムライン開くのもこの時間帯が多い。この時間帯のツイッターはなんとなくちょっと愛せる気がするんよね。

ひとってね、昼に発する色とりどりの折り紙みたいな言葉よりも、深夜に発する泡のような言葉のほうが、ほんとうのことがちょっとだけ乗ってるんじゃないかなって、なんだか勝手にそう思ってる。

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