なんでもメモ20170115
物語は人間を救済する。
肉体的な浮気は私したことないししないけれど。でもそれってそういう欲求がないというだけの単純な理由で。
私はいろんなひとと「とくべつなかんけい」を結んでしまう。
だからこそ、差別区別ということに異様にこだわるんだろうな。ふつうは、たとえば○○もだし××なんかもふつうにできるように、私はそのひとのことを意識しないととくべつと思えないし、とくべつにならないから。
私は○○だけを自分の人生においてとくべつにしたい。
その気持ちがあるだけでも、とくべつ、と言えるのかもしれないけれど。
……もちろん子どもはべつで。でも、○○との子どもはほしい。
それはいちばんの奇跡だと思う。
↓
(タラレバ娘七巻のバーの、どうして自分が、という相談)
そっか。
私は、他者に対してすごく興味があるんだ。……だからだ。
だからひとが寄ってくるんだ。
↓
好きな相手と。
そうね。好きな相手とつきあうのなら、めんどくさくてもむしろそうするねえ。
私○○のことほんと好きだし……。
○○がいう、時間外労働、ってーのもそういうことだろうなあ。
「ぬいぐるみ倫理」っていうか、「モノの倫理」とでもいおうか。
あると思うんだけれどなあ。そういうの。
××先生には「拡張しすぎちゃいけない」って言われたけれども、私は、あると思う。
個別的に特殊的に人間とかかわること。
それこそが、「神にならう」ことなのでは、と。
漫画を読むこと。ひとと話すこと。ゲームをすること。ツイッターをすること。
すべては佐藤優が書いていたように「救済のため」。
すべてが関係している。相互連関。
私のもっともすぐれた才能、というか天分は、バルトのような神学やほかの哲学が、「わかる」ことにある。
わかるというのが思い込みかもしれないという話もあるが、私は「わかる」と感じる。暫定的に「わかる」ということにして。
そのことを、物語のかたちで世のなかに提供してくことがやっぱり私の仕事なのかもしれないなあ。
降ろしてくるっていうのもそういうとこあるし。翻訳。メディア。
不敬であること承知で言うけど、安息日と礼拝はまじでわかんない。
日曜仕事してるひとどーするのよ。
そりゃ安息日に礼拝したいだろうけれど。そうもいかないじゃん。現代日本。
日曜日に仕事あるってだけで義とされないのはどう考えてもおかしくない?
神さまってそうじゃないでしょ?文化や生活様式ってのはあくまでも人間がわの都合で。
神さまはそんな人間の都合なんかで揺らぐような相対的なおかたじゃないでしょ?
そういう意味じゃ日曜日にぜったい教会行けってのは人間がわの傲慢じゃない?
それに私だって。日曜日に仕事はないけれど、じゃあほかのひとや、家族とか、圭介なんかと、手に手を取って礼拝に行けるかっていうと、そうではないでしょ。
おかしい。あきらかに、なにかがおかしい。
……とかいいながら、恣意的で人間的で、罪人なのは私なんだろうなって。思うけれどもさ。
思うけれどもさ……。
「文化によって救済が決定されるのはおかしい」。
たとえば知的な障害があって。言語理解の難しい人間は、救済されるのか?救済されうるのか?
なんでもできるひと。器用貧乏なひと。
××さんを見てて。漫画やってて。××とかもその点はそうだけれども。
器用(貧乏)なひとってかわいそうだな、って。なんでもできるひとってかわいそうだな、って。
自分のやるべきことが見えないうえに、自分はわりとなんでもできると驕ってしまうし。
……と、思ったのだけれど、いわゆるゼネラリスト。なんでもできるからこそ、そのことがむしろ専門性になるひとも、そういえば、いた。
「なんでもできることしかできない」と自覚すること。
言葉遊びのようだけれど、言葉遊びではなくって。それが、だいじなんだろうなあ、なのかもなあ。
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