鬼は外

 実家で盛大に飲んで騒いで潰れた正月から一ヶ月が過ぎた。

 二月初めの夕方、世間は節分には目もくれずバレンタインに向けて、なんとなく落ち着かない空気を纏っている。町を歩く人達はコートやジャケットを着ていて、手袋をしてる人もいた。

「まだ寒いのかな」

 僕だけが長袖のTシャツ一枚という季節外れの恰好をしている。いつも絵美と出かけるときは一応気を遣って服を選んでいたが、今回はそうもいかなかった。

「はあーー……」

 人混みの中で深くため息をつく。吐いた息は白くもならずに消えていく。ここには僕の存在を感じる人はいない。


 一時間前。僕と絵美はいつも通り家で過ごしていた。

「健斗君、最近洗濯物畳むのちょっと雑じゃない?」

「え、そうかな」

 僕が畳んだ洋服の山を見て絵美が不満をこぼす。最近慣れてきたから気を抜いていたかもしれない。以前は自分でも酷いと思う出来栄えだったので、絵美に畳み方をレクチャーされて丁寧に畳んでいた。

「そうよ。それに掃除も」

「ごめんって。ちょっとサイトの更新の方に集中しすぎてたかも。でもその分閲覧数伸びてるし」

「それはまた別の話でしょ!」

 結構な声量で怒られた。そんなに悪いことか。納得がいかない。

「ケイちゃんの世話も水やりもしてるんだから、そのくらいで怒んないでよ」

「だってもう何日も我慢してたんだから」

「ならもっと早く言って」

 徐々にヒートアップしていく。だめだと分かっていても止まらなかった。

 やがて絵美が諦めたように寝室に向かう。ばたばたと音を立てながら出かける支度をしている。

 その音を聞いて、僕は何も言わずに外へ出た。


 それから一時間以上、あてもなく歩いている。同じところをうろうろしているので、見えていたら不審者に思われただろう。

 口論になったのは久しぶりだ。少なくとも死んでからは初めてのことだった。昔はもっとよく喧嘩して、今みたいに僕が出ていっていた。それでほとぼりが冷めた頃に戻って謝る。そうしたら絵美も謝って、それで終わりだ。

 分かっていてもなんとなく足が家に向かなかった。スイーツや花でも買っていければもう少し気が楽なのに。今ほど人と話ができないことを悔やんだことはない。多少なりともお金は稼いでいるのに買い物が出来ないなんて。

 近くのビルに入って壁掛け時計を見る。もう夜の九時だった。二人で毎週見ているドラマが始まっている時間だ。

 そう思うとなんとなく気が軽くなった。手土産は無いが、さっさと仲直りして一緒にドラマを見よう。

 家に向かって飛んでいく。さっきまでの歩いているときより早かった。


「ただいま」

 家に着いて、一応玄関から中に入る。返事はない。うっすらテレビの音だけが聞こえてくる。家の中は真っ暗だった。どこか出かけてしまったのか。廊下を抜けてリビングへ向かう。

 リビングではテレビがドラマを映している。だが絵美はそれを見るでもなく、椅子に座ってテーブルに肘を置いて、頭を抱えた姿勢で固まっていた。

「絵美」

 隣に座って声をかける。ピクっと動いてゆっくりと顔を上げた。

「あ……」

「ごめん」

 ほっとした顔で僕を見る。目にはじわじわと涙が溢れていた。

「健斗君、よかった。まだいてくれた……」

「うん、いるよ」

 肩を抱いて落ち着かせる。絵美は涙を拭いながら話した。

「もう、いなくなっちゃったかと思った。家の中のどこにもいないから。いつもみたいに外に出ただけだって思おうとしても、もう見えなくなっちゃったんだったらどうしようって。外を探してもいなかったらって思うと動けなくて」

「勝手に出ていってごめん。それから、ちゃんとしてなくてごめん」

 いつも通りの喧嘩だと思っててごめん。そんなことまで考えてたのに気づかなくてごめん。

 自分が当たり前の存在じゃないんだと改めて実感した。いつ見えなくなってもおかしくない、今が異常な状態なんだ。絵美はずっとその不安を抱えていたんだ。

「いいよ。私も、小さいことで怒ってごめん」

 泣きながら笑って謝る。

「ねえ、初めて喧嘩したときのこと覚えてる?」

「え、うーん……、なんでだったかな」

 絵美が突然昔のことを聞いてくる。少し考えてみたが思い出せない。なんとなく、その時もすごく小さいことだった気がする。

「健斗君、私が録画してたドラマ消しちゃったじゃない。まだ見てなかったのに」

「あー……。そうでした」

「その時も私が怒って出ていこうとしたら、いつの間にかいなくなってて」

 思えばその時から、喧嘩したら僕が出ていくという流れができたのだった。

「あの時、私が出ていかなくていいように気を遣ってくれたんだよね。夜遅かったから、女一人で出歩かなくて済むように」

「さあ、どうだったかな」

 図星だったのではぐらかす。でも絵美が言いたいことはまだあるようだった。

「あれから喧嘩するたびに私が出ていこうとして、その前に健斗君が出ていって。前はそれでもよかった。でも、今はもうやめて。ずっと家にいて。消えちゃったのか愛想を尽かされたのかも分からずにお別れなんて、絶対嫌だから」

「……うん、分かった。でも絵美も夜中に出ていくのはやめてね。顔が見たくないときはせめて部屋に篭るとかにして。なんなら僕がベランダに出るんでもいいから」

 喧嘩はやめよう、とはお互い言わなかった。今まで何度も言って、何度も破られた約束だから。そんな言葉より、喧嘩しても仲直りするための、また一緒にいるための約束をしよう。

 テレビでは、ドラマのエンディングが流れていた。




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