第150話 『Close Cooperation』
空中庭園に吹く風は、木々を揺らし、虫の声と相まって優しい旋律を奏でている。
都会では見られないような星の数々と月光が、二人の座るベンチを照らしていた。
徹也は葉月の頭の上にそっと手を置く。
「なぁ葉月ちゃん、見てみ、月が綺麗だ。だから……今汚れちまった心をさ、洗い流してよ。頼む」
徹也は葉月の後ろから手を回し、ハンカチで顔を覆っている腕を、そっと下に降ろした。
「ほら、そっち見ないから。空を見上げてみて」
徹也は葉月の脇に置いたミルクティーをに手を伸ばし、そのキャップを開けて彼女の手を取り、握らせた。
そして自分もプシュッと音を立ててサイダーのボトルを開けると、それを
そのサイダーの味と空を見上げる角度、そして傍らに感じる彼女の存在は、初めて会ったあの花火大会の日を思い出させた。
色とりどりの鮮やかな花火ではなく、今空に浮かんでいるのは静かで美しい月だったが、それはまるで徹也の中においての葉月の存在と通ずるものがあった。
今ここにある彼女の心を守りたいという気持ちは、ひょっとしたらもうあの時すでに芽生え始めていたのではないかと思えた。
そしてそのぼんやりと湧いてくる気持ちが少しずつ形を変え、自分の心をじわじわと占領していくのを感じる。
その肩に手を伸ばそうとして、徹也はハッと気付いた。
彼女が流す涙の理由が、自分ではなく隆二であるという事実に。
その瞬、何かが自分の心に深く突き刺さったような感覚がした。
前はそんなに痛みを感じることもなかった。
小さな
それが今、大きくなってきている事に脅威を感じ、徹也は息を呑む。
その思いもよそに、葉月の様子は幾分落ち着いてきたように見えた。
手元のミルクティーも半分ほどに減っている。
月明かりに照らされた葉月の艶やかな髪が、風にそよいでいる。
徹也がそっとその肩に触れた。
「もう時間も遅いから、部屋に戻ろう。立てる?」
「……はい」
さっきよりほんの少し芯を感じる声が聞こえて徹也はホッとした。
彼女の肩を支えるようにそっと立たせると、葉月は少し恥ずかしそうにしながらも、自分から徹也の方を向いた。
ぱっと見上げた顔が、あの花火大会の夜の色とりどりの光に照らされた時の彼女の顔と重なった。
「ごめんなさい」
徹也はふうっと息をつく。
「なぜ? 謝ることなんてひとつもないだろう」
「でも私……こんなになっちゃって」
「誰だってあんなこと聞かされたら驚くだろうよ」
「でも私……」
なぜそこまでショックを受けたんだと、一体どういった気持ちが君の中にあるんだと、思わずそう問い詰めそうになって、徹也は慌てて飲み込んだ。
「気にしなくていい。さあ帰ろう」
「ありがとう……ございます」
徹也は葉月を入り口に促すと、扉を開けて、彼女に寄り添うように 建物の中に入った。
彼女の後ろで扉を閉めた時、前方から声が聞こえた。
「葉月?」
その声に、葉月はミルクティーとハンカチを握りしめたまま立ち尽くす。
顔を上げた徹也は、葉月の青ざめた顔を見て、遮るように彼女の前に立ちはだかった。
「ユウキ……」
裕貴は
「鴻上さん? そんなところで何してたんですか? っていうか……葉月、もしかして泣いてる?」
「ユウキ、ちょっと待て。これは……」
そう言って立ち塞がる徹也の肩越しに、裕貴は葉月に問いかけた。
「葉月! なんで泣いてるの?」
裕貴はそう言うと、今度は徹也を見据える。
「鴻上さん! これはどういうことですか!」
「違うの……ユウキ」
その言葉はあまりにもか細くて、裕貴の心配を更に増幅させた。
「一体何があったんですか? 説明して下さい! 鴻上さん」
徹也は葉月の耳元で囁いた。
「葉月ちゃん、一人で部屋に帰れる?」
葉月はこっくりと頷いた。
「ちょっと待てよ葉月!」
そう言って葉月を止めようとする裕貴の腕を、徹也は掴んで阻止した。
「ユウキ、聞いてほしい話がある。こっちに来てくれ」
葉月がエレベーターホールへ消えるのを二人で見届けてから、もう一度中庭の扉を開ける徹也に、裕貴はついていった。
同じベンチに座り、一通り話し終えた徹也の横で、裕貴は空を見上げる。
「……話は分かりました。あの……さっきはすみませんでした。ボク、誤解しちゃって」
「無理もないだろう。俺だって逆の立場なら、同じように問い詰めてただろうよ」
徹也は頭の後ろで手を組んだまま、ぐっとベンチにもたれた。
月の位置が変わっている。
そして、さっき視野の左端にあったはずの姿が、葉月から裕貴に変わっている状況をぼんやり眺めていた。
「美波と
「
「そうだろうな」
「そこまでの悪意に満ちた感情がすぐ近くにあって、自分の家族を
「だな。俺だって薄々気づいてた事だったが、あそこまでとは……光一さんのことも心配になるよ。俺は光一さんには学生の頃に世話になっててさ、憧れの兄貴だったんだ。めちゃめちゃいい人でさ。そんな人が山野美里なんかと……リュウジも本当に兄貴を慕ってたんだ。だからやりきれないだろうよ」
二人は同時に溜め息をついて、
「鴻上さん、今夜はリュウジさんと約束してますよね? リュウジさん、鴻上さんから話があるって言われたから帰らずにここに宿泊する事にしたって、言ってたんですけど」
「ああ。この後、会って話すことになるだろう。もちろん『
「ですね。今日の事は言えないでしょうし」
「ああ。ましてそこに葉月ちゃんがいたなんて……言えるはずもない。アイツを更に傷付ける事にもなるしな」
「そうですね……」
「ユウキ、お前はどうするんだ? 知らないふり、するのか?」
「ボクは、美波さんからちょろっと聞き出したっていう前提で、"義理のお姉さんはなんだか厄介そうですね" って感じの話まではすると思います。でなきゃ、リュウジさんはひた隠しにするから……
徹也は感心したように、まじまじと裕貴を見た。
「ほう。全く、出来た付き人だな」
「あとは……」
「なんだ?」
「リュウジさんがボクに真相を話すかどうかですね。もちろん本人に話して欲しいですけど、もし話せないようなら、かなり重症ってことになりますね」
「……おい、なんだか怖いな、この出来過ぎの付き人は。下手に秘密も抱えられない。お前を敵に回したくないよ」
徹也は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「褒められついでに言わせてもらいますが、葉月のフォローはボクに任せてください。ボクだって、さっき美波さんからその事実を聞かされたばかりで、そして今、鴻上さんから核心を聞いて驚いてるわけで……こう見えて複雑な思いを
「そっか……わかった」
徹也はさりげなく裕貴の打ってきたジャブに眉を上げる。
「なぁ、一つ聞いていいか、ユウキ」
「ええ、何ですか?」
「お前がさっき俺に突っかかってきたのは、当然誤解があってのことだろうと思うが、それはどういった誤解なんだ? なぜそう思った?」
裕貴はしばらく
「それは……葉月の心が鴻上さんに揺れていると感じていたからだと思います」
「は? 俺に? リュウジじゃなくて?」
「ええ……葉月自身、まだよくわかってないかもしれないですが。葉月の心にはリュウジさんがいるように見えます。でもボクには、同時に鴻上さんの姿も見えるんですよ。葉月はご存知のように真っ直ぐで天然な人間なので、自分の事には特に鈍感なところがあるでしょう? 時間をかけないと葉月はきっと解決できない問題なんだと思います。でもその時間を急かすようなことがあれば……その相手がリュウジさんであれ、鴻上さんであれ、葉月は戸惑って、答えを出せないことで自分を責めるんだと思います。さっきは、その局面が来たのかと、一瞬思ったんだと………」
「それは、俺が葉月ちゃんを強引に……とか?」
「もちろんその可能性も、よぎりましたけど……」
「おいおい、俺はそんな……」
「すみません。今はボクも冷静さを取り戻したんで、理解できますよ。葉月にBOSS風吹かしてるのも、"ビジネスドS"も、鴻上さんの茶目っ気ですもんね。そこら辺は、リュウジさんと変わりませんし」
「あ……あはは、なんか俺、散々ディスられてる気もするが……」
裕貴がにっこりと笑顔を返す。
その通りだと言わんばかりの表情に、徹也は眉をひそめておどけたように睨みつけた。
「まぁ……少々納得いかない解釈も所々あるような気も……しなくはないが、まぁ理解してもらえて嬉しいよ、ユウキ」
「信頼してますよ」
その言葉が念押しのように聞こえた。
たいしたヤツだと感服しながらも、一歩踏み込んでみる。
「なぁ、まるで葉月ちゃんのマネージャーみたいに随分と友達思いだが、ユウキ、その心の中にさ、もやもやした感情は生まれてないのか? こんなこと言うのは申し訳ないが、お前ほど若い男が、同い年の彼女を父親のような目で見ることなんてできるのかって、単に疑問に思っちまってさ」
裕貴はまるで深呼吸するかのように溜め息をついた。
「リュウジさんと鴻上さんが上がってるリングに参戦するだなんて……そんな負け試合をボクがするとでも?」
「するんじゃない? 男なら」
裕貴は肩をすくめて首を横に振った。
「まっぴらごめんですよ。それでなくてもうちのBOSSは面倒極まりない! これから大切な事があるのに、こんな大きな問題も抱えて……もう勘弁してもらいたいですね」
「ははは、そっか。愚問だったか、悪かったな。いや、確かにこれからが大事な局面だもんな。あ、そういやぁユウキにも電話が入ったんじゃないか? トーマから」
「ええ、ありましたよ。葉月が横に居る時にね。トーマさんからの電話だと気付いて、分かりやすくポッとしてましたけど」
「ん? なんで葉月ちゃんがポッとするんだ?」
「ええっ! 知らないんですか? 葉月は昔から熱狂的なトーマファンなんですよ。フェスの時なんて、生トーマを近くで見て失神しかけて、大変だったんですから!」
「え……そんなにコアなファンなのか……」
「そうですよ、なんならリュウジさんも鴻上さんも、トーマさんには勝てないかもしれませんよ」
「おい、そうやって
「あはは、バレました? 冗談はさておき、鴻上さんもトーマさんに急かされてるんじゃないですか?」
「あ……いや、トーマは人がいいからそうは言わないけどな。まして今回は俺ん
「じゃあ今夜は、リュウジさんには、どこまで話します?」
「こうなったら種明かしは現地に行ってからって事にして、とりあえず口実つけてでも来週にはアイツを事務所に連れて行くさ。首根っこを掴んででもな」
「へぇ、強引ですね。鴻上さんらしからぬ発言だ」
徹也はまた頭の後ろで手を組んで、空を仰いだ。
「ここ数年、アイツが『エタボ』でどういったポジションで、どういったポテンシャルで活動をしてきたか、俺はずっと見てきたんだ。ま、それを本人には明かしてなかったけどな。そんな『エタボ』リュウジを見てきた俺としてはさ、アイツが正式メンバーにさっさと片付いてくれりゃいいのにって……ずっと思ってた」
「気持ちはトーマさんと同じって事ですね」
「そうかもな」
「分かりました。じゃあ今週中にうまく調整して、来週には決行っていう方向で行きましょう!」
「心強いなユウキ。お前さぁ、ホントは何歳なんだ? 俺たちよりずっと年上だろ?」
裕貴はあからさまに嫌な顔をする。
「うわ……鴻上さんまでそんなこと言わないで下さいよ! 前途ある青年を捕まえて」
「あはは」
その時、徹也のスマートフォンが鳴った。
二人は顔を見合わせる。
「リュウジさんじゃ?」
「ああ」
「行ってください。ボクは葉月の所へ」
「頼んだ。あんまり深掘りしないでやってくれ」
「ええ、ご心配なく」
「頼りにしてるよ」
二人は中庭から館内に入り、それぞれ別の方向を向いた。
少し歩いて、徹也は裕貴を振り返る。
「葉月の心が鴻上さんに揺れているように見える」
そう言った裕貴の言葉が、いつまでも徹也の耳の奥に残っていた。
第150話『Close Cooperation』- 終 -
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