第149話 『Sister-in-law』

天井まで切り立った窓から薄暗い店内に差す月明かりに照らされたグラスのなかで、氷が小さく音をたてる。

窓から見上げた星たちは、その月と共に少しその位置を変えていた。

裕貴は二人の顔を見ながらようやくグラスの中身を流し込む。


「リュウジさんがいつになくおかしな態度だったんで……ボク、ずっと心配してましたから。むしろ、当人の問題というよりは、掻き回されてるだけなんですよね? なら、まだ良かった」


そう言って改めてグラスをあおる裕貴の横顔を見ながら、美波は少し意味ありげに言った。


「あら? そんな一筋縄でいくのかしら? 今回こうやって二人が再会したことで、またあのヘビ女の熱が再燃しないか、私はかなり心配だけど」


「脅かすなよ姉ちゃん!」


そう言う琉佳ルカを、美波は真顔で見つめ返す。


「いや、これが冗談にならないほどの女なんだって! ねぇユウキくん、気をつけて見ててあげて」


「わかりました」


「今日の姉ちゃんの話しは怪談よりも恐ろしいよな。寝られなくなりそうだ。さぁ、気をとりなおしてさ、乾杯しようユウキ! お互い、厄介な ボスを持つ者同士でさ!」


酔いの回った琉佳の割れんばかりの乾杯に苦笑いしながら、裕貴は隆二の無機質な横顔を思い出していた。


 ◆ーー◆ーー◆ーー◆ーー◆


階下では、静かな攻防戦が巻き起こっていた。


葉月が隆二との偶然の遭遇に喜んだのも束の間、予期もしなかったとんでもないシーンが、無機質な自販機の並んだ空間で繰り広げられている。


その傍らで身を隠しながら、話を聞かざるを得ない状況下にある葉月が、その不穏な空気に不安をつのらせていた。


「あはっ、隆二! ようやく私のこと見てくれたわね」


隆二は嫌なものでも見たかのように、また顔を背ける。


それを目撃して、葉月はさらに身体を固くした。

そんな隆二の顔を見たのは初めてだった。


「俺に話しかけるな!」


「どうして? 義理の姉弟なのよ、話したって不思議はないわ」


「そんな風に思ったことは一度もない」


「あら、私がこんなにあなたを大切に思っているのに?」


「そもそもなんでお前なんかが……この家にいるんだか」


「あはは、同感! ほんとよね。人生何があるかわからないわ」


その時、急に誰かに後ろから肩を掴まれて、葉月は大声で叫びそうになった。

葉月は即座に自分の口を押さえ、振り向く。

どうした?と言い出しそうな徹也の顔を仰ぎ、慌てて口の前に指を立てて首を振った。

葉月の肩越しから二人の姿を見つけた徹也は、驚いた顔をして目を見張る。

そして葉月に目を向けるとわかったというように、何度も小さく頷いた。



「お前……汚い手を使ってこの家に入ってきたくせに、身内ヅラすんな」


「やだわ、人聞きが悪い」


「お前なら、なんだってやりかねない」


声を殺した葉月は、驚愕の表情のままそっと徹也を見上げた。

そこにある彼の苦渋に満ちた表情から、隆二とその兄嫁との間にただならぬ関係があり、そして更に、それについて徹也が何かしら知っているのだと悟った。


「だったらそう思っていればいいわ。まぁ、でも……おそらくあなたが想像している通りよ」


「……なんだと! お前、兄さんのこと……」


「光一さんはいい人よ。ちゃんと親の言いつけも守るし、きっと私にも何不自由のない生活をさせてくれるだろうし」


「だったらお前は兄さんの事だけ見てりゃいいだろ」


その言葉に彼女は首をすくめてニタッと笑った。

「ええっ? ムリよ、すぐ近くにあなたがいるのよ」


葉月の肩が震えた。

それに気付いた徹也は、そっと手を掛ける。


「は? 関係ない」


「あなたがいるのに、あなた以外のオトコを見ろだなんて! 出来るわけないじゃない」

美里は笑いながら小首をかしげて見せた。


「何を言ってる。結婚してるんだろ」


「私は光一さんと結婚したんじゃなくて、水嶋家と結婚したの。それもあなたの側に居るためにね」


葉月の息が上がってきていることに気づいた徹也は、葉月の肩をがっちりと抱きしめた。


「お前……何を……」


「さすが兄弟よね、彼はあなたにとても似てるのよ。顔もカラダもよ。だから続いているのかな?」


「なにを……」


「隆二、あなたへの思いをこれからもずっと黙ってるって、私、結婚式の日に言ったじゃない? けど……ごめんなさい、黙ってられる自信がないわ」


「何を……もう何年も兄貴といるだろ!」


「そうなんだけどね、私いつか言ってしまいそうなの。私が好きなのはあなたじゃなくて弟の隆二だってね」


葉月の小刻みな息遣いを感じた徹也は、葉月を振り向かせた。

見上げる葉月の目は潤み、その頬には恐怖感が満ちている。

表情を歪めた徹也は、葉月を胸に引き寄せると、強く抱き締めた。


「お前! いい加減にしろ!」


「光一さんはもう気づいてるんじゃないかしら?」


「なに……」


「私、寝言であなたの名前呼んでるかもしれないでしょ。それだけじゃないわ、彼に抱かれてる時も間違えてあなたの名前を口走っちゃってるかも」


「やめろ!」


隆二の手から缶コーヒーが滑り落ちて派手な音を立てた。


「ねぇ、もう何年我慢してると思ってるの。私は良い妻を演じてきたわ、でもそれは全部あなたの為なのよ」


「……俺の為だと? なら俺の前からも水嶋からも消えろ」


「ったく、なんにも見えてないのね。まるであの頃と一緒。小さなボールを追いかけるだけの毎日を送っていたあなたと寸分変わらないわ。ま、そこがまた、たまらないんだけど」


美里は隆二に向かって手を伸ばした。


「ねぇ、隆二」


隆二はその手を、虫けらのように振り払う。

「頭おかしいんじゃないのか。俺がお前なんか相手にするはずないだろ」


「そんなこと言ってられるのも今のうちよ。私が何をやっても、私の実家の力で水島家とはつながっていける。ねぇ隆二、好き勝手やってるあなたはいつかあの家で不利になる日が来るわ。その時には私の力が絶対に必要になる。そんな時期が来るのよ。それまでは息を潜めて、あなたをあなたのそばでじっと見てようって思って、毎日過ごしてるの。いつか隆二の横に並んで立つ日が来るから、私、頑張ろうと思って!」


「お前……一体なにをたくらんでる!」


「うふふ。楽しみにしてて隆二」


「もうやめろ! 俺に関わるな!」


「あ……そういえば! 隆二、光一さんの元カノと……」


「なんでお前がそんな話!」


「音楽家のあの彼女、隆二にハマっちゃったのよね? あ、逆かしら? あなたが彼女を? 光一さんが知ったらショックだろうな……自分が昔から付き合ってた彼女と、可愛い弟が寝まくってたなんて知ったら……」


「やめろ! そんな言い方……」



「聞かなくていい」

その囁きは徹也の胸を伝って、葉月の鼓膜に届いた。

そう呟いて、徹也は更に葉月を強く抱き締め、その耳を塞ぐ。

触れたその頬がしっとりと濡れていて、徹也はまた顔を歪めた。



「あら? 正当化するつもり? なに、まさか兄貴と別れた後だから、とか、その傷心を癒すためだ、とか言うつもり? あなた本当は、お兄さんと付き合っている時から彼女のことが好きだったんでしょう? だからすかさず彼女を奪い取った。本当は良かったって思ったんでしょう! 私に感謝もしたんじゃないの? 彼女と念願のベッドインもできたわけだし」


「いい加減にしろ!」


「ずっと彼女の家に入り浸ってたってこと、私が知らないとでも思った? ずっと見てたんだから! ずっと我慢しながらね! 悔しかったわ! でも、そんな傷の舐め合いの関係なんて、どうせ続かないって分かってたからね。まともな精神の持ち主のあなたが、いつまでも そんな背徳心を抱いて彼女と付き合うなんて、どうせ出来っこないってね。ね? 私、あなたのことなら何でも分かってるでしょ! さぁどうする? お兄さんにその事実、伝えようか?」


「……」


「そうね……私が伝えるなら、光一さんと彼女が付き合っている時からの関係って言ってもいいんだけど?」


「なんだと……」


「これなんかどう? 恋人と弟はずっと前から自分を裏切っていた。弟はずっと兄が別れてくれるのを望んでいた……とかね? もし光一さんがそう思ったら、ショックよね?」


「……やめろ、事実無根だ」


「あら、そんなの何度でも作り替えられるんだし、私が話したら光一さんは私を信じるわよ? つまり! 私次第でこの家はどうにでもなるの!」


「お前……」


「だからよ! だったらあなたも私を抱いて私の弱みを作ればいいじゃない! そうすればちゃんと共犯者になれて、私に脅かされずに済むのよ? 私はあなたと結ばれればそれで満足なんだし!」



葉月は嗚咽を必死で押さえ、泣き続けていた。

そんな彼女を徹也はその腕にしっかり抱き締めて、もう一方の大きな手のひらで彼女の耳を覆う。

これ以上、こんなドロドロした話を、もう葉月には聞かせたくないと思った。



「お前……狂ってる」


「そうよ、狂ってるわ! でなきゃこんな結婚するわけないでしょ! あなたのそばであなたの兄に抱かれる日々よ、それも何年も。私が平気だとでも?」


「……たくさんだ! 感情が腐ってる」


「いいわ、今はどうとでも思ってて。そのうちきっとあなたは私のことが必要になるから。その時まで黙って見ててあげる。さあ! それじゃあ貞淑な妻を演じるとするわ。今夜もあなたを存分に思いながら、彼に抱かれてあげる。楽しかったわ、弟の隆二くん。次はもっと秘密の場所で会いたいわね」


彼女はニヤリと笑って、壁にもたれた隆二の腕に触れた。


隆二がそれを思い切り振り払うと、美里は異様な笑い声を残したまま部屋から出ていった。


隆二はそのまま背を向けると、握った拳で思いきり壁を殴り、頭もゴンとぶつけたまましばらく動かなかった。



徹也の腕の中で、葉月は息を殺したまま幾筋も涙を流していた。

徹也がその耳を押さえるも、おぞましい女の声は全て葉月の耳に届いていた。


徹也は葉月の頭に顎を乗せたまま髪を撫で、少しでも彼女が落ち着くように背中をさすりながら、更にその腕に力を込めた。



急に息を吹き返したように、隆二は身を起こし、大きく息をつく。

そして大きなストライドで部屋を出ると、美里とは逆の方向に歩き去った。



「葉月ちゃん……」

抑えていた耳の上の手をそっと外した徹也が声をかけた。

しかし葉月は、胸に顔を埋めたまま動こうとしなかった。


やがて葉月は、肩を震わせて声をもらしながら泣き始める。

優しくその背中をトントン叩きながら、徹也は天井を見上げた。


「とにかくここを出よう。あ……ちょっと外の空気を吸おうか」


そう言って徹也は人気ひとけのないことを確認すると、葉月の体を支えたままエレベーターホール近くの中庭の扉を開けた。


ふんわりとした風と共にコロコロという虫のが辺りに響いて、早くも秋の到来を匂わせた。

徹也は葉月の肩を抱きながら誘導し、見事な庭園の片隅にあるベンチにそっと座らせる。

ポケットから出したハンカチを彼女に手渡した徹也は、自販機のコーナーに戻り、彼女と初めて会った花火大会の日に彼女が手にしていたのと同じミルクティーと、彼女が自分にくれたサイダーを買った。

隆二がもたれていた壁を一瞥いちべつし、徹也は葉月が待つ中庭へ急いだ。


風が木々を撫でるさわさわした音が聞こえるその風が濡れた頬を乾かそうとするも、葉月の瞳からは幾重にも涙が溢れ、それを阻止していた。


徹也は葉月の隣に座り、ミルクティーをそっと彼女の横に置いた。

そして、泣き顔を覗くこともせずベンチにもたれ、後方から言葉を発する。


「なんで泣いてるのか、自分でも分かんないんだろう?」


葉月はこっくりと頷いた。


「心が汚れちまったな。とんでもないこと聞かせる羽目になった……ごめんな」


葉月はハンカチで顔を覆ったまま、何度も首を横に振った。


徹也はその細い肩を見つめ、葉月の後ろに回り込んだままぽつりぽつりと話し始める。


「あいつは山野美里。俺の高校の同級生だった……」


言葉を選んでなるべく刺激を与えないように、徹也は注意しながら話した。

それでも時折、彼女の肩にグッと力が入るのか分かって、思わず手を伸ばしそうになるのを押さえ、さらに淡々と話を続けた。


「俺の口から葉月ちゃんにこんな事を話すのが果たして正しいことかって……俺もそうは思うが、あそこまで聞いちまった限りは、もうちゃんと知ってた方がまだマシかなって思ってさ。リュウジにも聞けないだろう。なぁ、どうする? 葉月ちゃんが望むなら、このことを葉月ちゃんが偶然知ってちまったって……俺からリュウジに伝えてもいいが……」


葉月は今度は大きくぶんぶんと首を横に振った。


「だよなぁ……まぁ確かにアイツだって葉月ちゃんに知られたくないと思うだろうけどさ。でもそれよりも、葉月ちゃんが今のこの気持ちを隠してリュウジと接するのが辛いだろうってことの方が、俺は心配なんだけどな」


「大丈夫……です」

その声は辺りをおおう虫のにすらかき消されるほど、か弱いものだった。


第149話『Sister-in-law』- 終 -

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