第151話 『To enter a room』
徹也と分かれた裕貴は足早にそのまま下のフロアに向かい、葉月の部屋のインターホンを押した。
すぐに反応がなく心配になってドアに手をかけた時、カチャリと扉が開いて葉月が顔を覗かせた。
「ごめん、ちょっとお風呂入ってたから……」
そう言って葉月は濡れた髪のまま大きくドアを開けて裕貴を招き入れた。
「なに飲む? ああ、愚問だった! コーラあるよ。私もお風呂上がりだし久しぶりにコーラ飲んでみようかな」
葉月は冷蔵庫からコーラを取り出してグラスを二つテーブルに置くとタオルを髪に当てながらまた話し出す。
「お風呂上がりにはちょうどいいもんね。なんか、炭酸飲むの久しぶりだな! 前はさぁ……」
「葉月」
無理に明るく振る舞っているように見える葉月に対して出た裕貴の言葉には、少し重みがあった。
「なに? ユウキ」
「あ……あの、ほら! 先に髪乾かしてきなよ。クーラー効いてるし、風邪引くといけないからさ。勝手にコーラもらっとくから」
「うん……わかった」
葉月は髪にタオルを押し当てながらバスルームへ入っていった。
ドライヤーの音を聞きながら裕貴は溜め息をつく。
正直、どう切り出していいか、わからなかった。
「暑っつ!」
頬を上気させながら戻って来た葉月は、笑いかけるようにして裕貴の前に座った。
「待っててくれてたんだ? 先に飲んでてよかったのに。あ、コーラじゃなくて、お酒の方が良かった?」
「いや、あの後スカイラウンジでけっこう飲んだから、お酒はもう」
「そっか。私もね、お酒飲もうって話になって……それで……氷を取りに……そしたら……」
スッと笑顔が消えた葉月が俯いた。
「葉月……」
葉月は俯いたまま、返答しなかった。
「鴻上さんからちゃんと聞いたよ。実はさ、それまでにスカイラウンジで、美波さんとルカさんからリュウジさんの義姉にあたる同級生の人の事を聞いてたんだ。だから鴻上さんからさっきの話を説明してもらって、すぐに把握できた」
葉月は俯いたまま頷く。
「そっか。私も……頭ではわかったつもりなんだけど……」
「驚いただろうな。鴻上さんも心配してたよ。"葉月ちゃんの心が汚れちゃったから苦しんでるんじゃないか" って」
葉月は左右に首を振る。
「ううん、リュウジさんと比べたら私なんて大したことないよ。リュウジさんの……あんな苦しそうな顔……」
そこまで言った葉月の目から、大粒の涙がボタッと落ちた。
「やだ……」
葉月は更にうつむく。
「私が泣くなんてお門違いもいいとこなんだけどね。でも、あんなリュウジさんを見たのも初めてで……びっくりして怖くて、それに……」
「分かったよ葉月、無理しなくていい。気持ちがもやもやしてるんだろう。自分でも分からないけど、悲しいんだよな?」
裕貴は椅子を寄せて、葉月の肩をさすった。
彼女から立ち
「……鴻上さんは?」
「あ……ああ、今たぶんリュウジさんと会ってると思う」
「……そう」
裕貴はキャビネットに手を伸ばし、ティッシュを取って、葉月に持たせた。
「あの二人は幼馴染みだからさ、大丈夫だと思うよ」
「……そうよね」
葉月は顔を拭いながら、そっと視線を上げた。
「葉月、明日はどうやって戻るの? うちの車で一緒に帰る?」
「あ……明日は『Fireworks』 の皆さんと一緒のバンに乗って帰るつもりなの」
そう言いながら、葉月は気丈な表情を見せる。
「そっか。それって、鴻上さんと一緒……ってこと?」
「ううん。鴻上さんは美波さんと一緒に朝から九州に行かなきゃいけないみたい。もともと今日から出張の予定だったの」
「そうなんだ」
「うん。ユウキ、ついさっきルカさんから連絡が入ったの。会社に戻ってからスタッフ全員で軽い食事会しようって。ユウキにも連絡したみたいだけど……」
裕貴はポケットからスマホを出して確認する。
「あ……ホントだ、メールが来てる」
「ルカさんが、ユウキもスタッフの一員だから誘っといてって」
「それは嬉しいお誘いだけど……明日はボク、『Blue Stone』に入ることになっててさ……仕込みもあるから……」
「あ……そっか」
「うん。ボクからルカさんに連絡いれとくよ。お礼も兼ねてね」
裕貴が微笑むと、葉月も明るい表情で頷いた。
「葉月さ、その食事会の後で『Blue Stone』に来れない?」
「え?」
「疲れてるかな? あ……リュウジさんは取材と収録が入ってて関西に行かなきゃならなくてさ、明日の昼間には空港に送って行くんだ。しばらくは不在だから……」
そう言って裕貴は葉月を見つめた。
「……来れる?」
裕貴の気遣いを感じて、葉月は幾分明るい口調で応えた。
「うん、行く。明日は仕事がある訳じゃないから大丈夫、疲れてないよ」
「そっか。じゃあ待ってるね。食事会で飲みすぎるなよ。すっかり出来上がってから来られたりしたら、迷惑だし」
「ひっどーい! なによそれ」
裕貴は意地悪な視線を葉月に向けた。
「まさか酔っ払った記憶もないとか言わないよな? フェスの時に行ったファッションモールで……」
葉月は慌てて両手を振る。
「あーわかったわかった! その節はお世話になりました。醜態を……晒しました……」
「あはは。とかいってあの時の事、あんまり記憶にないんだろ? 違う?」
葉月はばつが悪そうに片目を
「うん……後からユウキとアレックスさんに聞いただけで……」
「あはは! 思い出しただけで笑えてくる」
「もう! ユウキ!」
「だってさ……葉月の天然、炸裂してたし」
「もぉ!」
「アレックスさんの母性も凄かったけどね。あのショッピングがきっかけで、アレックスさんと仲良くなったんだもんな?」
「うん、すごく楽しかった。アレックスさん、ホントに素敵な人で……どうして私にあんなに優しくしてくれるんだろって思うくらい!」
葉月の顔は、すっかり明るさを取り戻していた。
「じゃあそろそろ部屋に戻るよ。明日はボクたち早いから、朝は会わないままここを出ると思う」
「そうなんだ……」
「うん。じゃあ明日『Blue Stone』で待ってるね。早く寝ろよ」
「うん」
ドアの外に出た裕貴が振り向いて言った。
「葉月、さっきの話だけどさ」
「ん? さっきの話って?」
葉月が不思議な表情をした。
「アレックスさんがどうして葉月に優しいのかって話だよ」
「え? うん、どうして?」
「犬」
「え、犬?」
「そう。昔飼ってた犬に似てるんだってさ。じゃあ、おやすみー!」
そう言って裕貴はドアを閉めた。
「ちょ、ちょっと! ユウキ……」
葉月は慌ててもう一度ドアを開けて廊下の裕貴に目をやる。
裕貴は後ろ姿のまま、手を振ってゆったりと歩いていきながら、もう片方にあるスマホを耳に当てていた。
「もう! 犬ってどういうこと! またからかうんだから……」
そう呟きながら、葉月は静かにドアを閉めた。
「ありがとうユウキ。心配して来てくれて」
葉月はもう一度、扉に向かって呟いた。
◆ーー◆ーー◆ーー◆
「もしもしリュウジさん、すみません出られなくて。いえ、シャワー浴びてて……今ですか? 廊下に。あ……氷を……取りに来たんですよ。自販機コーナーです。え? 知りません? 自販機コーナーにあるんですよ、製氷器が。……ああ、鴻上さんも一緒なんですね、そうですか。いえ、ボクは。親友同士、水入らずでどうぞ。明日は早いですから、あんまり深酒しないで下さいよ。ええ、朝食はロビーのコーヒーラウンジですね、バイキングらしいです。じゃあ直接コーヒーラウンジで。はい、では六時半に。おやすみなさい」
スマホを下ろすと、裕貴は大きく息をついた。
「ボクは何がやりたいんだ? なんで氷だとか自販機コーナーだとか、言っちゃったんだろ。リュウジさんは被害者なのに……」
部屋に戻った裕貴は、今度は本当にシャワーを浴びながら、浮かんでくる光景を何度もかき消した。
中庭の前で二人を目撃した時の渦巻いた気持ちの側にあった葉月の困惑した表情と、濡れた髪のまま無理して笑った葉月が俯いて流した、大粒の涙を。
第151話『To enter a room』- 終 -
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