第7話 『What Is His Identity?』

車がピタリと停まった。

「はい到着! 店の前じゃないから、ちょっと歩いてもらっても構わない?」


「あれ? ここ……どうしてですか?」

葉月はシートから起き上がるように、身体を持ち上げた。


「君は……全く! 外も見ないで男の車に乗って……大丈夫?!」


「外は見てましたけど、どうしてこのビルに入ったのかなって……すみません」


隆二は大きくため息をついた。

「さっきも言ったんだけど、聞いてなかったでしょ? ここ、俺ん家なの」


「え? このビルってマンションなんですか?」


「そうだよ」


「なんか、すごい豪華な建物だから、何かの施設かと思ってました」


隆二が後部座席から荷物を取って、ひょいと葉月に渡した。

「ここは店からも近いし、俺もほら、仕事の時には酒飲むからさ、車じゃ通えないでしょ?」


「だからって、こんなすごいとこ……」


「はいはい、とりあえず一階のロビーで少し待っててもらえる。俺、荷物置いて着替えてくるからさ。ね? 降りられる?」

隆二は、助手席側に回ってドアを開けると、葉月の手を取ってグッと引っ張りあげた。


「わぁ……ありがとうございます」


葉月は改めて車を眺めた。


「アストンマーチン?」


見たこともなかったようなスタイリッシュなこの車の右側の助手席に自分が座っていたのかと思うと、少し滑稽こっけいに思えてきた。

美しいフォルムのシートや内装を改めて眺めると、ますます気後れしてしまう。


「じゃあ行こうか。ほら、エレベーターに乗るよ」


「はい……」


隆二は一階のボタンと二十八階のボタンを押した。

階数ボタンは三十までで、二十九階には『PLAY ROOM』というプレートが、三十階には『SKY LOUNGE』というプレートが貼られていた。


天井の高い、美術館のような一階のロビーに一人で降り立つと、ひんやりと心地いい空気が身体を包み込んだ。


落ち着いた照明の中央にある、豪華なフラワーアレンジメントを囲むように、質の良い応接セットが何組か並んでいる。

その重厚な真っ黒のソファーに、葉月が心許こころもとなくちょこんと座ると、どこからともなくコンシェルジュの優しそうなお姉さんがお茶を運んできてくれた。

キョロキョロしながらお茶を飲み干す。


「……リュウジさんって一体ナニモノ?!」


そう呟いたとき、エレベーターが開いて、そこからいつもの隆二が現れた。


「お待たせ、葉月ちゃん」


「あ……」


隆二がため息をつく。

「なんか今日はどうしたの? バスケやってる時のハツラツとした葉月ちゃんはどこに行ったのかな?」


「えっと……ちょっと情報が多すぎて……」


「は? なんだって?」


「なんか、キャパオーバーなんです」


もじもじしながら話す葉月を眺めて、隆二はスッと顔を背けた。


「あ……ごめん。ちょっと笑っていいかな?」


「へ? 何ですか?」


「ヤバイ、葉月ちゃん。面白すぎる! クックック……」


隆二は豪快に笑った。


「ぷぁあはは! あー……楽しいよ。君といると」


「私は……なんかリュウジさんといると、夢の中にいるみたいです」


隆二は呆れたように両手をあげる。

「あのね! 普通そういうのは、俺が恋愛対象だった場合に使う言葉でしょ? 今君の頭の中は『エタボ』一色なんだろ? 俺、そんな当て馬みたいな扱いされること、今までになかったんだけど!」


「なんか、すみません」


「だから……振られたみたいな謝り方、やめてくれないかな! カナリ腑に落ちないんだけど! ふぅ……まあいいや、今日は色々楽しませてもらったしね」


「私も久しぶりのバスケ、楽しかったです」


また隆二が目を丸くする。

「いや、そういう意味じゃなくてね……ふふふ」

隆二はまた笑った。

葉月は小首をかしげる。


話をしながら歩いているうちに『Blue Stone』に到着した。


「さ、着いたけど……店の中は、最初はけっこう暑いんだよ」

そういって、隆二はパチパチと電気をつけながら階段を降りていく。

葉月はキョロキョロしながらその後についていく。

今日はこの階段ギャラリーも、いつもと違って見えた。

洒落たポスターが、自分に笑いかけているように見える。


「あ……ヤバい」

顔が火照っているように熱い。

明らかに上気している。


階下の中扉を開けると、漆黒の空間が広がっていた。


「ちょっとここで待ってて、転ぶといけないからさ」

そう言って隆二が、扉を開けたまま葉月を待たせて、小さなランプを点灯させた。


ランプに照らされた隆二の顔が、暗闇にほわっと浮かぶ。

綺麗だな……と、そう思った。

神秘的な絵のようで、惹き付けられた瞬間、照明がつけられた。


「あ……」


いつもの粋なジャズが流れ、エアコンのゴーという音が鳴り始める。


「はい、お待たせ! お客様、いらっしゃいませ」


そう仰々しく礼をして、隆二はカウンターチェアを引いてくれた。

カウンターを挟むと、いつもの隆二がそこにいる。


「さ、葉月ちゃん、なに飲みたい?」


「私は何でも。お任せしてもいいですか?」


「オッケー、いつものね! 葉月ちゃんはすっかり常連さんだなぁ」


「そんな……今日は一日中、私のこと、からかってますよね?!」


「おお、そうか! 一日中一緒に居たんだよな! もはやデートの領域じゃん?」


「またぁ……十人の食事会はデートですか?」


「確かに。十人なら〝会合〟だな」

いつもの笑顔で笑う。


「あー、よく喋ったから喉乾いたな。これからまだまだ喋らされるわけだし? しかも俺の話じゃないんだろ? ひっどい話だよな!」


「なんか、すみません」


「それ! やめてくれる!? あーあ、飲まなきゃやってらんねぇわ! とりあえずビールだな。暑いし」


そう言いながらも、隆二はなんだか嬉しそうだった。


ピカピカのオレンジを冷蔵庫から出して、小さな果物ナイフで器用に回しながら切ると、ハンドジューサーでぎゅっと絞り、リキュールを入れて軽快にシェイカーを振った。

カクテルグラスに注いで、コースターに置き、葉月の前にすっと滑らせる。


「お待たせしました。“ゴールデンデイズ”です」

なんともなめらかな動きだった。


そして隆二も細長いグラスにビールをなみなみと注いで、グラスを持ち上げた。


「それでは、麗神れいじん学園白石選手、社会人バスケクラブチームデビューに乾杯!」

二人はグラスを合わせた。


グラス置きかけると、隆二はまた音頭をとる。

「そして! 『Eternity Boy's Life』野音ツアーに、乾杯!」

隆二は二回の乾杯にしてグラスビールを飲み干した。


「どうしたの葉月ちゃん、なに? まさか今から緊張してるとか?」


葉月は俯いて、静かにカクテルに口をつける。


「ん? え! まさか本当にそうなの?! 困ったなあ。喜んでもらえると思ったのにさ」


「め……めちゃめちゃ喜んでますよ!」


「そうなんだ、だったらいいんだけど?」


隆二は冷蔵庫から洒落たラベルの透明なボトルを出して、筒状のグラスになみなみと注ぐと、スッと葉月の前に置いた。


「今日は汗もかいてるし、これからの話で葉月ちゃん、酔っぱらうといけないから。しっかりお水も飲んで」


気配りの行き届いた隆二の計らいに、心底感動する。


「ありがとうございます」


「で? 葉月ちゃんはどのくらい滞在出来る?」


「滞在? 宿泊ってことですか? あ……もう夏期のレポートも提出してるので、しばらく学校の方は大丈夫です」


「そうだよな? 基本夏休みだしね! あ、そうそう、費用は要らないから!」


「え? そんな! 無料で宿泊して無料で『エタボ』のライブを観るナンテ、あまりにも申し訳なさ過ぎますよ!」


「ああ、いいのいいの! スタッフ扱いなんだから、料金払う相手が居ないだけだよ。食事も宿泊も、メンバー以外、オールスタッフが一緒の、規模の大きい団体だからさ。ただし、ギャラは出ないけどね」


「ギャラだなんて、なんの役にもたたないのに……」


「ただ居るだけじゃヒマだろうから、何かと手伝ってもらうよ。“簡単なお仕事です”って言ったら、なんか超怪しい感じになるけどさ?」

隆二は、ニヤリと笑った。


「またふざける……」


「なんか面白くなってきたな。たださ……さっきからなんか引っ掛かってるっていうか。なんか忘れてんだよな……なんだっけ……?」


隆二は腕組みをしながら、しばらく何かを考えていた。


葉月はそんな隆二を見つめながら、傍観者のように答えが出るのを待っている。


「うわぁ!」

突然、隆二が叫んだ。


「な、なんですか?」


「忘れてたわ……ねぇ葉月ちゃん? 君ってさ、彼氏いるんじゃなかった?!」



第7話 『What Is His Identity?』 ー終ー

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