第3話 『Step Into A New Area』
翌日、起きてすぐに葉月は布団を外して左足を確認する。
腫れはだいぶん引いていた。
高校時代の女子バスケ部なら、これぐらいの捻挫ならば悠に試合に出場していただろう。
そんな思い出も、ずっとしまい込んだままだった。
この二年、一体何をして、そして何が出来るようになったのだろうか?
そんな事が頭に浮かんで、不思議な気持ちになる。
今日はどうしてこんなことを考えるのだろう……
「花火を見て感動したせいかな?」
まだ昨日の夢から覚めていないような、ふわっとした、心地よい後遺症が続いていた。
Bar『
この看板はよく知っている。
いや、この辺の人で知らない人は居ないだろう。
老舗のJazz barだ。
皆が憧れる有名店で、気後れして入れないでいた。
気のおけない親友が二人いるが、そのうちの一人はここの常連。
彼女の彼がジャズ好きで、彼女もすっかりそれにハマっている。
きっと彼女はこの店の事をよく知っているはず。
聞けば色々教えてくれるのだろうが、葉月はその親友には何も言わず、何も聞かずに今日はこの店の前まで来た。
親友に昨日の出来事を、どう説明していいかわからないというのが、正直なところだった。
そして、ちょっとした冒険に期待する自分もいる。
でも……
店の前に立って、一人で来るにはさすがに敷居が高いと感じた。
「やっぱり相談すればよかったかなぁ……」
ドアに手をかけるのにも、結構な勇気がいった。
重い扉を、ゆっくり押す。
長い階段が、下に向かって果てしなく続いているように見えた。
冷たい風が階下から吹き上げて、更に緊張感を高める。
そっと扉を閉めて、薄暗い階段をゆっくりと降りていく。
赤い両壁には多くのアーティストの写真がかかっていた。
モノクロの
まるでアートポスターのような
やがて一番下にたどり着き、更に重厚な中扉に手をかける。
葉月は深呼吸をして、思いきって押してみる。
するとトランペットが効いたジャズが、瞬時に耳に飛び込んできた。
華やいだ喧騒に一気に包まれて、前後不覚になる。
まだ残暑厳しい上階の景色とは、全く違った世界がここにはある。
控え目な落ち着いた照明の中、足を踏み入れると、右手にカウンター席があった。
どうしていいか、その通路で少しモジモジしていると、後ろからチョンと肩をつつかれた。
「いらっしゃいませ」
「わっ! びっくりした!」
背の高い男性がにこやかにそこに立っていた。
「ここは初めて?」
「……はい」
「では、こちらにどうぞ」
カウンターチェアを引いてくれる。
「ああ、ありがとうございます」
その人はカウンターの向こうに回り込むと、温かいおしぼりを手渡してくれた。
「お酒は飲める年齢かな?」
彼はカウンターに
「はい。まぁ一応……あんまり得意ではないんですけど」
「そう。ジャズ好きにも見えないよねぇ? ということで、君が白石葉月さん?」
「え? ! ええ……そうです」
「昨日の花火、綺麗だった?」
「え?」
葉月が驚いて顔を上げると、そのバーテンダーはすぐ近くで優しい微笑みを浮かべていた。
昨夜話していた彼の友人が、この人なのだとわかった。
「
「そう、友人の
「じゃあ……」
「預かってますよ、これでしょ?」
昨日彼に渡したハンカチタオルが、
「鴻上さんは今日ここへ来たんですか?」
「いや、別の場所で預かったから」
「ですよね? 私、ほぼオープンと同時に来たわけだし……」
「ねぇ白石葉月さん」
「は、はい!」
「このあとの、ご予定は?」
彼は屈託のない笑顔で問いかけてくる。
「え? いえ、特には」
「彼氏との待ち合わせも?」
「ありません」
「そっか。じゃあ飲んで行ってよ」
「じゃあ……少し」
隆二は長い指でコースターをポンとカウンターに置くと、滑らせるように葉月の前にセットする。
「良かった。軽いお酒を作ってあげるからね。甘いのは好き?」
「はい。あのそれで……水嶋さんは?」
「リュウジでいいよ。ここで俺のことを名字で呼ぶ人なんていないからさ」
「じゃあ、リュウジさんは鴻上さんのお友達なんですよね? 学生の時の友達とか?」
「そうだよ、高校が一緒でね。それで? 君は徹也とは昨日が初対面なんだって?」
「はい」
「じゃあ何も聞いてないんだ? 徹也のこと、何も知らないの?」
「何も知らないです」
「マジか……」
隆二は噛み締めるように
「なんか凄い出会いだね。俺も昨日の話はうっすらと聞いただけだけど、それだけでここに来たんだろ? 随分ヤツのこと信頼してるんだね?」
葉月はふわっと笑った。
「昨日、似たような事を鴻上さん本人にも言われました。なぜか分からないですけど……軽い人じゃないなって。だって連絡先も聞かないんですから」
「そうだな。確かに、変わってるね? 徹也のこと、聞きたい?」
「まあ……それなりには」
「俺、何も口止めされてないからさ、全部しゃべっちゃってもいいよね?」
「そう……ですね。ふふふ」
面白い人だと思った。
まあ、話の上手な人じゃないとこういう仕事は成り立たないものなのかも知れない。
「徹也とはさ、同じ高校を出て、そこからまた同じ専門学校に行ったんだ。俺はこうやってミュージックバーでバーテンしてるけど、本業はミュージシャンでさ、当時の専攻はプロミュージシャンドラム学科だった。で、徹也は当時はCGデザイナーを目指してたからデジタルメディア学科だったんだ。ヤツは優秀でさ、今では立派な映像クリエイターだ。会社でも稼ぎ頭だと思うよ。独立して会社を設立するってさ」
「なんか……イメージと違うような」
「そう? どんな人間だって思ってたの?」
「何て言うか……」
「まぁそうだな、ヤツにはやり手なイメージは全然ないか? 物腰は柔らかいし、素朴だしね。クリエイティブな仕事っていう風には見えないかも?」
「確かに。でも……」
「なに?」
「鴻上さんは、美しいものとか……そういう物を探したり、見る事にこだわりを持ってたりする感じはします」
「へぇ! 徹也のこと、もうわかってるじゃん? よっぽど昨日、話が合ったとか?」
「まぁ……花火がとっても綺麗だったので、話が弾んだので」
「ふーん。初対面の徹也と共有したって訳だ? 急接近だね。知り合って一日とは思えないな」
「厳密には、二時間ぐらいですかね?」
「あ、そっか?」
隆二は笑った。
「私もどちらかって言うと、綺麗なものを見たり、それについて話すのが好きなタイプで……」
「そっか。じゃあ高校の時は美術部だったとか?」
「いえ、高校の時はバスケ部でした」
「え! ホント? 全然そんなイメージないね……いや待てよ? 君のその
「そうなんですか?!」
「うん、高校の時ね。俺はその後もクラブチーム組んで、今も活動してるんだけどさ、徹也はグラフィックの世界一本って感じでさ、体育館にいくら誘っても全然来てくれないんだ」
その話を聞いて、葉月はひとつの言葉を思い出す。
「ふふふ」
「ん? なに笑ってるの?」
「鴻上さんね、〝運動部の意地だー!〟 って言って、私をビルの最上階まで抱き上げたまま階段を登っていたんですよ」
隆二は驚いて目を見開いた。
「はぁ? なにそれ?! そんなドラマチックな話は聞いてないけど?!」
葉月は余計なことを話したのかと少し俯く。
「それで? 徹也はなんて?」
葉月は少し苦笑いしながら話す。
「いえ……そんなこと言うくらいだから、てっきり鴻上さんはもっとハードな運動部なのかな?って、勝手に想像してたんです。例えばラグビー部とか、なんなら重量挙げとか? せいぜい陸上の種目とかかなって……思ってたので」
「あはは、それが普通にバスケ部だったってわけだ? 確かに笑えるな」
「どうりで、そんな体型じゃないなと」
「体型? そうだよなぁ?」
隆二が
「初対面でも徹也の体がどんなカンジか、密着したからよ~く伝わってきたってことね?」
葉月が急激に赤くなったのを目の当たりにして、隆二は慌てて両手を振った。
「わ、ごめんごめん! からかうつもりはなかったんだけど……そんなに反応されたら面白くなっちゃうじゃない? 葉月ちゃん、かわいいね!」
「や、やめてくださいよ!」
「あはは。いいね! 葉月ちゃんって」
「もう! リュウジさん!」
「ごめんごめん。実はさ、提案っていうか、思い付いたことがあるんだけど……」
「はい?」
「今度、君に付き合ってほしいところがあるんだ。是非来てほしいんだけど……どうかな?」
「え? 付き合ってほしい……ところ??」
第3話 Step Into A New Area ー終ー
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