白い百合を黒く染めてそこには黒百合ができるでしょうか?
華蘭蕉
第1話
『好きになって欲しい、好きでいたい』
でもそんな気持ち、彼女には受け入れてもらえない。どうしてか、伝えてもいないのに解ってしまう。だから、この恋は叶わない。
それは『僕』と『彼女』が同じ性別だから? 多分そんな短絡的な発想じゃない。彼女がそんな事で僕をはねのけるのならそもそも僕は彼女の事を好きじゃない。むしろ彼女を『好き』でいたいから『僕』は自分を変えてまで一人称を『僕』にしたんだよ?それだけ、彼女が魅力的で優しかった。
そして、彼女に僕が受け入れてもらえないのは僕の気持ちが『好き』のままで『愛』ではないから。
他人を『好き』になるのは簡単だ。これは僕の自論だけど、人は人を認識するだけで好きになったり、嫌いになったりする事ができる。この気持ちを持つ事は外に出さなければ、何ら責任のある事ではない。
そして、何しろこの気持ちは持っているだけで人生に色がついてしまう。恋もきっとこの『好き』という気持ちの一部で、人生という名のキャンバスにおけるマゼンタ色の絵の具なのだろう。マゼンタは色にとっても三原色で鮮やかだから必要な色。恋も同様に僕の人生にとって欠かせないもの。
必要不可欠な色だから身の回りにありふれている。だから、『好き』になるのは簡単だ。
でも、他人を『愛する』事は他人を『好き』になる所から一つ離れなくちゃいけない。愛は言葉の響きだけで言うと、情熱的な印象がある。でも、愛という言葉にはもっと複雑で多くの意味を持つ、少なくとも僕はそう思っている。
色で例えるならきっと黒色だ。愛というのは情熱的なマゼンタも、憂いを表すようなシアンも、狂気的なイエローも混ざっている。でも、黒色は全ての色の性質を持った万能的な色ではない。油絵を描いたことのある人ならわかるかもしれないが、キャンバスに黒色を乗せるのは勇気がいる。何故なら黒色は他の色への影響が強いからだ。勿論上手く使いこなす事が出来ればキャンバス全体に良い影響を与えることができる。
でも、人生というキャンバスは一枚しか無い。だから僕は安全牌を打ち続けるように明度の高い鮮やかな色を乗せ続けるしかない。このキャンバスには黒色は使えない。
しかし、そのキャンバスに彼女が描いたのは名前も知らない黒色の花。
そして、そのキャンバスを見せてくれた時、彼女は僕にこう言った。
「私は黒色が好きなの」
その瞬間からか彼女に恋をする事を諦めて、僕はいつの間にかキャンバスを黒く染める覚悟をした。
◇◇◇◇◇◇
ちょうど、昼下がりを終える頃学校の授業が終わり、僕はあの場所に行く。
扉を開けるとそこに充満していた特有の揮発性の油の匂いが鼻を突き抜けた。床と壁一面に油絵具が散りばめられた美術室は歴代の学校の生徒達が零した絵の具によってある意味一つの作品じゃないかと思ってしまう程に前衛的で僕一人では理解のできない色彩模様だった。
そしていつも通り、ここにいる筈の無い先客が居た。
串を使ったら、最後まで引っかかりそうに無い程にサラサラに伸ばしたロングヘアー。モデル並の高身長に小顔な彼女はその細長い脚を前に放り出して、木で作られた背の無い椅子にボーッと座っていた。まるで一つの絵画作品のように。
「あら? こんにちは」
彼女が語りかけながら振り向くと、その愛に満ちた美しい黒色の笑顔が見える。
僕だけに見せてくれるその顔が見たくて僕はここに来る。僕は彼女の存在を否定しない、その代わりに彼女は僕が好意を向けてもいい存在でいてくれる。
「今日も学校来てくれたんだ。くろちゃん」
そう、彼女は学校の授業には全く出席のしない、大人からしたら悪い子供の一人。でも、僕は嬉しそうに呟く、彼女の向けてくれる黒色の笑顔がとても大好きだから。
「だって、私の居場所はここしか無いから。でも、教室に行くのは嫌かなぁ。だって君以外汚い色の人間しかいない」
「僕だって、くろちゃんが思っている程綺麗じゃ無いよ……」
彼女に聞こえないようにそう呟く。
そう、僕は彼女とは違うの色だから、鮮やかな汚い色の筈だから。彼女は何者にも染まらない完全無欠な黒、僕はどこまでいっても黒になれない汚い色。
「そういえば、君は今度の文化祭の為に何を描いているの?」
話題が変わる。文化祭、確かに何か絵を描かないとこの美術部を存続させる為の部費が貰えないのは困る、というか彼女に会えなくてなるのは寂しい。
「描いてはいるけど、くろちゃんには出来上がるまでヒミツかな」
出来上がる前の絵を人に見せるのは僕の未熟さが出そうで嫌だった。特に彼女に見せる物は完璧に仕上げたかった。
「えぇ……テーマだけでも教えてよ」
ぐずる姿を見ると彼女の内面性には幼いものを感じさせるが、彼女の内面性に触れれば触れる程何百年も生きてきたかのような黒色が分かる。
「『恋』かな」
「ふぅん、なら私も『恋』をテーマに描こうかな」
彼女はいつも通りそうする気のないような切り返しをしてきた。
「ふふ、そんな事言っていつもキャンバスを黒く染めるんでしょ?」
「あら、ダメかしら?」
「それは僕に言わせれば『恋』じゃなくて『愛』だよ」
そうすると頰膨らませながら彼女は言う。
「君が言う『恋』と『愛』の違いは良く分からない」
「僕のが『恋』で、くろちゃんのが『愛』」
「余計に分かんない、取り敢えず早く描きあげて見せ合いっこしよ」
そっぽを向かれてしまったので、僕も所定の椅子に座ってしまってあったキャンバスを出す。
白地を基調にした明度の高い色が並んだキャンバス。僕は自他共に認める明度の高い色は良い配色で乗せる事ができる人だ。
しかしそれと同時に明度の低い色、即ち黒くなればなる程にキャンバスのバランスが狂っていくように見えて何も描けなくなってしまう。一番好きな色は黒なのに。
つまり、描きたい絵があるのに描けないでいるのだ。いつもそこに足りないのは黒色だった。
◇◇◇◇◇
あれから一週間、結局絵は黒を使わない予定ならもう完成した。今日、彼女は来るのだろうか。僕の絵をどう思ってくれるのだろうか。いつも通り、「ちゃんと色という物を理解しているわね」と褒めてくれるだろうか。それとも、そろそろ「汚い絵」と絵を一瞥した後に評価するのだろうか。
正直どちらでもいい、彼女にどちらかを言って貰えれば僕の意図を理解してくれているから。それを理解できるのはやっぱり彼女しかいないのだろう。
期待に胸を膨らませながら、美術室のドアを開ける。
しかし、そこには肝心な色が抜けた、黒という一色が抜けた僕の絵のような美術室だった。床や壁にぶちまけられた色彩はそれだけじゃ意味も持たない。
「今日は来ないんだ。ちょっとだけ……いやすっごく寂しいな」
美術室には誰も居ないと思うけど、誰にも聞こえないように呟いた。
ふと、彼女のイーゼルの方を見ると、キャンバスが入り口から見えないように立てかけてあったのが見えた。そういえばまだ彼女の絵を見ていない。しかし、普段なら彼女は帰る時、絵をしまうだろう。もしかしたら、今日は学校に来て今はどこかに居るのかもしれない。
彼女の絵こっそりと見てみようか。別に見ちゃダメとは言われていないが、見せ合いっこしようねって言ってた気がする。でも、彼女が『恋』というテーマで何を描いたか気になる。
……
全く戻ってくる雰囲気が無い。絵ももう黒色を付け足す気が無いから暇だ。どうしようか。今日はもう帰ろうか。
もう一度、彼女のイーゼルの方を見る。
彼女の絵を見る事で、僕の絵に黒色が乗るのだろうか。僕が彼女のように黒色を使ったら彼女は喜ぶだろうか。それを考えた。
「見よう」
絵を見るために立ち上がり、回り込む。
あれ……?
これ……
僕だ。
絵は完成していた。
そこにあったのは堂々と咲き誇る黒色の花に、それを持った黒色の笑顔をした少女ーー僕。
でも、僕とは違う。
僕は黒色じゃない。
どうして?
混乱する。
彼女は僕の事を理解している筈なのに、黒色で表現する訳が無い。視界が回る、世界が回る。彼女の考えている事が分からなくて『私』が狂いそうになる。
違う僕は『私』じゃない。
あぁ……そうかこの絵は『私』なんだ。
精巧に僕に見えるように『私』が描かれている。本来なら短い筈の僕の髪が長く描かれているが、それ以外寸分違わず黒子まで細かく描かれていた。それは彼女が僕を良く観察していたということだが、そんな素振りは無かった。もし、僕の顔を寸分違わず脳裏に焼き付けていたならそんな嬉しい事はない。でも、なんで彼女は僕に対して黒色を使い、理解していないかのような酷い事をするんだろうか。
「なんで?」
疑問を呈した瞬間後ろから僕は抱きしめられた。
「やっと見てくれた」
彼女はまるでずっとそこに居たかのように話しかけてきた。
あぁ……そういう事ね。
この絵を自分がいない時どういう風に反応するか見たかった。彼女らしくない子供ぽい悪戯だ。
「どう? 『恋』ってこんな感じでしょ?」
まるで、本当に分かってないかのように彼女は喋る。
「冗談じゃ無かったら本気で怒るよ」
「本気だとしたら?」
少ししたり顔になったのが見え、急に頭に血が上ぼり、抱きしめられた腕をほどき、近くにあったカバンを持ち上げて、美術室を出て行こうとする。
「二度と顔を見せないで」
「待って、話はまだ終ってない。そんなに自分がモデルにされるのが嫌だった?」
「もう喋りかけないで、そんな事する人には見えなかった」
扉を思い切り開けた。
「違うでしょ?」
急に発せられた彼女のその言葉は、僕の身体をここに思い切り縛りつけた。
「私は君に嫌われる覚悟で描いたよ。これは私が恋い焦がれている君。言ったでしょ?今回『恋』をテーマにして書くって。私はこういう風にしか表現できないから」
「どういう事?説明して」
「この花何か分かる?」
「そんな美しい花知ってたら、きっともっと上手く僕は黒色を使えていたよ」
「うん、だから君に知って欲しくて」
彼女は少し歩いて、隠していたかのように棚から黒い花が挿さった花瓶を取り出した。
「クロユリ」
名前を聞く前に言葉が出た。実物を見てはっきりと分かった。そして、なんで彼女が『私』を黒く描いたのか。
「私は黒色が好きなの」
「えぇ『私』もよ」
「そう、それでいいんだよ、白百合ちゃん。女の子同士だからせめて自分は男っぽくしようとするのは私が求めてる事じゃない。私は君の全部を受け止めてあげられるだけの『愛』がある。真っ黒いのがね。君のあるがままを受け入れたい。でもね、そろそろ手遅れになる前に、君が色づく前に、君を黒く染めておく事はしておきたかったの」
分かっていた。そうなるだろうって。望んでいた。『私』も
「ごめん、つまらない事で怒って」
「何回も言わさないで、君に対しては『愛』があるから何をされても平気だよ。それで、絵の感想は?」
「結局考えることは一緒みたいね。感想を言う前に『僕』の絵も見てくれる?」
美術室に戻り、棚からキャンバスを取り出した。
色彩豊かに描かれた、長い髪と短い髪の二人の少女が手を繋いでいる絵。それが『僕』の絵。
「あぁ……本当に間に合って良かった。こんな酷い絵君は描くべきじゃないよ」
「予想はしてたけど辛辣……」
「何この明るい髪の毛、黒使えばいいのに」
「えぇ……割とそんな色だよ」
彼女がこちらを見てきたので私も見返した。目が合う。
そして笑い合う。
「ふふっ、馬鹿だなぁ私達。自分の立場になったらこんな気持ちになるとは思わなかった」
「喧嘩両成敗って感じだね、くろちゃん」
どんどんこの美術室自体が闇よりも黒い黒へと変貌していく。
「それで、君はそのキャンバスに黒を乗せる気なの?」
「それがくろちゃんの絵の感想の答え。私を真っ黒に染めて」
彼女の瞳を見つめる。深く深く吸い込まれそうな黒い瞳。
「もちろん。喜んで。ずっとずっと君を黒く染めたかった。君は勘違いをしているけど、『僕』が一番好きな色は黒じゃなくて『白』。何故なら一番黒色に染めやすいから。そしてそれは君の色なんだよ。そもそも君はそれを自覚すらしてなかったよね。あと、『僕』で在るべきなのは僕、その役割も君は間違えていた。さぁ、お膳立てはしたよ。最後は君の覚悟だけ」
色々な言葉が『私』を突き抜けていく。私は彼女にとって白色であった事。私には何もないから白なのだろうか。
「あぁ、そうだ白色っていうのは、君のいう何もない事じゃなくて、純粋で無垢そういうものだよ」
考えている事がバレているかのようだが、彼女になら別にいい。むしろ私の白色がそれなら良かった。彼女に対しても少なからず影響を与える存在であったなら。
「ねえ、クロユリの花言葉を教えて」
「『恋』と『呪い』。まさに君が黒くなっても君らしくいられるの為のような花でしょ?」
「えぇ、貴女を死ぬまで永遠に恋するわ。これが『私』の『愛』の色」
互いの唇が近づき合う。
「『私』をどこまでも黒く染めて」
そして唇が触れ合う。
彼女の体温が色が私の身体と混ざり合う。
エントロピーが増大し、私に膨大な量の色が溶け込み黒の中の黒へと近づいていく。もし、黒という色にイデアという概念が存在するならそれにより近づいて……いや、触れられる筈が無いのに触れてしまったかのように感じる。
「愛してる」
その囁き一つで深い闇に落とされて、どこまでもどこまでも落ちていく。
さっきまで色鮮やかだった美術室も真っ黒になり芸術性を取り戻す。
私達は何時間も何時間も、それこそ永久の時間と感じるほど愛し合った。
「今日は運命の日になるよ。『僕』にとっても君にとっても」
彼女は私から離れると私にパレットを手渡した。
「今の君なら黒を。『僕』の色を出せるよ」
パレットにマゼンタ、シアン、イエローの絵の具を出す。
「そう、ちゃんと手作りして」
ぐちゃぐちゃと絵の具を混ぜる、途中までは汚い鮮やかな色達。だがある一線を超えた瞬間それは美しい色になる。
「これが黒だよ」
彼女は私を後ろから抱きしめながら筆を手をからませるように渡す。もう、何時間も前か忘れてしまったが、既に二人とも服を着ていない。
「手伝うよ。一緒に描こう」
キスをしながら、彼女の色を感じながらキャンバスに一緒に筆を乗せる。彼女の筆の走りとずれる事がない一体感が更に私を黒へと落とす。
止まらない。止まらない。筆先が。また、私は彼女と共にまた永久の時間を過ごす。
「完成したよ、白百合ちゃん。」
気づいた時には『僕』であったものが『私達』になっていた。
「君にはやっぱり才能があるよ。今すぐ学校を辞めて『僕』の家で永遠に一緒に絵を描こうよ」
既に彼女の一つ一つの言葉で火照ってしまう身体になっていた。そんな状態で、私は『愛』を囁かれた。
もう、何処にでもいい、彼女と永遠に一緒に居られるなら。
「連れて行って。どこまでも。私を貴女の愛で満たして」
私にはもうこの世の中が全て黒色に見えてしまっていた。
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