第2話「フラン姫の失踪」第8部

日曜日14時03分

 八熊やぐま先生がペットの転売に手を染めたのは、半年ほど前からだった。

 きっかけは、小さな出来事だった。

 冬のある日、八熊先生は道端で迷子のオカメインコを見つけた。飼い主に返そうと思ったものの、その方法がわからなかった。そこでパソコンで検索をすると、掲示板サイトでペットを求めている人の書き込みを見つけた。八熊先生には、そのときにはまったく悪気がなかったという。飼い主が見つからないのであれば、引き取ってくれる人に飼ってもらったほうがオカメインコにとって幸せだろう。そんな安易で雑な考えだった。

 その結果、八熊先生が拾ったオカメインコは一万円ほどで売れた。

 実は、ちょうどその数ヶ月前に、八熊先生の奥さんに乳癌が見つかった。まだ初期のステージで、命にさわるほどではなかった。けれど長期の入院治療が必要だった。八熊先生には、お金が必要だった。インコを売って得たお金は、ささやかながら助けになったという。インコの命を救い、あまつさえ奥さんの治療費も捻出できた。八熊先生にとって、罪悪感はまったくなかった。

 インコが売れた数日後のことだった。八熊先生に一通のメールが届いた。オンライン・ペットショップを名乗る差出人は「ほかに売ってくれる動物はいないか」と高い買取額を申し出てきた。

 塾の非常勤講師としての報酬は決して多くはなかった。奥さんの医療費だけでなく、タワーマンションのローン返済にも困っていた八熊先生にとって、そのメールの送り主からの申し出は渡りに船だった。しかし、売れるような動物がすぐには見つかるはずもなかった。

 そんなとき、まるで悪魔の囁きのような出来事が起こったのだった。

 八熊先生の住むタワーマンションの同じフロアで飼われていた子ネコが、ベランダの手すり伝いに八熊先生のベランダへ迷い込んできてしまったのだ。

 不安そうに鳴き声を上げる子ネコを抱きかかえた瞬間、八熊先生の心に暗い光がよぎった。

 八熊先生は、一線を越えた。

 オンライン・ペットショップのアドレスに子ネコの写真を添付したメールを送ると、十五分後には返信があった。その日の夜に、質素な社用ヴァンに乗って二人の若い男が現れた。

 その子ネコ――マンチカンは十万円近い値段で売れた。

 別れ際に男は言ったという。

 ――小型犬はもっと高く売れるんですよ。迷子のワンちゃんはいないですかねえ?

 そして八熊先生は、どんどん深みにはまって行った。

「ほんとうに、みなさんにはお礼のしようもないわ」

 岩塚いわつか智枝ともえさんは、両眼に涙をいっぱいに溜めていた。

 庭に面したえんでは、同様に涙で頬を濡らした岩塚いわつか美代子みよこさんの膝の上で、トトちゃんが体を丸めて眠っている。ぼくたちは、濡れ縁へとつながる和室の畳の上に腰を下ろしていた。

 八熊先生のマンションで発見された七頭の犬は、まずは一時的にユタカ兄ちゃんのお父さんが勤める動物クリニックに保護された。すぐに警察も合流したけれど、その素早い対応は、警察とつながりがある本郷ほんごうあずさと警備員の引山ひきやまさんの存在のお陰でもあった。

 七頭の犬のうちわけは、チワワが二頭、トイプードルが二頭、ミニチュア・ダックスが一頭、チワワとプードルのミックスであるチワプーが一頭。

 カニンヘン・ダックスフンドはいなかった。

 盗難届が出されている犬は、そのうち六頭だった。一時間足らずで、すぐに身元が判明したケースもあった――もちろん、トトちゃんもそのうちの一頭だ。けれど、まだ身元がわからない犬もいた。囚われていた犬たちの栄養状態は悪くないようだった。けれどストレスでぶるぶると震えていたり、やたらと吠える犬たちがほとんどだった。怖い思いをしただろうに、トトちゃんはもっともおとなしくしていた。

 この七頭以前にも、八熊先生には余罪がある。これからの警察の取り調べが進められていくのだろう。けれど、いったい今までに何頭の動物たちを誘拐、転売してきたのか、そして、これまでに転売された動物たちがどこに行ったのか、今ごろ動物たちはどうしているのか——明らかになるまでには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。

 ユタカ兄ちゃんと亜子あこさんのお父さんは、動物クリニックに残って保護された犬たちのケアにあたることになった。

「まさか……みんな死んじゃってないよね? 無事だよね!」

 岩塚美代子さんになでられているトトちゃんを見やりながら、畳の上に腰を下ろした大森亜子さんが不老に向かって身を乗り出した。

「どこかで誰かにちゃんと飼われて、可愛がられていれば幸運です。最悪の場合、繁殖させる目的だけに利用され、ひどい扱いを受けているかもしれません」

 和室の畳の上できっちりと正座したままの不老ふろう翔太郎しょうたろうは、憎々しいほど冷ややかだった。

「不老くん、縁起でもないこと言わないで!」

 キム銀河ウナが鋭く割り込んだ。が、不老はぴくりと片方の眉を上げただけだった。

「すでに転売されてしまった動物たちが帰ってくるのは難しいでしょうね。これ以上、我々にできることはありません。残念ながら、あとは警察の役目です」

「そんな、無責任な……」

 思わずぼくはつぶやいた。その瞬間、ぼくのおなかが「ぎゅるるるるうっ」と悲鳴を上げた。みんなが振り返る。

御器所ごきそ君、僕の脳は論理以外を必要としていない。自分ができないことをやってみせると主張することこそが、無責任じゃないのかい?」

 ぐうの音も出ない……と思った瞬間に、またもやぼくのおなかが「ぐうるるるっ」と鳴った。恥ずかしい。顔から火が出る。

「じゃあフラン姫は? フラン姫は無事なの?」

 本郷梓が勢い込んで訊いた。すると不老は静かに言った。

「フラン姫を誘拐したのは八熊先生ではないよ。フラン姫が行方不明になった金曜日に、八熊先生は外出をしていないんだ。八熊先生はフラン姫誘拐犯ではありえない」

「だったら……迷子になっちゃったのかな。イチタロー君みたいに。こんなに外は暑いのに、どこかで寂しい思いをしてるのかな?」

 本郷梓が不安げに声を漏らした。

「きっと見つかるはず。きっと誰か親切な人が保護してくれてるはずだよ。イチタロー君だって帰ってきたんだから」

 金銀河は、自分自身に言い聞かせるようだった。

「そう、ちょうどイチタロー君のようにね」

 不老翔太郎が、謎めいた面持ちでつぶやいた。すると急にぴょこんと立ち上がり、振り返ると隣のキッチンへと向かった。不老は冷蔵庫に小走りに駆け寄った。

 おなかがすいているのはぼくも同様なのに、不老翔太郎はなんて礼儀知らずな人間なんだ?

 ぼくらが呆気にとられていると、不老は冷蔵庫の扉の前で、手にしたスマートフォンを操作し始めた。

 スマートフォン? 不老が?

 ぼくはポケットを探った――ない。

 またか!

御器所ごきそ君、きみはすきがありすぎる。掏摸すりのしがいのない人だねえ」

 いったい何度目か、不老はぼくの心を読んだかのように、ぼくに向かってスマートフォンを放ってよこした。

「不老、一人で先走らないでくれよ! それから、携帯電話を借りたいなら、ちゃんと言って!」

「ねえ御器所君、いい加減にきみこそ僕についてきてくれないかな? 思考の速度を落とすことはできない。きみだけは僕を理解していると信じていたけれどね」

「で、何を調べてたの?」

「さしあたって今できることは、ルナちゃんの家で話を聞くことだけのようだ」

「ル……ルナ……ちゃん? 誰? 知り合い?」

 と、あたかもその声をきっかけにしたかのように、二つの携帯電話が同時に鳴った。そのひとつはぼくの手の中のものだった。

 画面を見ると、ノリ兄ちゃんからメッセージが届いていた。

 鳴ったもうひとつの携帯電話は、本郷梓のものだったようだ。

「もしもし? え? もう一回言ってくれる?」

 本郷梓が電話の向こうに、切迫した悲鳴のような声を上げた。

「フラン姫が?」

 金銀河がぐいと本郷梓に近づく。

 不老はぴくりと眉を上げた。

 ぼくは、自分のスマートフォンの画面を見た。

 ――またユタカがいなくなった。昨日のマンションにもいない。どこにいるか知らない?

 ノリ兄ちゃんからのメッセージにはそう書かれていた。

 妹の亜子さんは今、眼の前にいる。だったらユタカ兄ちゃんは、ストーカーと化しているお母さんから亜子さんを守ろうとして、〈組〉を抜け出したわけじゃない。

 ――また掃除さぼってキタさんにしかられたの?

 ぼくがメッセージを送ると、すぐさま返信があった。

 ――キタさんじゃないよ。おやっさんを殴って飛び出した。

「うへえ……」

 ぼくは思わず裏返った声を漏らした。おなかが空きすぎて、声がちゃんと出なくなってるじゃないか。

 ――組内がパニクってる。早く帰ってきて、一緒にユタカの野郎とっ捕まえよう

 ノリ兄ちゃんの言う「おやっさん」というのは、もちろんぼくの父さん――つまり〈御器所ごきそ組〉組長のことだ。行儀見習いで入ってきたばかりの十六歳が、そんな大それたことをしでかすなんて、前代未聞の大事件だ。

「ほう、ゆたかさんがまた家出をしたんだね?」

 不老が口を開いた。

 大森亜子さんが、膝立ちでぼくに近づいて来る。

「どうしたの? お兄ちゃんがまた何か迷惑かけちゃったの?」

「う、うん。ユタカ兄ちゃんが……父さんを殴ったみたい」

 ぼくが答えると、大森亜子さんの顔が見る見るうちに青ざめていく。

「安心してください。御器所君の家は簡単に人を海に沈めたりしませんよ」

 不老がにやりと笑った。けれど、亜子さんはますます血の気を失っていた。

 いったいなんてことを言い出すんだ?

 その瞬間だった。

「ねえ聞いて!」

 本郷梓が、今にも泣き出しそうな表情で声を上げた。

「どうしたの梓?」

 金銀河が心配げに、本郷梓の両肩に手を置く。

「フラン姫が……フラン姫が見つかったよ!」

 本郷梓が叫ぶように言った。

 その瞬間だった。不老翔太郎が唐突に立ち上がった。

「さあ行くぞ、御器所君!」

愛菜まなさんの家に?」

 ぼくが訊くと不老は、とんでもないといったふうに首を振った。

「もちろん亜子さんのお母さんの家だよ!」


日曜日14時58分

 もうすぐおやつの時間だというのに、お昼ごはんどころか朝ごはんさえ食べていない。ぼくの人生ではありえないことだ。おなかはひっきりなしに悲鳴を上げるし、眼の前の視界はふらふらしてくるし、空高い太陽は凶暴なほどにぎらぎら輝いている。

「ううう、死ぬぅ……」

 ぼくがつぶやくと、不老は冷酷な視線を向けてきた。どうしてこいつは汗一滴かかないのだろう? ほんとうに人間なのだろうか? そんな疑いすら感じてくる。

 バス停から急ぎ足で、亜子さんのお母さん住むマンションへと向かった。けれど、暑さと空腹でぼくだけが不老と亜子さんに遅れてしまう。

 本郷ほんごうあずさキム銀河ウナは、ぼくたちとは別れて、高蔵たかくら愛菜まなの家へと向かっていた。フラン姫の様子ももちろん心配だけれど、ユタカ兄ちゃんの行動のほうが、今のぼくにはもっと差し迫った重大問題だった。

 川沿いの土手と平行に走る道を、ぼくたちは進んでいた。マンションまでは、バス停から歩いて七、八分かかるという。

 ユタカ兄ちゃんがうちの組を飛び出してから、もう四十分以上がたつ。どんな交通手段を使っても、すでに着いている可能性が高かった。

「お兄ちゃん、お願いだからバカなことしないで……」

 大森亜子さんが祈るような小声で言った。

 やがて亜子さんが道の先を指差した。

 この街の西の端、川の土手沿いに建っている、ぼくの父さんよりも年上と思われる五階建ての雑居ビルだった。一階部分には、開店しているのかいないのかわからない喫茶店が一軒と、見るからに怪しげで、小中学生のぼくたちが近づいてすらいけない「大人のお店」が一軒、ピンク色の看板を掲げている。そのほかのテナントのシャッターは下りていた。二階より上を見上げると、灰色の壁はところどころ剥げていて、この一角だけ周囲よりも暗いような錯覚をしてしまう。いったい何部屋に人が住んでいるのか、どこもかしこもしーんと静まり返っていて、蝉の声だけが耳に届いた。車通りはなく、人影も見えない。

「部屋番号はわかる?」

 不老が問いかけると、亜子さんはうなずいた。

「404号室……だったと思う。わたし、ここに来るのはじめてなんだ」

 亜子さんは言いながら、雑居ビルを見上げた。

 上階へつながる階段は、雑居ビルのもっとも南の端に一ヶ所だけあった。当然と言うべきか、エレベーターは設置されていなかった。ビルのさらに南隣には駐車場があり、数台の車と一台の派手なバイクが停められているのがちらっと眼に入った。

 ぼくたちは暗い階段に踏み込んだ。真夏の昼下がりなのに、急に温度が五、六度下がったような感じがした。気のせいだろうか。

 ぼくたち三人は黙り込んだまま、四階へと上った。階段は真っ昼間だというのに暗く、踊り場の蛍光灯はチカチカと点滅を繰り返していた。

 四階にたどり着き、左手に廊下を進んだ。

 西側の川に沿っていて、やっぱりどこかしら薄暗かった。あちらこちらに数十本の煙草の吸殻、甲虫の死骸、くしゃくしゃに丸められたチラシ、ストロング酎ハイの空き缶が転がっていた。ぼくの爪先がセミの死骸を蹴った――と思った一瞬後にセミは「復活」してジジジジーッと声を上げてバタバタと飛び上がった。

「きゃああっ!」

 ぼくは思わず悲鳴を漏らしてしまった。冷酷な不老翔太郎の視線が突き刺さる。

 大森亜子さんはぼくの悲鳴にわずらわされることなく、ずんずんと先へ進み、404号室のドアの前で立ち止まった。

 亜子さんがそっと404号室のドアに耳を寄せた。不老翔太郎もまた、そのすぐ隣で同様にドアの向こうに聞き耳を立てる。

「どう? ユタカ兄ちゃんはいる?」

 ぼくが小声で訊くと、不老はドアからぱっと体を離した。

一足ひとあし、いや二足ふたあし以上遅かった。留守のようだ」

「えっ、でもママは部屋にいるかも……?」

 亜子さんが言いかけると、不老は不意にチャイムのボタンを連打した。

 室内からの返答はない。

「ママ! お兄ちゃん! いるの?」

 亜子さんが辛抱できずにドアを拳で叩いて呼びかけた。やっぱり、返答はなかった。

「居留守?」

 ぼくが尋ねると、不老はかぶりを振った。

「もうすぐ西日がこの部屋に強く差し込む頃だが、部屋のエアコンは作動していない。電気メーターの動きを見ればわかる」

 そう言うなり、唐突に不老は廊下に這いつくばった。亜子さんがぎょっとした面持ちになった。まあ、ぼくは不老のおかしな行動には慣れているけど。

「ドアの隙間から漏れてくる室内の空気は、暑くなくて冷えている。つい先程まで室内ではエアコンが作動していたんだ。西側の川に面するベランダ側の窓で、もしもカーテンが閉じているならば三時間以内、カーテンが開いているならば四十五分以内にエアコンが切られたに違いない――僕はカーテンが開いているほうに賭けるがね。それに見たまえ、ここにかすかだが新しい足跡がある。サンダルの右足、サイズは26センチないし27センチ。亜子さんのお母さんはそんなに大足ではないでしょうね」

「じゃあ、どこに行っちゃったのかなあ?」

 ぼくが訊くと、不老は顔の前に人差し指を立てた。

「ここの近くで二人で会うとするなら……?」

 すると、亜子さんがはっとした。

「一階のカフェ!」

 亜子さんと不老が同時に階段に向かって駆け出した。ぼくもふた呼吸遅れて、慌てて追いかける。

 薄暗い階段を一階まで下りて、外に飛び出すと一気に熱波に全身が覆われる感じだった。くらくらと眩暈がする。足がもつれる。

 そのときだった。ぼくの携帯電話が振動した。画面を見る――発信はキム銀河ウナからだった。

「もしもし?」

「見つかったよ、フラン姫!」

「うん、だろうね。今ちょっと忙しくて……」

 走りながら会話することなんかできないので、立ち止まる。その途端にもう息が上がっていることに気づいた。今のぼくは、フラン姫以上に「ハァハァ」と舌を出して呼吸しているはずだ。

「御器所君、冷たいんだね! そこに不老君いるんでしょ? 変わって!」

「いやそれが、取り込み中……」

 そう言った一瞬の後だった。

 前方で声が上がった。ちょうど、薄暗い一階の喫茶店の真ん前だった。

 ちょうど扉を押し開けて、当のユタカ兄ちゃんが飛び出してきたのだった。

「お兄ちゃん!」

 亜子さんが声を上げながら駆け寄った。

「ば、バカ! おまえなんでこんなとこ来たんだよ! あの女、おまえに会いに行くなんて言いやがって、俺がトイレ行ってるすきに……」

 ユタカ兄ちゃんが怒鳴る。と同時に、不老がぼくのほうを振り返った。いや、正確には、ぼくよりもさらに背後を見ていた。

「御器所君、聞いてるの?」

 スマートフォンの向こうから、金銀河のいらだった声が聞こえた。

 ぼくは背後を振り返った。

 いろいろなことが、一度に起こった。

 ぼくのすぐ後ろ、マンションの駐車場からシルバーの軽自動車が急発進してくる。

 ユタカ兄ちゃんと亜子さんが同時に何ごとか叫ぶ。

「御器所君!」

 不老が怒鳴りながら、ぼくへと駆け出してくる。

 シルバーの軽自動車。一気にぼくの眼の前に迫っている。

 誰かの悲鳴。

 急ブレーキの金属音。

 そして、ぼくは腰のあたりに激しい衝撃を感じた。

 空が見えた。

 まるでスローモーションみたいだ。ぼくの手からスマートフォンが飛んだ。

 一瞬後、背中とお尻と後頭部に、激しい痛み。眼の前に火花が散る。もう、空は見えない。頭蓋骨の内側で、爆竹が激しく暴発している。背中とお尻に焼け付く熱さ。

 眩暈めまい――視界が暗くなっていく。

 ぼくのすぐ脇を軽自動車がすり抜けていく。

 と同時に、新しい音も聞こえた。重低音――全身に響く。何か大きな塊が全身を震わせる重低音を撒き散らしながら、またぼくの脇を通り抜けて行った。

 続いて、ぼくの頭の横へ靴音がいくつも近づいてくる。

 いろいろと慌ただしいな、とぼくは薄れていく意識の中で思った。

「ああ、御器所君!」

 誰かがぼくの右手を取るのを感じた。

「もしもし? 御器所君! どうしたの?」

 かすれた声――どこか遠くのスマートフォンから聞こえる。

「怪我はないだろうね! ああ、御器所君! どうかお願いだから、怪我なんかしていないと言ってくれ!」

 耳元の悲痛な声。ぼくの右手がさらに力強く握られた。

「おなか……すいた……」

 かろうじて、声を出した。

 ぼくの意識は、そこで暗黒に包まれた。


「フラン姫の失踪」第9部(最終回)へつづく

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