第2話「フラン姫の失踪」第7部
日曜日11時04分
車窓から見えた四階建ての建物に、ぱらぱらと高校生が入っていくのが見えた。一階部分が駐車場になっており、脇の階段が二階の入り口へとつながっていた。駅前商店街からは少し離れた、住宅が多い地域だった。「大学受験専門」と大きな看板が出ており、二階部分の張り出しでは「夏期講習生募集中」書かれた青色ののぼりが風に揺れている。
「僕が息子役です。あなたは僕の父親役を演じてください」
「ねえ不老、いったい――」
けれど、不老はぼくの声が1ミリも耳に入っていないのか、さらに早口になった。
「まずは我々二人が一緒に入ります。『お父さん』は受付で入塾用資料をもらってください」
「きみが何を企んでいるのかわからないけれど、それは必要なことなんだね。協力しよう」
ユタカ兄ちゃんのお父さんは、少し楽しげな口調で言った。
「感謝します。塾内に入ったら受付の職員に、講座内容について微に入り細をうがって質問をして、引き伸ばすのです。そのあいだに、僕は三階の講義室に向かいます」
「あのさ、不老、何言ってるのか、全っっっっ然わかんないだけど」
不老は人差し指を顔の前に立て、ぼくの言葉を制した。
「その前に、まず駐車場に入れてください」
セダンの後部座席から、不老は運転席に向かって身を乗り出した。
不老の言葉どおりに車が一階部分の駐車場へと頭を向けた。が、まだ停止する前に、いきなり不老はドアを開けて車外に飛び出した。
「不老!」
ぼくの声にはぴくりとも反応せず、不老は駐車場の奥へと駆け出した。停まっている車は全部で七台。
来客用スペースにセダンが停まると、不老が駆け戻って来た。
「間違いない! 急がなければ!」
「何を急ぐの?」
「時間がないんだよ、
「だから、何の授業?」
今にも走り去りそうな不老に向かって、さらに訊いた。
「『英語長文読解特訓』だよ! きみと
「どうして行ってダメなの?」
「君たちが高校生には見えないからさ」
「不老だって六年生じゃないか」
「いいから待っていてくれたまえ!」
言い放って、ユタカ兄ちゃんのお父さんとともに駐車場から出て行こうとした。「くれたまわないってば!」
ぼくはつぶやいて走り出した。
「わたしだって待たないから!」
大森亜子さんもぼくと一緒に駆け出した。
階段の途中で二人に追いついた瞬間だった。思いもかけない声が背後から飛んできた。
「不老君たちも来てたの?」
振り返って、ぼくは心底びっくりした。
声をかけたのは、
そこでようやく、鈍いぼくの虹色の脳細胞でも、いろいろなことがつながった。首を上げて、建物の四階部分の脇に取り付けられた看板を見やった――日進ゼミ。
「そっか、ステッキの男の人か!」
声が漏れた。
ここがステッキの男の人が勤務している塾だったのか。
金銀河が階段を駆け上がってくる。
「不老君、ステッキの男の名前がわかったの? 『白川先生』と『東先生』、どっち?」
すると不老はぴくりと右の眉を上げた。
「どちらでもないよ。ステッキの男の正体は『
「どうしてわかったの?」
金銀河がつっかかるように訊いた。
「
そして不老はユタカ兄ちゃんのお父さんに顔を向け、「行きましょう!」と声をかけた。
「なんだかよくわからないが、きみの言うとおりに演技してみよう」
最初は面白がっている様子だったけれど、ユタカ兄ちゃんのお父さんは、今では真顔になっていた。
二人の前で自動ドアが開き、二人は奥のカウンターに向かって早足で進んだ。
「わたしたちも行こう!」
真っ先に口を開いたのは、大森亜子さんだ。
「こそこそしてるほうが、かえって怪しまれるよ」
にっこりとぼくたちに向かって笑いかけた。おとなしそうに見えて、なかなか腹が据わっているようだ。
ぼくたち四人は、自動ドアをくぐった。正面のカウンターの向こうには、事務職員なのか先生なのか、四人の人がいた。そのうち一人の女性が、ユタカ兄ちゃんのお父さんの前にパンフレットを開いて、熱心になにか説明している。不老の姿はもう見えなかった。
「急いで、ただし慌てないで」
大森亜子さんは冷静な小声で鋭く言い、入り口の自動ドア右手の書類ラックに向かった。そこにはいろいろな大学のパンフレットが並んでいる。それらを探すようなフリをして、ぼくたち四人はラックに近づく。書類ラックの向かいにエレベーターがあり、そのさらに右手に階段があった。
「八熊先生って人の授業、教室は4Dね」
スマートフォンの画面を見ながら、金銀河が言った。
とそのときだった。ぼくたちの目の前でエレベーターの扉が開いた。なかは満員で、十人あまりの高校生たちが一気に吐き出されてきた。さらに階段からも、五、六人の生徒たちがおしゃべりしながら降りてくるのが見えた。どの生徒たちも、ぼくたちに一瞬の視線を送っただけだった。大森亜子さんと金銀河はともかく、ぼくと本郷梓はどこからどう見ても高校生には思えない。けれど誰も、ここに小学生と中学生がいることを見とがめることはなかった。
ぼくたちはエレベーターに乗り込んだ。
「授業、終わったみたいだよ」
本郷梓が言った。
八熊という名のステッキの男の人は、今日はこの一コマの授業しか受け持っていないようだ。先に行った不老は、八熊先生を捕まえることができたのだろうか。
じりじりとあせりながら待っているあいだにエレベーターが四階に到着した。扉が開くなり、ぼくたち四人はいっせいに飛び出す。エレベーターを待っていた高校生数人が、びっくりしてのけぞるのが見えた。
「4Dはあっち!」
大森亜子さんが声を上げる。
ぼくたちは、高校生たちをかきわけて走った。
4Dと表示された教室の入り口から、内部をのぞき込んだ。学校の教室の半分くらいの広さだった。二十人入ればいっぱいになるような部屋だ。そこにはまだ七、八人の生徒が残っていた――八熊先生の姿はない。
「さきを越されちゃった! 早く一階に戻らないと!」
本郷梓が声を漏らす。
否応なくあせる。暑い上にさらに汗が吹き出す。
――いったい、不老はどこだ?
ぼくたちはエレベーターに戻った。けれど、エレベーターは一階に停まっていた。ぼくたちは階段へ走った。転びそうになりながら、一階まで駆け下りる。
ちょうどロビーの自動ドアから外に出ていく不老翔太郎とユタカ兄ちゃんのお父さんの背中が見えた。
「不老!」
ぼくの口から声が漏れていた。ロビーにいた職員と生徒たちが、いっせいにぼくたちに顔を向ける。
構わずに、ぼくたちは自動ドアに向かって駆け出す。
階段の踊り場で追いついたぼくたちを見て、ユタカ兄ちゃんのお父さんはびっくりしていた。いっぽうの不老は、あいかわらず冷静に眉をぴくりと動かしただけだ。
「きみたちがおとなしく待っているとは期待していなかったさ」
不老は言うなり、一気に階段を駆け下りた。
一瞬後、階下の駐車スペースから一台の黒い車が出ていくのが見えた。手すり越しに見下ろす。間違いなく、昨夜タワーマンションの駐車場で目撃した黒いドイツ車に間違いない。
ぼくたちはユタカ兄ちゃんのお父さんの運転する車に慌てて乗り込んだ。
助手席には、何のためらいもなく先に不老が座った。ぼくは、後部座席に女子三人に囲まれて座ることになってしまった。ぼくの横幅が少しだけ平均よりも広いからかもしれないけれど、窮屈だ。右側に金銀河、左側に本郷梓がぼくに密着している。急に緊張してしまう。
「ちょっと
「両手に花だねー、うらやましいな」
かーっと顔面が熱くなる。またもや顔面から汗が吹き出した。
その瞬間に、ぐいっとアクセルが踏み込まれた。
「ちょっと飛ばすぞ」
ハンドルを握ったユタカ兄ちゃんのお父さんが、少しうれしそうに言った。
日曜日11時27分
黒いドイツ車が交差点を左折した。その向こうに、タワーマンションがそびえているのが車窓越しに見えた。
道路は混雑していて、ぼくたちの乗った車とドイツ車のあいだには二台の車を挟んでいた。
「マンションで押さえましょう」
不老は運転席に向かって言った。
「わかった!」
運転席のユタカ兄ちゃんのお父さんは答えると、ハンドルをぐいっと握りしめた。
「ちょっとパパ、なに張り切ってるの!」
後部座席で大森亜子さんが声を上げる。
次の瞬間に、
ぼくたちの乗った車も一気に加速する。バックシートに背中がぐいっと押し付けられた。誰かが短く「きゃっ」と悲鳴を上げた。本郷梓なのかと思って横を見た。
そこで気づいた。悲鳴を上げたのはぼくだった。
急ハンドルで、赤信号に変わりかけた交差点に車が突っ込んだ。
「きゃあっ」
またもや、ぼくは悲鳴を上げてしまった。
後部座席の女子三人から一気に冷たい視線を受けた。冷房の効いた車内の温度がさらに下がったような気がした。
と感じたのもほんの一瞬間だけ、続いて車がさらに加速した。
ドイツ車がマンションの地下駐車場へつながるスロープへ向かうのが見えた。ぼくたちの乗った車が、すぐその背後に続く。ゲートの前で停車した八熊先生が、サイド・ウィンドウを開けて身を乗り出し、カード・キーのようなものをゲートの支柱にタッチするのが見えた。するりとゲートが開き、ドイツ車はスロープの奥へと走っていく。
「行くぞ!」
ユタカ兄ちゃんのお父さんが言うやいなや、アクセルを踏み込んだ。
ぼくたちを乗せた車が、一気にゲートへと突っ込む。
「きゃあ!」
またしても、ぼくは叫んでしまった。
降り始めたゲートをぎりぎりかすめて、車はスロープへと突入した。
「あちらへ停めてください!」
不老が鋭い声を上げる。
車はタイヤをきしらせて、歩行者用通路の脇へと急停車した。
何も言わずに不老が車を飛び出した。一瞬遅れて、ユタカ兄ちゃんのお父さんもあとに続く。もちろん、ぼくたちも一斉に後部座席から飛び出した。
地下駐車場からマンションのエレベーター・ホールへと続く自動ドアへ向かって、ぼくたちは一斉に駆け出した。
自動ドアが開いた瞬間だった。ぼくたちは凍りついたように立ち止まった。
太った大柄の警備員が立っていた。
「また君たちかあ!」
太った体をそらせて、昨夜会ったばかりの警備員、
「緊急事態なんです。今まさに犯罪行為が行なわれているのですよ!」
不老が言ったが、引山さんはあきれたように両の拳を腰にあてた。そして、
「お遊びが過ぎますよ、梓ちゃん。ここは私有地。勝手に部外者が入っちゃいけないことくらい、本郷警視正のお嬢さんならおわかりでしょう? もう甘い顔はしていられませんからね。お父様に連絡します」
「違うの! 信じて、フラン姫が危険なの!」
本郷梓が叫ぶように言った。
「フラン姫? 誰です?」
引山さんが真顔になった。
「今マンションに入って行った八熊って人に誘拐されて、監禁されてるの! 早く助けないと!」
本郷梓の剣幕に、引山さんは
「ちょ、ちょっと待って。八熊さんが誘拐? そんなバカな話……」
すると不老が口を挟んだ。
「このマンション内で、犬の鳴き声がうるさいというクレームが多発していますね? エレベーターが犬のおしっこで汚れている件も多数報告されています」
「えっ? どうしてきみがそんなことを知ってるんだい?」
「住人と日常的に接する警備員という立場であれば、これらの事例はご存知でしょう。管理会社に確認しました。ある部屋に多くの犬が――ほぼ間違いなく小型犬ばかりがいる。その犬たちは、住人の飼い犬ではありません。誘拐された犬たちなんです」
「そうは言うけどね……」
太った引山さんは顔中に大きな汗の粒を浮かせていた。
すると、ユタカ兄ちゃんのお父さんが前へ一歩進んだ。
「私が保証します。彼の言うことは正しい。私は現役の獣医師です。動物保護団体にも加わっています。八熊という人物は、小型犬誘拐組織に関わっている可能性が高いんです」
「ゆ、ゆ、ゆ、誘拐組織ですって?」
引山さんの声が裏返った。
ぼくだって驚きだ。本郷梓と金銀河も眼を見開いている。
「えらいこった!」
引山さんは絞り出すように言った。そしてエレベーターに駆け寄って、ボタンを押した。
日曜日11時47分
「警備の
インターフォンのボタンを連打しながら、引山さんはドアの向こうへ声を投げかけた。さらに、何度もドアを叩く。
「居留守する気?」
が、金銀河がドアを破壊する直前に、ドアが開かれた。
すぐさま、不老が片足をその隙間に突っ込む。
と同時に、ドアの隙間から甲高い子犬が吠える声が漏れ聞こえてきた。とても切迫して悲痛な声だった。
本郷梓が悲痛な面持ちで、ドアに顔を近づける。ぼくも覗き込んだけれど、ドアの向こうは暗かった。様子を見ることができない。
「な、何なんだ、きみたちは。警察を呼ぶぞ」
ドアの向こうの暗がりに、青ざめた
「どうぞ呼んでください。それとも、僕たちが電話しましょうか?」
不老翔太郎は静かだが、力強い声で言った。
追い打ちをかけるように、引山さんがぐいっとドアを摑んだ。
「管理会社に、犬の鳴き声がうるさいというクレームが多発しています。八熊さん、いったいお宅に何匹の犬がいるんですか? 今でもかなりの声が聞こえてますよ」
暗がりの向こうから、子犬たちの鳴き声がいっそう激しく聞こえてきた。
「犬を飼うのは、犯罪じゃないだろう」
八熊先生はそう言い、今にもドアを閉めようとしていた。
「よくこの匂いに我慢できますね」
不老が冷ややかに言う。確かに、室内からは酸っぱいようなアンモニア臭が玄関にまで漂ってきていた。
「動物虐待は犯罪です。もちろん動物の誘拐も、転売も犯罪です」
不老がぐいと八熊先生をにらみつけた。
八熊先生は、うろたえた様子で唇を噛みしめた。
「な、何をバカな……」
「もう諦めましょう。動物たちの命でお金を儲けるのは、もう終わりです」
不老がさらに語気を荒げた。
「し、し、し、知っているのか……」
八熊先生はうめくような声を漏らした。そして、すべてを諦めて脱力したかのように、背中を壁に預けた。今にも床に崩れ落ちそうだった。
「いいですね、入りますよ」
引山さんが言うと、八熊先生は力なくうなずいた。
と同時に、不老がまっさきに部屋に飛び込む。
ぼくたちもあとに続いた。
暗い部屋の奥から、切ない犬たちの鳴き声が大きくなってきた。さらに、強いアンモニア臭も鼻の奥を突く。
「ひどい……!」
声を上げて駆け出したのは、大森亜子さんだった。
異様な光景だった。
開かれたドアの向こうはリヴィング・ルームだった……はずだ。ベランダ側の窓は、カーテンが締め切られていて、昼なのに暗い。
今はその部屋に、灰色のケージがずらりと並んでいた。ぼくたち人間の姿が近づくと、ケージの内部からは甲高い悲鳴が次々に上がった。排泄物の臭気は、我慢できないくらいに強かった。思わずぼくはむせてしまった。
金銀河が部屋の明かりを点けた。
ケージは全部で七つ、整然と並んでいた。そのいずれにも一匹ずつ犬が入れられている。哀しげな悲鳴を上げている犬もいれば、ケージの奥で体を丸めたままぷるぷると震えている犬もいた。
「パパ、こっち! この子、パパが前に写真見せてくれたチワプーじゃない? 具合悪そうだよ!」
大森亜子さんがひとつのケージの前で声を上げた。ユタカ兄ちゃんのお父さんが亜子さんのもとへと駆け出した。
「八熊さん、あんたこの部屋で何をしてたんだ?」
引山さんが怒りのにじんだ声で尋ねた。けれど、八熊先生は何も返答することなく、ぐったりと脱力した様子で壁に背中を預けていた。
そのとき、金銀河が「あっ」と短い声を漏らした。いちばん左端のケージへと駆け寄る。
「この子、トトちゃんじゃない?」
ケージの中から、くりくりとした黒くて丸い眼のチワワが姿を現した。チワワは、ケージの柵の隙間から無邪気に金銀河の手の甲をなめ始めた。
不老翔太郎はゆっくりと壁際の八熊先生に歩み寄った。そして、静かに言った。
「教えていただきましょう、それぞれの犬たちの身元を。それに――」
不老はぐいっと八熊先生に顔を近づけた。その両眼は怒りの光でぎらついていた。不老のこんな表情を見るのははじめてだ。
「犬の転売組織のことを、洗いざらい白状してもらいますよ」
八熊先生は、まるで背骨が溶けてしまったかのように、ずるずると床にへたり込んだ。
「こんなこと……いつまでも続けられるはずがなかった」
かすれた声で八熊先生はつぶやいた。その片眼から、一筋の涙がしたたり落ちた。けれど、その表情はどこかしらほっと安堵しているようにも見えた。
そのときだった。
本郷梓が、つぶやいた。
「フラン姫が……いない!」
「フラン姫の失踪」第8部へつづく
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