第2話「フラン姫の失踪」第5部

日曜日8時41分

 昨夜の帰宅後、ユタカ兄ちゃんとキタさんは、事務所で父さんと長いあいだ何かを話し合っているようだった。

 ドアの前でノリ兄ちゃんと一緒に聞き耳を立てていたら、いつになく深刻な表情をした若頭の若水わかみずさんに追い払われてしまった。そういえば、若水さんが事務所に来るのも久しぶりな気がする。

 我が家〈御器所ごきそ組〉のなかで、いつもと違うは何かが動き出し始めているんだろうか?

 いくら聞き耳を立てても、ぼくもノリ兄ちゃんも全然情報を得ることはできなかった。不承不承ふしょうぶしょう、それぞれ部屋に戻って床に就いたのは十一時過ぎだった。

 ベッドのなかで悶々とした。ぼくの脳内を形にできない不安がぐるぐると渦巻いた。フラン姫もトトちゃんももちろん心配だ。けれど、ユタカ兄ちゃんの行動も、ぼくの気持ちをぐらぐらと揺さぶった。

 今年の五月にうちの〈組〉で起きた「二つの署名」事件のことを思い出すと、心は穏やかではいられない。

 それだけじゃなかった。なぜ自称探偵の平針ひらばり|左京さきょうが、あの場所にいたんだろう? 担任の萱場かやば千種ちぐさ先生が抱えている秘密とも何か関係があるんだろうか?

 そもそもうちの組が――そして父さんもまた、平針左京や萱場先生と間接的に関係があるのだろうか?

 いったいどんな?

 不老ふろう翔太郎しょうたろうは、それを知っているのか?

 不安にさいなまれていたけれど、それでもいつの間にか眠りに引き込まれてしまった。

 悪夢を見た。

 ぼくは担任の萱場千種先生のいる場所へ急いで駆けている。けれど、走っても走っても少しも前に進まない。ますます焦るけれど、両脚はどんどん重くなっていった。隣を走っていたはずの人影が、見る見るうちに遠ざかっていく。

「さあ早く!」

 誰かの声が耳もとで聞こえた。

 ――早くと言ったって、体が動かないんだよ!

「起きるんだ!」

 ――ほえ……?

「ほえ……?」

 呼び声に、目が覚めた。

 両眼を開いて、仰天した。

 ぼくの顔、すぐ五センチほどの位置に迫っていたのは……

「ふ、ふ、ふ、ふ……」

 舌が突っ張って言葉が発せない。

「さあ御器所ごきそ君、早く起きて着替えたまえ!」

「ふ、ふ、ふ、ふ……不老っ!」

 やっと言葉が口から出てきた。

 不老翔太郎はぼくの顔のすぐ近くで一瞬だけぴくりと右眉を上げた。

 ――近い! 近すぎる!

「ど、ど、ど、ど、ど、ど、どどどどどうして……?」

 質問に対する答えの代わりに、Tシャツとジーンズがベッドの上のぼくに投げつけられた。

「誘拐された犬が帰って来たんだ。無傷で救出された経緯を聞きに行くには、きみがいないと始まらない。銀河さんと梓さんは先に現場に向かっている。さあ早くきみも服を着るんだ!」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待った! なんで不老がここに? って言うか、近いよ、顔が近い!」

 不老は表情を変えることなく、ますますぼくに顔を近づけた。満面の笑顔だった。

「だから近いってば! どうやって入ったの?」

「玄関のインターフォンのボタンを押したよ」

「じゃなくて! よく入れたね」

 〈御器所組〉のセキュリティは大丈夫だろうか?

「早く着替えたまえ! 事態はますます面白くなっている。寝ていてはもったいない! 時間は不可逆的に我々から遠ざかって行くんだ」

 不老は実にうれしそうに両手をゴシゴシとすりあわせた。ぼくは不老の体を両手で押しのけた。

「フラン姫が見つかったんだね?」

 ぼくが言うと、不老は右の眉を怪訝そうに上げた。

「フラン姫が見つかったなんて、僕は言ったかい?」

「あ……えーと、確かに言ってないけど……じゃあトトちゃんが見つかったの?」

「違うよ。イチタローだ」

「へ? イチタローって……誰?」

「ミニチュア・シュナウザーだ。過程を飛び越えて結論にとびつくのは、きみの悪い癖だね。さあ早く!」

 不老は布団を乱暴にはぎ取った。

「まったくもう!」

 ため息をついて、ぼくは起き上がった。


日曜日9時02分

 昨日ぼくたちがステッキの男を追っているあいだに、高蔵たかくら愛菜まなのお母さんは、インターネットで「この子たちを探しています」という記事を見つけたという。そのウェブサイトには、行方不明の犬や猫の情報がまとめられていた。そのサイトで高蔵愛菜のお母さんは、フラン姫が失踪した公園の近くで同様に姿を消した犬の記述を発見した。時期は、ちょうど一週間前、先週の土曜日のこと。そこで、ウェブサイトに掲載されていた飼い主の連絡先にメールを送ったところ、五分と経たずに返信が届いた。

 その返信の内容に、高蔵家の三人は驚いた。

 一つは、失踪した犬――イチタローの飼い主が、高蔵家のごくごく近所に住んでいるということ。

 もう一つは、失踪の四日後、今週の水曜にイチタローが見つかったということだった。

不老ふろう君、御器所ごきそ君、遅いよ!」

 公園でキム銀河ウナが呼びかけてくる。その隣で本郷ほんごうあずさも手を振っていた。二人の立っている脇のベンチには、一人の若い女性が座っていた。

 イチタローの飼い主、砂田すなだ麻緒まおさんだった。足元にまとわりつく茶色で丸っこい塊――愛犬のイチタローのやさしく頭を撫でていた。

「はじめまして。本物の『少年探偵団』に会えるなんてうれしいな!」

 砂田麻緒さんは、高蔵家から歩いて五分もかからないマンションで、ミニチュア・シュナウザーのイチタローと二人暮らしをしていた。

 イチタローが姿を消したのは、ちょうど高蔵愛菜のお父さんと同じような状況だったという。先週土曜日の夕方のことだった。砂田さんは、イチタローと散歩していた。途中、スーパーに寄って買い物をするのが砂田さんの日課だった。いつも入り口近くの柵にイチタローのリードを繋いで、十分程度で手早く買い物を済ませるのがいつもの習慣だった。

 が、その日、買い物を終えて外に出ると、イチタローは消えていた。

「わたしは両親を早くに亡くしたから、わたしにとってイチタローだけが唯一の家族なの。イチタローがいなくなった日の夜は、あちこち走り回って探したけど見つからなくて、一晩大泣きしてた……」

「親切な人が見つけてくれて、よかったですね」

 本郷梓がやさしく声をかけた。

「ほんとに幸運ね。ネットで迷子のペット探しのお手伝いをしてくれる人を見つけて、ダメ元と思って連絡してみたの。久屋さんには頭が上がらないな」

 そう言った砂田麻緒さんがはっと顔を上げた。

「あっ、噂をすれば影! 久屋ひさやさん、こっちこっち!」

 砂田さんは立ち上がり、公園の南側に向かって手を振った。

 そちらを振り返ると、見覚えのある人がそこに花柄の日傘をさして立っていた。

 そうか、思い出した。一昨日の金曜日にまさにこの公園で「この子たちを探しています」と書かれたチラシをぼくたちにくれたおばさんだった。

「あらっ? あなたたち、前にもお会いしたわよね」

 顔を輝かせて、日傘のおばさん――久屋さんはぼくたちに歩み寄ってきた。

「どういった経緯で、イチタロー君を発見したのですか?」

 それまで口を閉じていた不老翔太郎が、単刀直入に久屋さんに向かって訊いた。

「見つけたのは、わたしじゃないのよねえ。その方、お名前はお出しになりたくないとおっしゃってるの。だから、かりに『Xさん』にしましょうか。お散歩途中に、ふらふら歩いてるワンちゃんをXさんが見つけたんですって。今どき野良犬なんて珍しいし、ちゃんと首輪も着けているでしょ。おうちに連れて帰って、わたしに連絡をくれたの。その話を聞いてすぐに、この子はイチタロー君に間違いない、ってわたしはピンと来たわ。それが火曜日のことよ」

 久屋さんがそう言うと、砂田さんは思い出したように、目頭を押さえて涙ぐんだ。そして、いっそうやさしげにイチタローの頭と背中を撫でる。

 本郷梓が久屋さんを振り向いて訊ねた。

「じゃあ、イチタロー君は誘拐されたんじゃなくて、迷子になっていたってことなんですか?」

 すると不老が、人差し指を顔の前に立てた。

「そうとも限らない。イチタロー君は、誘拐犯のもとから自力で脱出した可能性もある。砂田さん、イチタロー君に変わったことはなかったんですね? 怪我をしたり、危害を加えられた形跡は?」

 不老の問いに、砂田さんはかぶりを振った。

「イチタローはとても元気だったわよ。怪我もしていないし、痩せてもいなかった。だからイチタローが帰ってきたとき、心の底から安心して、うれしくて大泣きちゃった」

「イチタロー君が発見された状況を知りたいのですが、その『Xさん』なる人とお会いできますか?」

「それがねえ……ほんとうに表に出たがらない方なの。お話は聞いてるから、経緯はわたしがお教えできるわよ」

 不老が訊くと、久屋さんは渋面を作った。

 けれど不老は、身を乗り出して久屋さんに言った。

「ぜひ教えてください。まずは、発見場所を!」


日曜日9時19分

 久屋さんが案内してくれたのは、公園から南西へ歩いて五分ほどにある南北に走る細い道路だった。

 殺風景で車の通りが少ない道だったけれど、道路の西側は大型ショッピング・モールの建物の「背中側」で、東側はL商業高校の敷地との境になっている垣根だった。高校の校庭からは、日曜の朝だというのに、サッカー部とテニス部が練習してるのが見えた。そのほかにも、部活に向かう生徒たちがぼくたちを怪訝そうに見ながら、次々に通り過ぎて行った。

「Xさんがここをお散歩していたとき、向こうからワンちゃんが近づいてくるのが見えたそうよ。フラフラで力が入らないみたいだったの」

 久屋さんは道路の北側を指さした。

「きっと迷子になって周りに誰もいなくて、ワンちゃんは寂しかったのね。その場にいたのがXさんだけだったから、頼りにして近づいたみたいなの」

「ほう」

 つぶやくように不老が冷ややかな声を漏らした。

「そこでXさんがワンちゃんに近づくと、このイチタロー君は逃げようとせずに、駆け寄ってきたんですって」

 久屋さんが答えた。

 それを聞いて、砂田麻緒さんはまた眼に涙を浮かべた。しゃがみ込むと、足元にまとわりつくイチタローを撫でた。

「イチタローって人見知りだから、ほかの人にはめったに近づかないの。迷子になってよっぽどつらかったのね。ここにたどり着く前、きみはどこにいたのよ?」

 砂田麻緒さんの言葉を理解しているのかいないのか、イチタローは尻尾をちぎれんばかりに振って、砂田さんの手をめまわした。

「発見時刻は、水曜の何時のことですか?」

 不老があくまでも冷静を貫きながら訊いた。久屋さんは少し意外そうな面持ちになった。

「確か……ちょうど今頃だったんじゃないかしら。どうしてそんなことを知りたいの?」

 それには答えず、不老はさらに問いを重ねた。

「久屋さんのところへXさんから連絡があったのは、何時ごろですか?」

「そうねえ……夕方の六時ごろだったかしらねえ」

 不老は唇に人差し指を当てたまま、軽くうなずいた。

「なるほど。実に参考になりました」

 言うなり、不老はつかつかと道路の北側へと早足で歩き出した。ぼくたちも慌ててそのあとを追いかけた。

 不老翔太郎は片側二車線の通りと交差する場所へ来ると、あたりを見回した。東西に走る車道は人通りも車の通りも多かった。すぐ左手のショッピング・モーの駐車場にひっきりなしに車が入っていく。

 不老はくるりと久屋さんのほうを振り返った。

「ここで見るべきものはすべて見ました。我々はここで失敬いたします。フラン姫についてのどんな些細ささいな情報でも、すぐに高蔵さんに伝えてください」

「それはもちろん」

 久屋さんはにっこりと微笑んだ。

 不老は歩きかけたが、くるりと久屋さんのほうへ向き直った。

「それからもう一つ」

 不老翔太郎は、格好つけたように右の人差し指を顔の前で立てた。

「Xさんは迷子の犬を見つけることに対して、端倪たんげいすべからざる才能をお持ちのようですね。フラン姫もきっとXさんが見つけてくれるものと期待していますよ。では、あずささん、銀河ウナさん、お二人は愛菜まなさんの家に行って、今の情報を伝えてくれたまえ」

 早口でまくしたてた不老は二人に歩み寄ると、急に声を低めた。

「それにもう一つ。もしも愛菜さんとご家族が、自宅の近所でフラン姫を探しているのならば、その必要はないと伝えてくれたまえ。フラン姫は迷子にはなっていない」

 本郷梓が短く「えっ」と声をあげる。

「迷子じゃないなら、フラン姫はどこにいるの?」

「フラン姫はやっぱり誘拐されて、監禁されてるの?」

 金銀河が深刻そうな表情になりながらも小声で言った。隣の本郷梓の顔が、見る見るうちに青ざめていく。

 が、不老は憎たらしいくらいに冷静だった。

「フラン姫は無事さ。誘拐犯にとって、フラン姫を傷つける理由はまったくない。かすり傷一つつけずに大事にしているはずだ。それこそが犯人の目的なのだから」

 不意に、金銀河が不老に一歩踏み出すと、ぐいっとその顔を不老翔太郎に近づけた。

 ——近いっ!

 二人の距離は近すぎるじゃないか!……とぼくは思った。けれど、例によっていつものように舌が突っ張ってしまって、何も言えない。

「どういうこと? 誘拐犯は何を企んでるの? 誘拐犯が誰か知ってるなら、教えなさいよ!」

 声をひそめながら、問い詰めるように金銀河は言った。怒りながらも、ぼくたちの会話を砂田さんと久屋さんには聞かせたくないという不老の意図に感づいている様子だった。

 不老翔太郎は、女子にこんなにギリギリまで顔を近づけられているという現状をまったく自覚していないのか、まったく1ミリも動揺した様子はなかった。

「今の時点で僕には犯人が誰なのか僕にもわからない。けれど、彼あるいは彼女が何を企んでいるにせよ、フラン姫を傷つけることが犯人自身のためにはならない、ということはわかる」

 不老の返事を聞くと、金銀河と本郷梓は二人とも、すっと身を引いた。

「わかった。もういいよ、わたしと梓はきっとフラン姫を見つけてみせる。もう不老君にも御器所君にも頼らないから!」

 金銀河の声は怒りのいろをにじませていた。

「いや、そんな、一緒に見つけようよ……」

 ぼくが言いかけたが、不老翔太郎という男は、場の空気を読むことなんてできないやつだった。

「じゃあ御器所ごきそ君、僕たちは失敬しよう」

「はあっ?」

 ぼくは裏返った声を上げた。けれど不老翔太郎はぴくりと右眉を上げただけだった。

「大森家のマンションに行かなければならない」

「へ? 何? 誰? どこ? 大盛りって?」

「きみの質問は疑問符が多すぎるねえ」

 あきれたように言いながら不老は歩きかけた。

 が、くるりと久屋さんのほうへ向き直った。

「いつかXさんとお会いできるのを期待していますよ。では、我々はここで失敬します」

 いつものように小学六年生には到底思えない言葉を吐いて、不老は大仰にお辞儀をした。慌ててぼくもその真似をして頭を下げる。

 けれど、金銀河と本郷梓が哀しげに、そして腹立たしげにぼくと不老に強い視線を向けていた――その視線が、とてつもなく痛い。

「さあ御器所君、我々は急がなければ!」

 不老が駆け出す。しかたなしに、ぼくもそのあとを追いかけた。女子の視線が背中にグサグサ突き刺さるのを感じた。

 いったいぜんたい、どこまでぼくは不老翔太郎という男に引っ張り回されなきゃいけないんだ?


「フラン姫の失踪」第6部へつづく

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