第2話「フラン姫の失踪」第4部

土曜日20時08分

 二日前の木曜日午後六時頃、庭で遊んでいたはずのトトちゃん(チワワ・一歳半・メス)が姿を消した。

 飼い主は、岩塚いわつか美代子みよこさんというおばあちゃんだった。小柄で真っ白な髪、座布団の上にちょこんと座り、がっくりと憔悴しょうすいしている様子は、まるで置き物のようだった。その隣に座っているのは、美代子さんと同居している娘の智枝ともえさんだ。四十歳半ばで、独身。三年前に美代子さんが転んで骨折して以来、一緒に暮らしているとのことだった。

 ぼくたちはチラシを確認するためにもう一度コンビニエンス・ストアまで戻り、そこでチラシに書かれていた電話番号に連絡して、トトちゃんの飼い主である岩塚さんにコンタクトを取ったのだった。

 ぼくと不老ふろう翔太郎しょうたろう本郷ほんごうあずさキム銀河ウナの四人が通されたのは、南の庭に面した六畳間だった。ダイニング・キッチンと呼ぶにはもっとクラシカルな八畳間が北側にあり、中央の食卓には場違いな赤いノートパソコンが鎮座していた。

 庭に面して古風なえんがあり、南側のガラスの引き戸は全開になっていた。この時刻の風は、かなり涼しく感じられた。が、夜だというのに、外からは調子に乗ったセミがまだ鳴いていた。庭は薄暗く、その向こうの路地と住宅もまた、暗かった。

 岩塚家は、先ほどまでぼくたちがいた公園とコンビニエンス・ストアから歩いて三分足らずの場所にある、古風な一階建ての木造の家だ。バス通りから二本裏へ入っただけだが、静かで落ち着いた――ちょっと寂れた古い住宅地が拡がっている。

「電柱に貼ったチラシを作ったのは、智枝さんですね」

 不老が尋ねる。いつものように、相手が大人でも平気で下の名前を呼ぶことができるのが不老だ。とてもマネできない――マネたくないけど。

「ええ、そうよ」

「チラシの作成には、三年前まで大学でプリントを作っていたご経験が役立ったようですね」

「母はこういうことが苦手なので、チラシを作って貼るのを提案したのが、わたしなの」

「今お勤めの書店でも、手製のポップなどを作っておられるんでしょう」

「確かにそう……えっ? ちょっと今、何て?」

 急に、岩塚智枝さんが真顔になった。

「はあ、不老の悪い癖です」

 ぼくはとりつくろうように言って、頭を下げた。

「ほう、御器所ごきそ君にはわからなかったのかい?」

 不老はぼくに向かって右の眉を上げて見せた。

「わからないも何も、緊急事態にいい加減なことを言わないでくれよ。ぼくには何も見えないよ」

「何も見えない? その反対だよ、御器所君。君にはすべてが見えているはずだ。しかし、見たものから推論できないんだ。きみはいつだって、推論を引き出すのに小心過ぎるんだよ」

「じゃあ、不老は何を推論したってわけ?」

 不老翔太郎は、わざとらしく人差し指を顔の前に掲げた。

「隣のテーブルにあるノートパソコンは、七年前に発売された型だ。しかし赤いカラーのモデルは、大学生協限定で販売された特別版で、大学生もしくは大学教官しか買うことができない。そして今ディスプレイに表示されているワープロソフトは、発売当時のヴァージョンのままで、アップデートはされていない。大学関係者ならアカデミック価格で一昨年の春にはヴァージョン・アップできたはずだが、それを行なっていないということは、もはや大学には在籍していないんだ」

「確かに不老さんの言うとおり、大学で国文学の非常勤講師をやってたわ。じゃあ、今書店員をやってることは、どうしてわかったのかしら?」

 岩塚智枝さんが訊いた。

「推理を披瀝ひれきするのもお恥ずかしい程度ですよ。あちらの壁際にハンガーで吊るされているのは、昨年開店したばかりの書店で、書店員によって使用されているエプロンに酷似している。いっぽう、智枝さんの両手の指に合計四ヶ所も絆創膏が貼られていることで、紙によってしばしば怪我をしてしまう書店員だと確信できたのです」

 いつものことだけど、言われてみればどうと言うことのない「推理」だった。不老の涼し気な表情が、ほんとうに憎たらしい。

「すごいわねえ、探偵さんみたい」

「僕が唯一知っている『私立探偵』と同類とは思われたくないですね。少なくとも僕自身は、論理の信奉者であるという自負がありますよ」

 得意げに不老翔太郎は言った。たまには普通の小学六年生的な言葉を使ってみたらどうだ、とぼくは思う。

「頼もしい方に来ていただいたわね、お母さん」

 岩塚智恵さんは、隣の美代子さんに向かって微笑みかけた。

「トトちゃんから眼を離したのは、ほんの三分ばかりだったの……」

 か細い声で、毛羽立った畳に向かって、岩塚美代子さんはつぶやいた。

 夕方の六時という時刻はいつもだったら、智枝さんが書店の仕事から帰ってきているはずだった。けれどその日は書店員の同僚の一人が病欠したために、智恵さんの帰宅が七時過ぎになってしまったという。

「いつも晩ご飯のしたくしているあいだは、トトちゃんを庭に出してるんですよ」

 岩塚美代子さんが続けた。

「それがトトちゃんにとって習慣になっていたのですね?」

 不老が尋ねる。

「ええ。晩ご飯のあと、ちょうど今頃、八時前にお散歩に連れていくのが日課だったんですよ」

 美代子さんは寂しげに答えた。

「これまで、庭の外に怪しい人物を目撃したことはないんですね?」

「この辺、人があまり通らないから、怪しい人なんかいたら、すぐわかります」

 岩塚美代子さんが断言する。

 そこで金銀河が問いかけた。

「ステッキを持った年配の男の人が、うろついていなかったですか?」

「ステッキ? 見たことないですわねえ。智枝ちゃん、見たことある?」

「いいえ、わたしも見たことないわよ。そんな人がいたら、すぐに気づくはずです」

「現場を見せていただきましょう」

 不老は言い、ぼくたちはトトちゃんが姿を消した庭へと移動した。

 すでに日は落ちて、庭はかなり暗かった。

 庭は二坪くらいの狭い場所だった。しばらく長い間、手入れはされていない様子だった。落ち葉や枯れ葉が積もった腐葉土の上に、雑草が生い茂っている。ひょろりとした一本の痩せた木が立っていた。庭は南側の道路に面していて、サザンカの生垣はところどころ、穴が空いていた。

 不老翔太郎は濡れ縁の前に置かれていた汚れたサンダルを履くと、ぐるぐると庭を歩き回り始めた。

「雨で流されてしまったか……」

 不老は独りごち、膝が汚れることもいとわずに雑草の上にしゃがみ込み、這いつくばった。キョロキョロと周囲を見回す仕草は、犬そっくりだ。

 と、不老はすっくと起き上がって走り出し、庭から母屋を回り込んで玄関のほうへ姿を消した。ややあって、生垣に開いた穴の外から、腕がニュッと庭に向かって伸びてきた。

御器所ごきそ君、こっちへ!」

 家の外の道路に出た不老の腕だけが、庭の中で手招きする。ぼくは、もう一足の汚れたサンダルを突っかけ、庭に駆け出した。

「見たまえ、御器所君。枝が折れているのがわかるかい? 新しく折れた痕跡だ。それに、御器所君、きみの足元だ」

 外の道路上から不老が言う。その人差し指が、庭の地面を指差した。その先を視線でたどると、何か一センチ程度の茶色い塊が腐葉土の上に転がっていた。

 小石かと思ったけれど、拾い上げるとブヨっと柔らかい。思わず取り落としそうになった。

「うわっ、何これ? 気持ち悪っ!」

 ぼくは、生垣に向かって手を差し出した。

「トトちゃんは、まさにここで拉致された」

 不老の声が静かに言った。

「ええっ?」

 ぼくと本郷梓、金銀河の三人は同時に声を上げた。

「それは魚肉ソーセージだよ。おそらくそれを文字通りのエサにして、庭で遊んでいたトトちゃんをおびき寄せたんだ。警戒心なく近寄ってきたところを、犯人はつかみ、この穴から引きずり出した。ほら、この折れた枝先を見たまえ。付着しているのは、犬の毛に相違ないよ」

 不老が枝の先から、小さなクリーム色をした毛の塊を取った。

 その言葉に、和室から岩塚美代子さんが声をかけた。

「トトちゃんは吠えなかったわ。あの子の鳴き声が聞こえたら、わたしは台所から飛んでったはず。あの子は人見知りなんですよ。知らない人に黙ってついていくようなことは、あり得ない……」

「ほんとに知らない人だったのかな……?」

 本郷梓がつぶやくように言った。

「どういうこと?」

 キム銀河ウナが訊く。

「トトちゃんは犯人と顔見知りだった、ってことはないのかな?」

「ほほう、なぜそう思うのかい、梓さん」

 生垣の向こうから、不老が言う。すると本郷梓は、ちょうど不老が立っているであろう庭の生垣を指差した。

「その夜のトトちゃんの奇妙な行動だよ」

「トトちゃんは何もしなかったんじゃないの?」

 ぼくは口を挟んだ。

「それこそが奇妙な行動なのさ、ねえ梓さん」

 不老が生け垣の向こうから言った。そのニヤニヤと勝ち誇った表情が眼に浮かぶ。

「そっか、トトちゃんは吠えなかったんだ!」

 金銀河が声を上げた。

「えーっと……何の話してるのかわかってないのって、もしかしてぼくだけ?」

 口に出したけど、もしかしなくても、ぼくだけのようだった。

 本郷梓は勢い込んで言った。

「ここから生垣の向こうの不老君の姿はよく見えないよね。だから、トトちゃんが毎日庭で遊んでいるあいだに、以前からずっと誰かがこっそりと――今、不老君が立ってるところから――エサを上げていても、室内からは気づかないかも、って思ったの」

 本郷梓はそう言って、岩塚美代子さんと岩塚智枝さんのほうを振り返った。

「気づかないことは、ないと思うわ……」

 岩塚美代子さんはそう答えたが、確信はなさそうだった。

「梓さん、実にいい推理だ。ほら御器所君、君の左足の爪先のあたりに落ちているものがわかるかい? 僕には手が届かない。きみが拾ってくれ」

 もう完全に不老の言葉はぼくへの命令形になっていた。しゃくだけれど、ぼくは足元を見やった。確かに、焦げ茶色をした小石状のものが落ちている。またブヨブヨしてたら嫌だなぁ、と思いながら拾い上げた。それは多少硬くなっていたけれど、やっぱり小石ではなかった。

「これも魚肉ソーセージ?」

 ぼくは生垣の穴に向かって、手のひらの上のそれを差し出した。

「そう。変色して固まっているのは、一度、天火にさらされて乾燥してしまったためだ。蟻がかじった痕跡もある。つまりこれは、トトちゃんが失踪した木曜日に与えられたものとは違う。もっと以前にここに持ち込まれたんだ」

 金銀河が、腕を組んで思案げな表情になった。まるで不老翔太郎にそっくりだ。

「トトちゃんを誘拐した犯人は、以前からトトちゃんを魚肉ソーセージで手なづけて、着々と誘拐の準備をしていたというわけなんだね。だから木曜日の夜、連れ去られそうになっても、トトちゃんは吠えなかった」

「ちょっと待って」

 不意に本郷梓が口を挟んだ。

「一昨日の木曜日って、愛菜まなちゃんがステッキの男の人に『おこづかいあげる』って声をかけられた日でしょ? 犯人はあの日、フラン姫を誘拐できなかった。そこで計画を変更して、前から狙っていたもう一匹のターゲットのトトちゃんを誘拐したってことだよね? そこまでしてワンちゃんを盗もうとしていたの?」

 本郷梓の言葉にぼくもはっとした。

 なんという犯人の執念だろう。ゾッとしてしまう。

「フーダニットよりもハウダニットよりも、やはりホワイダニットこそが重大な謎なんだ」

 不老翔太郎がつぶやくように言った。姿は見えないけれど、生垣の向こうで、きっと唇にぴんと立てた人差し指を当てているに違いない。

 フーダなんとかやハウダなんとかって、以前にも不老は口にしていた記憶がある。何の意味なのか、いまだにわからないけれど。


土曜日20時44分

「わたしたち、次に何をしたらいいのかな?」

 自宅方面に向かうバスの車内で、本郷ほんごうあずさが不安げにつぶやいた。それはぼくもまったく同じ気持ちだった。あせるばかりで、もどかしい。

 そこで冷ややかな声を発したのは、不老だった。

「今、僕たちにできることは、帰って充分な睡眠をとることだよ。脳の休息がなければ、論理は手からこぼれ落ちてしまう」

「冷たいんだね、不老君は」

 キム銀河ウナはショックを受けた様子だった。

「冷静さと冷酷さを混同しないでくれたまえ。僕は純粋に思考の機械でありたいだけさ」

 毎度毎度感じるけど、ほんとうに不老翔太郎はぼくたちと同じ小学六年か? けれど、が、悔しいけど一理以上あるのは間違いない。

 と、そのときだった。

 なんとなくバスの車窓の向こうに眼をやった瞬間だった。

 夜の道を背後に遠ざかっていく人影が見えた。

「ユタカ兄ちゃん……?」

 一瞬だけの姿が眼に入っただけだったけれど、間違いなかった。

 まだ〈御器所ごきそ組〉行儀見習いの立場で、夜に外出することなんか許されていない。「若い衆」の誰かにお使いを頼まれていたのかも、と思ったけど、我が家からは結構遠い場所だ。お使いのはずがない。

 それに、何よりもぼくの気持ちを落ち着かなくさせたのは、一瞬だけ見えたユタカ兄ちゃんの眼だった。

 アイ・オブ・ザ・デッド――死人の眼ではなかった。もっと暗く、切羽せっぱ詰まった、哀しげで、どこかしら痛々しいほどの眼だった。

 ほんのわずか一瞬、視界に入っただけなのに、なぜかそのときのぼくの視界にはっきりと突き刺さった。

 ほとんど何も考えることもなく「とまります」ボタンを押していた。

「御器所君、きみの家はまだじゃないか」

 不老がぴくりと眉を上げた。バスが停車するや否や、後先を考えることなくぼくは飛び出していた。

「明日話すよ!」

 ぼくは駆け出していた。


土曜日21時03分

 一人で誰かを尾行する経験なんて、ぼくには一度もなかった。けれど、きっとぼくにだってできるはずだ。

 ぼくは、ユタカ兄ちゃんの二十メートルほど背後から、後をけ始めた。

 追いかけながら、スマートフォンを取り出す。しかし、誰に連絡したらいいんだろう?

 ほんとうなら、ユタカ兄ちゃんの後見であるキタさんに連絡するべきなんだろう。けれど、組内くみうちで大きな問題になりそうだ。

 悩んで迷っている時間はなかった。とっさに、ノリ兄ちゃんにメッセージを送った。

 ――ユタカ兄ちゃんを見つけた。どうして外に出てるの?

 ほんの数秒後に返信が来た。

 ――どこ? あの野郎、スマキにして日本海に沈めてやる

 物騒なことを言う。正直、笑えない。

 ――ケンカでもしたの?

 ――いつもと同じ。掃除をサボってキタさんにしかられてた。ついさっきいなくなってるのがわかって、今みんな大騒ぎだ。あいつ破門だよ

 ぼくは地図アプリで現在位置を調べて、メッセージで送った。

 前方のユタカ兄ちゃんは、幹線通りを南にそれて、ゆるやかな下り坂を進んでいた。あたりは一気に静かな住宅地になっていた。

 スマートフォンが振動した。

 ――ユタカの野郎、勝手に実家に帰ろうとしてるっぽい

 ユタカ兄ちゃんの実家は、まさにぼくの目の前にある五階建てのマンションのようだった。ユタカ兄ちゃんは小走りになって、マンションの前に向かった。慌てて、ぼくも追いかける。

 マンションの南側には駐車場があり、今は半分くらいが埋まっていた。マンションと駐車場の間を東西に走る私道に、一台の車が路上駐車されているのが見える。

 さらにノリ兄ちゃんからメッセージが届いた。

 ――部屋番号は401

 ところが、ユタカ兄ちゃんはマンションの建物自体には向かわなかった。

 ユタカ兄ちゃんは真っ直ぐに、マンション前の私道へ向かって駆け出した。その先には一台のシルバーの軽自動車が路上駐車されている。

 ユタカ兄ちゃんは、シルバーの軽自動車に突進した。

 ぼくはただ呆然と、ユタカ兄ちゃんの姿を見ていることしかできなかった。

 ユタカ兄ちゃんが何か怒鳴った。何と言ったのかは聞こえない。

 そしてユタカ兄ちゃんが軽自動車のドアに手をかけた――その瞬間だった。

 もう一つの影が、暗い植え込みから飛び出してきた。長身で細身の人影は、まるでダンスでも舞うかのように、ユタカ兄ちゃんと軽自動車のあいだに身を割り込ませた。

「家に帰るんだ、ゆたか君」

 人影がユタカ兄ちゃんの手首を楽々とねじ曲げながら、静かに言った。その声には聞き覚えがあった。

 一瞬、くらくらっと眩暈めまいを感じる。

「え……ウソ……!」

 声が漏れた。

「手え放せよ! こいつ、ぜってえ許せねえ!」

 ユタカ兄ちゃんが身をよじった。が、次の刹那せつな、奇妙なことが起こった。ユタカ兄ちゃんの体がぐにゃりと力を失ったかのように、地面にへたり込んだのだ。人影はまったく力を入れているようには見えなかった。

 その一瞬後だった。

 停まっていた軽自動車が急に動き出した。ヘッドライトがまぶしく光る。

 その光は、ちょうどぼくが立っている場所を一直線に照らした。眼がくらむ。車が急発進する音が聞こえた。軽自動車は、タイヤをきしらせながら、あっという間に走り去ってしまった。

 出し抜けに、声が飛んできた。

「Well, well, well...誰かと思えば、千種ちぐさの生徒の少年探偵君じゃないか。奇遇だね。もう一人の背の高い名探偵君はどうしたのかな?」

「ひ、ひ、ひ、平針ひらばり……さん?」

 片手でユタカ兄ちゃんを軽々と押さえつけているのは、自称「探偵」の平針ひらばり左京さきょうだった。真夏にも関わらず、真っ赤なライダー・スーツの上下を着込んでいる。ウェイヴのかかった長めの髪が夜風になびく。口元に笑みが浮かんでいたが、その眼は笑っていなかった。

 ぼくたちの担任の先生である萱場かやば千種ちぐさ先生の自称・元カレであり、萱場先生の行動を探っている謎の男だ。

「痛えよ、離さねえと殺すぞ!」

 地面にいつくばったユタカ兄ちゃんがうめいた。

「裕君、落ち着け。亜子あこちゃんなら大丈夫だ。俺がずっと眼を離さなかったから、あの女は何もしていない。安心しろ」

 そう言うなり、平針左京が左手を這いつくばるユタカ兄ちゃんに差し伸べた。一瞬後には何が起こったのか、あっという間にユタカ兄ちゃんは立ち上がっていた。当のユタカ兄ちゃん自身が、いきなり自分が立ち上がっていることに戸惑っている様子だった。

「て、てめえ何なんだよ!」

 ユタカ兄ちゃんが怒鳴った。が、平針左京は表情を変えることなく、ぼくに視線を向けた。

「きみのところの若い衆だろう? お返ししよう」

「ど、どうして……」

 聞きたいことがいっぱいありすぎて、舌が突っ張ってしまう。

 いったい亜子ちゃんとは誰なのか? あの女とは? そもそもどうしてユタカ兄ちゃんを知ってる?

「うっせえ、放しやがれ! てめえ、誰なんだよ!」

「きみには名乗ってなかったな。俺は平針左京。探偵だよ」

 わざとらしい名乗りかただ。

「なんで探偵なんかがここにいるんだよ!」

「きみのお父様とは浅からぬ縁があってね。亜子ちゃんの安全を守るのも俺のミッションのひとつなのさ」

「ひとんちに近寄るんじゃねえ!」

 ユタカ兄ちゃんが平針左京につかみかかった。が、次の瞬間に平針左京はくるりと身をひるがえした。ユタカ兄ちゃんのパンチは空振りに終わった。

「イキることだけは得意なんだな。きみは〈組〉で人としてのマナーをちゃんと勉強したほうがいいぜ」

 平針左京が言い放ったそのときだった。

 不意に、新たなまぶしい光が両眼に飛び込んできた。私道の西側から、ハイビームにした車のヘッドライトがぼくたちを照らしたのだ。

 平針左京が、ぼくに顔を向けた。

「おっと、きみのお宅とは深く関わりあいになりたくないのでね。俺はここで消えることにしよう」

 言うや否や、平針左京は身をひるがえし、ぽんとユタカ兄ちゃんの体をぼくに向かって押し出した。

 平針左京の姿は、駐車場の東側の暗がりへとすぐさま消え去ってしまった。

 まばゆいヘッドライトの光が近づいて来る。一台の黒塗りの高級セダンが停車するのと、暗がりから爆音を立てて真っ赤な大型バイクが飛び出すのは同時だった。平針左京の乗った大型バイクは、あっという間に夜の暗がりのなかへと姿を消してしまった。

 黒塗りのセダンの助手席のドアが開くと、飛び出してきたのはノリ兄ちゃんだった。

「ユタカ、この野郎!」

 怒鳴り声を上げてユタカ兄ちゃんに摑みかかろうとするのを、ぼくは割って入った。

「待ってよ、ノリ兄ちゃん! ユタカ兄ちゃんにだって、きっと事情があるんだよ!」

「事情? そりゃ、俺らみんな『事情』があるよ! だから〈組〉の世話になってんだ。こいつだけが不幸を背負い込んでるわけじゃねえよ」

 ユタカ兄ちゃんが口を尖らせた。

 すると車の運転席から、野太く鋭い声が飛んだ。

「こらノリ! お坊ちゃんになんてえ口の利きかたしやがる」

 ハンドルを握っていたのは作務衣さむえ姿のキタさんだった。キタさんにうながされて、ぼくたちは車に乗り込んだ。ぼくとノリ兄ちゃんが後部座席、ユタカ兄ちゃんは助手席に。

「お坊ちゃん、お手をわずらわせてしまい、たいへん申し訳ございません。こいつら二人とも、きつく絞っておきます」

 キタさんはそう言い、車を急発進させた。

 ぼくはただ、黙ったまま助手席のユタカ兄ちゃんの後頭部を見つめることしかできなかった。


「フラン姫の失踪」第5部へつづく

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