第2話「フラン姫の失踪」第3部
土曜日18時29分
まだ夕方の光は残り、セミも鳴いていた。
ねっとりとからみつく夕方の空気の中、ぼくたちは汗だくになって公園に着いた。
公園の周囲には、ジョギングをする人、誘拐犯の存在など知らずに犬の散歩をする人がいた。公園内の北西の一角、
ぼくたちは、フラン姫の散歩コースをもう一度たどるようにして進んだ。
フラン姫が失踪したコンビニエンス・ストアまで行くと、
「見たまえ、ここにリードを留めたわずかな痕跡がある。地面にはタイヤ痕が残っているね。ふだんは、駐輪スペースとして自転車が停められているようだ。僕は自転車のタイヤ痕は四十三種類知っている」
「へ? ほんとに?」
茶々を入れてみたけれど、不老には完全に黙殺された。
「不老君、
タイヤ痕の写真をスマートフォンで撮影しながら放った金銀河の言葉は、実に冷静だった。不老はそれを聞き、にやりと笑みを浮かべた。
「さすが銀河さんだ。僕の推理方法をちゃんとわかっているね。この御器所君は、いまだに理解できないんだよ」
「はいはい、どうもすみませんね」
ぼくはつぶやいた。不老はやっぱりぼくの言葉を黙殺した。しかたなく、ぼくも金銀河にならって、スマートフォンで周囲の光景の写真を撮り始めた。何の役に立つかわからなかったけど。
「この場所は、庇が長く伸びているので雨宿りに利用可能だ。しかし、店内からは死角になっている。防犯カメラの映像は期待できないな」
不老は眉をひそめた。
「かりに防犯カメラに手がかりが映ってても、その映像なんか見せてもらえないよ」
ぼくが言うと、不老はさらに冷ややかな視線を向けて来た。何も返事せずに、スタスタと店内に入って行く。急いで追いかけた。
「なるほど、あなたは今日の日中から、ここのレジに立っていらっしゃったんですね? ちょうど大雨が降り出したころです」
不老は何も買いもしないのに堂々とレジの前で「聞き込み」を始めていた。
「そう。すごい雨だったね」
胸に「ぐぷた」と書かれた名札を着けた、小太りの若い男性店員が真っ白な歯を見せて、ニコニコ笑いながら答えた。
「そのとき、まさに店の外で犬の誘拐事件が発生したことには、お気づきでしたか?」
「ユーカイ? ああ、傘を買って出てったお客さんが、走って戻って来たね。大騒ぎで、てっきりHold upかと思って、police呼ぼうかとしたけれど、急いで出てっちゃったね」
「その人が犬を連れていたことも気づかなかったのですね?」
「犬? いなかったと思う。私、犬大好き。犬を誘拐した悪い人いるの? 許せないよ!」
店員さんは怒り顔で首を振った。
本郷梓が、すかさず自分のスマートフォンを店員に見せた。
「この子なんです。名前はフラン姫。カニンヘン・ダックスフンドです」
スマートフォンに画面に映し出されているのは、高蔵愛菜から送ってもらったフラン姫の写真――正確には、フラン姫を中心にした高蔵家の家族のスナップ写真だ。芝生の上で、みんなが満面の笑顔をカメラに向けている。フラン姫も口角が上がって、笑っているように見えた。あらためて、ぼくの胸の奥に怒りと焦りが沸き起こって来た。
「Wow, so pretty! カワイイね! 早く見つかるといいね」
店員さんはほんとうに心底犬好きのようだった。
「今日の防犯カメラの映像をみせてもらえますか?」
平然とした面持ちで不老は訊いたが、店員さんは急に眼を白黒させた。
「No, no! Backyard入っちゃダメ。お客さん入れたら、店長に怒られる」
「当然ですね」
自分から訊いておいて、不老はぴくりと右の眉を上げただけだった。
「何か思い出したことや、気づいたことがあったら、教えてください。梓さん、アドレスを」
本郷梓は店員さんからメモをもらって高蔵家のメールアドレスを書き残した。不老はすぐに店から出て行った。
ぼくはなんだか店員さんに申し訳なくなって、とっさに手を伸ばしてガムを適当に一個取り、「これください」とレジに差し出した。
店を出て気づいた。ガムには「ウルトラ・ストロングミント 眠気超スッキリ!」と書かれていた。ぼくにはいちばん要らないやつだった。
土曜日18時46分
「もうここで見るべきことはない」
不老翔太郎は、いまいましいほどに冷たく言い放った。
「えっ? でも……」
本郷梓が悲しげな声を上げる。
「店内のカメラの角度を確認したが、フラン姫がつながれていた場所は映すことはできない。目撃者もいない。物証が何もないんだ。さて、果たしてフラン姫がほんとうにここで誘拐されたのか?」
「はあ、何言ってんの? 愛菜さんのお父さんが嘘をついてるって言うのか?」
思わずぼくは叫んでいた。
「わずかでも可能性であるならば、僕はいかなる選択肢も排除しない。例えば、愛菜さんのお父さんが慣れない犬の散歩をしている最中、ついうっかりフラン姫を逃してしまった。その失態を取り
「不老君、そんなこと言っちゃダメだよ!」
本郷梓が、胸元で両の拳を強く握り締めていた。
けれど、不老翔太郎という人間は、どこまでも冷酷なやつだった。
「僕は考える機械なんだよ、梓さん。僕は頭脳なんだ。そのほかはただのおまけ、付録に過ぎない」
ほんとうに腹の立つ男だ。こいつには人間の心がないのか?
「無論、僕だって狂言誘拐だと信じているわけではないさ。かりに、愛菜さんのお父さんの言うとおり、この場所で、ごく短時間のあいだに誘拐が行われたとするなら――」
「不老! 『かりに』じゃないよ、ほんとうに誘拐されたんだ」
「言葉遊びに費やす時間はないんだ、
「い、いや……」
ぼくが口ごもると、本郷梓がぱっと目を見開いた。
「そっか! ゲリラ豪雨は予想できなかった。だから犯行は突発的だったんだ」
本郷梓がはっとして言うと、さらに金銀河が続けた。
「だったら、犯人は何かミスしてるに違いないってわけね!」
「実にいい指摘だよ、
不老が声を上げた。なんだか、一人だけのけ者にされた気分だ。よくあることだけど。
「ねえ、防犯カメラが役に立たなかったんだから、やっぱりステッキの男の人を捕まえに行くべきだよ!」
ぼくは身を乗り出した。不老翔太郎はぴくりと右眉を動かすと、
「確かに、今できることは御器所君の言うとおりかもしれないね、遺憾ながら」
そう言って、さっと道路に向かって手をあげた。
ちょうど通りかかったタクシーが、ぼくたちの前に停まった。
土曜日19時08分
交通渋滞に何度も足止めを喰らいながら、タクシーは目的地に到着した。
ぼくと
「おっと失敬! 僕としたことが、領収書をもらうのを忘れていたよ」
しれっと言い放ち、駆け出した。
「はあっ? マジ?」
また、ぼくから
激しく
「あんな立派なタワーマンション、簡単に入れないよね」
本郷梓がマンションを見上げて言った。自分自身が高級マンション暮らしだから、建物の内部には詳しいのだろう。
が、不老翔太郎はためらうことなく、一直線にタワーマンションに向かって進み続けた。
タワーマンションのエントランスは片側二車線のバス通りに面していた。まだ早い時刻だから車通りは多い。ちょうどマンションの敷地の周りの歩道をジョギングしている人も、何人かいた。エントランスは照明が
「ちょっと待ってよ!」
ぼくは呼びかけたが、不老は追いかけるぼくたちには眼もくれず、足早にバス通りからタワーマンションを右手へと回り込んだ。
不老翔太郎が向かっていくのは、明るいマンションの敷地でも薄暗い一角――地下駐車場へのスロープだった。
「ダメだよ、不老君!」
本郷梓が低く声をあげた。が、それを聞くような不老翔太郎ではなかった。
不老はまったく
スロープは緩やかに地下へと伸びていて、暖色系のオレンジ色の照明で明るく照らされていた。きっと、あちこちに設置された防犯カメラがぼくたちを見張っているに違いない。首のうしろがチリチリと冷たくしびれる感じがした。。
――もしかして、これって不法侵入?
だとしたら、うちの〈組〉にも迷惑をかけることになってしまうのか?
しかも、本郷梓のお父さんは県警の偉い人だ。もっと大きな問題にならなければいいけど。
ぼくの心配をよそに、不老はスロープを駆け足で下り切り、駐車スペースへと足を速めた。
地下一階と二階が駐車場になっているようだった。五十台あまりの駐車スペースには、約半分ほど車が停められていた。さすが高級タワーマンションだ。ずらりと並んでいる車はいずれも外国の高級車で、国産車はほとんど見られない。軽自動車など一台もなかった。
ドイツ、ドイツ、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ドイツ……並ぶ車の国籍を眺めているときだった。
「来たまえ!」
不老の鋭い声が飛んだ。
ぼくたちが駆け寄ると、不老は一台の黒いドイツ車の脇に立っていた。
「ステッキの人の車?」
本郷梓が訊くと、不老はうなずいただけで、ぐるぐると車の周りを見て回っている。時折しゃがみ込み、這いつくばらんばかりだ。まるでタイヤをなめ始めそうな勢いだった。
「ねえ不老、何か――」
訊こうとしたときだった。
声が飛んできた。
「君ら、何してるっ!」
野太い声。
「きゃっ!」
短く悲鳴をあげたのは女子たちではなかった——ぼくだった。
大きな人影が、駐車場の奥から歩み寄ってくるのが見えた。
駆け出して逃げようと思った。けれど両脚が突っ張ってしまって、動けない。
警備会社の紺色の制服を着た、でっぷりと太った中年の男の人が近づいてくる。右胸に「サンライズ警備保障」のロゴが入っていた。まるでアメリカ映画に登場する警察官のようだった。
「きみら、どこの学校? こんなところに勝手に入ってきちゃダメじゃないか」
「ごめんなさい! わたしたち、ちょっと探し物を……」
珍しく、金銀河も動揺しているようだった。その隣の本郷梓も、凍りついている。
険しげな表情でのしのしと近づいてくる大柄な警備員が、ふと足を止めた。
「あれっ? 梓ちゃんじゃないですか? 私ですよ、
警備員の声のトーンが上がった。
名前を呼ばれた本郷梓は、眼を白黒させていた。
「県警時代、本部長にたいへんお世話になった引山です。覚えておられませんか? まだ以前のお宅に住まわれていたとき、お邪魔したことがあるんですよ。梓ちゃんはまだ保育園に通ってらっしゃったかなぁ。大きくなりましたねえ」
「あっ、引山のおじさん……!」
本郷梓がはっと笑顔を見せた。
この太った警備員は、元警察官だったのか。どうやらぼくのことは知らない様子だった。いやもちろんぼくの「
「弱るなぁ。どんな理由であれ、勝手に入ってきたらダメですよ」
「ごめんなさい」
本郷梓と金銀河がぺこりと頭を下げた。ぼくも慌てて頭を下げる。
「スロープは車通りが多いから、こちらに来て」
引山さんと呼ばれた小太りの警備員は眉毛を八の字にして、ぼくたちを手招きした。
警備員のあとに続いて、ぼくたち四人は住人用のロビーへと案内された。まるで高級ホテルかデパートのエレベーター・ホールのようだった。
「このマンションに、兄が通っている予備校の先生がお住まいになってるんですが――」
地上階へ上がるエレベーターの中で、不老が不意に引山さんに向かって言いかけた。が、すぐに遮られた。
「こらこら、わかってて訊いてるな、きみは。大人を試しちゃいけないぞ。誰が住んでいるかなんていう個人情報は教えられないに決まってるだろう」
「これは失礼しました」
しれっとした表情で不老は右の眉をあげた。
「今日のところは、お父様には内緒にしておきますよ、梓ちゃん」
「ありがとうございます、おじさん!」
本郷梓のキラキラした眼でこんなことを言われたら、年齢性別問わずにみんなフニャフニャになってしまうだろう、引山さんのように。
しかし、警備員の引山さんは職務には忠実だった。ぼくたちはエレベーターから押し出され、タワーマンションの正面ゲートから外へと追い出されてしまった。
「もう時間も遅いから、早く家に帰りなさい」
引山さんは正面ゲートの前に立ちはだかって言った。
いくら本郷梓の笑顔を持ってしても、もう一度侵入を試みるのは無理のようだった。悔しいけれど、退散するほかなかった。
ずっと引山さんは、タワーマンションから離れるぼくたちをニヤニヤしながら見守っていた。
土曜日19時31分
「どうする、不老? これ以上近づけないよ」
タワーマンションから二ブロック離れた交差点でぼくは尋ねた。フラン姫が誘拐されてから、二時間以上も経つ。
割り込むように答えたのは
「ステッキの男の人が教えてる塾って、たぶん〈日進ゼミ〉だよ。塾にあたってみれば、いいんじゃない?」
「へえっ? どうしてわかったの?」
ぼくが訊くと、金銀河は唇をとがらせた。
「わたしだって、ずっと黙って不老君のあとをついてきたわけじゃないんだからね! 今までスマホで調べてたんだよ。ステッキの男の人は、塾の先生なんでしょ? 塾で授業を終えた帰り道に、フラン姫を誘拐しようと近づいたんだよね。ということはつまり、このマンションとステッキの男の人が教えている塾のあいだの地点に、梓たちが声をかけられた公園があるってことじゃない?」
「ほんとだ、確かにそう! 位置関係から塾の場所が割り出せるね。ここのマンションと
本郷梓が明るい声をあげた。
「小さな個人経営の塾も含めれば、地図の上でその直線上に、塾はいくつかあるよ。だけどステッキの男の人は、高校英語の先生なんでしょ? だったら、その塾のなかで大学入試専門の塾は一か所しかないよ。〈日進ゼミ〉本校!」
金銀河はそう言って、スマートフォンの画面を本郷梓にかざして見せた。
「銀河ちゃん、すごい推理! 〈日進ゼミ〉だったら、先生の数は多くないよね。年配の英語の先生なら、すぐに名前もわかるんじゃない?」
「ほら見て! 塾の公式サイトに時間割と先生の名前が載ってる!」
「ほんとだ。『現役生英語Aクラス』と『高校一年Fクラス』の授業がある! 担当講師の名前は……現役生のほうが『白川』で、高校一年のほうが『東』って書いてある。どっちかがステッキの人の名前なんだよ!」
女子たちだけで盛り上がっているのが、なんだかちょっと悔しい気分だ。
不老は文字通りに
「素晴らしい推理だ! しかし――」
不老が不意に言葉を止めた。その右眉がぴくりと上がる。いつの間にか、不老はスマートフォンを手にし、その画面を食い入るように見ていた。
「銀河さん! 君も現場の撮影をしていたはずだね!
そう言うや否や、スマートフォンを放り投げた。
「ぼ、ぼくの写真?」
大慌ててで腕を伸ばす。ギリギリのところでスマートフォンをキャッチすることができた。
またしてもぼくのスマートフォンだ。
いったい何度ぼくから掏摸を働くつもりなんだ?
文句を言おうとしたが、不老と本郷梓は、金銀河の差し出したスマートフォンの画面に顔を寄せ合って見入っている。
またしても、ぼくだけのけ者だ。悔しすぎる。
「あのぉ……」
口を挟もうとしたけれど、完全に無視された。
「ほんとだ! 銀河ちゃんの写真だとよくわかるよ! 拡大してみて!」
本郷梓が声をあげた。
「え? なになに?」
三人がますます密着してスマートフォンの画面にかじりついている。覗きこもうとしたけれど、悲しいことに、ぼくは身長が低い。
ますます悔しい!
「で、どうするの、これから?」
ちょっとふてくされて、ぼくは三人に向かって訊いた。
そこでようやく金銀河がスマートフォンをぼくに差し出した。
「さっきのコンビニの前の写真。わかる? 電柱に貼り紙があるでしょ」
金銀河に続いて、本郷梓が続いた。
「その貼り紙は、昨日はなかったよ。たぶん今日になって貼られたはず」
ぼくは画面内の写真を拡大してみた。
どうやら、個人がパソコンとプリンタを使って作ったチラシのようだった。犬と思しき写真が載っており、その上には文字が書かれているのが読み取れた。
――迷子の犬を探しています
「また誘拐?」
思わず、ぼくは声を上げていた。
「フラン姫の失踪」第4部へつづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます