第2話「フラン姫の失踪」第2部

金曜日19時03分

 帰宅するやいなや、ユタカ兄ちゃんが「アイ・オブ・ザ・デッド」を向けてきた。

 ぼくの背骨の上に黒板を置いて、そいつを爪でぎぎぎーっと引っ掻いたかのようだ。冷たくて痛い怖さが一気に背筋を駆け上がる。

 これで、五回目だろうか?

 ノリ兄ちゃんが「死者の眼――アイ・オブ・ザ・デッド」の名付け親だ。〈御器所ごきそ組〉若い衆のなかで、いちばんのぼくとの仲良しであるノリ兄ちゃんが、そう呼んでいる。

 新入りのユタカ兄ちゃんでも、ぼくが〈御器所組〉組長の一人息子であることを知らないはずがない。けれど、ユタカ兄ちゃんはいつも、ぼくにゾッとするほど冷たく、鋭く、痛い目線を向けてくる。いや、ほかの誰に対してだって、同じ冷たい目線を向けている。腹が立ちはしないけれど、組内くみうちでそんな大胆かつ無謀な行為に及ぶ人はほかにいない。だから、どうしてもぼくは必要以上に動揺してしまうのだ。

 ユタカ兄ちゃんは、つい二週間前に新しく〈御器所組〉に入って来たばかりの、十六歳の「行儀見習い」だ。

 仲良しのノリ兄ちゃんより一つ年下だけど、あと二歳くらい年下に見える。頭を丸坊主にした痩せっぽちの中学生と言っても、じゅうぶん通じそうだ。

 ユタカ兄ちゃんの本名は大森おおもりゆたかという。

 ぼくが我が家の門をくぐると、スーツをビシッと決めたゲンジさんと、モヒカン刈りのジンさん、そして金髪に作務衣さむえ姿のキタさんが「お帰りなさい、お坊ちゃん!」と庭で深々と頭を下げてきた。けれど、キタさんの隣に立って竹ぼうきを持ったユタカ兄ちゃんは、頭を下げることがなかった。

「おいこら、挨拶せいっ!」

 キタさんが無理やりユタカ兄ちゃんの頭をつかんでぐいっと下げさせた。

「あ、そんな……いいよべつに……」

 ぼくはみんなに愛想笑いを返した。

 そのときにユタカ兄ちゃんが見せたのが、五度目の「アイ・オブ・ザ・デッド」だった。

 キタさんに付き添われ、はじめてユタカ兄ちゃんがぼくたちの前で自己紹介の挨拶をしたとき、その声はほとんど聞き取れないくらいに小さかった。目線はうつろで、壁の向こうのどこか遠くを見ているようだった。かと言って、〈御器所組〉の面々を目の前にして緊張している様子もない。

 小学六年生のぼく自身、こんな「家」に生まれたわけだから、人生十二年のあいだに、いろいろなヤバい「眼」を見たことがある。

 一瞬で人を刺し貫きそうな凶暴な眼。誰から思いやりや同情を受けても、絶対的に拒絶する閉ざされた眼。常に怯えに満ちて涙に潤み、ゆらゆらと揺らぎながらおどおどと救いを求める眼……

 ユタカ兄ちゃんの眼は、それらのどれとも違っていた。

「なんか俺、あいつがちょっと怖いんだ」

 ノリ兄ちゃんが近づいてきて、廊下でこっそりとぼくに耳打ちするように言った。

「ノリ兄ちゃんだって、うちに来たばっかりのとき暴れてたよね。ぼく、怖かったよ」

 ぼくが言うと、ノリ兄ちゃんは一気に顔を赤くして頬を膨らませた。

「い、いや、俺、あいつに比べればよっぽど素直だったよ!」

 確かにそうだったかもしれない。

 ノリ兄ちゃんがはじめて〈御器所ごきそ組〉に来たとき、しじゅう、若水わかみずさんやキタさんやゲンジさんに叱られ、不貞腐ふてくされて壁をぶん殴って、さらに叱られるというループを繰り返していたものだった。まだ四年生だったぼくは、冷や冷やしながら部屋に閉じこもっていた。

「ユタカのやつ、内側がなんーも見えなくて不気味なんだよな。ほら、俺って前からちゃんと見えたっしょ?」

 ノリ兄ちゃんの言葉に、ぼくはうなずかずにはいられない。

 ユタカ兄ちゃんは、ほとんど声を発しない。ユタカ兄ちゃんの声を聞いたのは、たぶん二回くらいしかないはずだ。どんな声だったのか、思い出せないくらいだ。そして、その眼――怒りも哀しみも何も見えない絶対零度の眼。

 アイ・オブ・ザ・デッド。

 死人の眼。

 ユタカ兄ちゃんだって、ノリ兄ちゃんやキタさんやゲンジさんや、この〈組〉のほかのみんなのように、何か大きくて重くて暗いものを抱えて、ほかの場所にはいられなくなって、しかたなしにぼくの家――〈御器所組〉に身を寄せたはずだ。ぼくにとっては、新しい家族だ。新しい「兄ちゃん」だ。

 不意にノリ兄ちゃんが、ぼくの背後に向かって深々と頭を下げた。振り返る前に、声が聞こえた。

「二人してヒソヒソ話とは、何か悪だくみかな?」

 事務所の扉から顔を覗かせているのは、父さんだった。

「あ、お、お、おやっさん! すんません!」

 ノリ兄ちゃんが慌てふためいて、頭を深々と下げた。

 父さんがこの時刻に家にいるなんて、珍しい。今年の春、うちの組をめぐるトラブルが発生して以来、父さんはあちこち飛び回ることが多く、家を留守にしがちだった。

「一、ちょっといいか? 話がある。ノリ、おまえは謝らなくていいぞ」

 父さんに呼ばれるなんて、珍しいことだ。ちょっと緊張してしまう。

 ノリ兄ちゃんの心配げな視線を背中に、ぼくと父さんは「事務所」に入った。そういえば、我が家でありながら、この部屋に足を踏み入れるのはずいぶんと久しぶりだ。

 はっと気づいた。正面の壁に架けられていたはずの額がない。ぼくのひいおじいちゃん、つまり〈御器所組〉初代組長の筆による「任侠道」の書が、なくなっていた。

「座りなさい」

 ぼくは部屋を見回し、父さんのデスクのはす向かいのソファに腰を下ろした。父さんはジャケットのポケットを探った。煙草を取り出すのだろうと思ったが、父さんは「あ」と短く言って、すぐ手を出した。

 ぼくは、もう一つのことも気づいていた。デスクの上に灰皿がない。これまでは、直径が三十センチはあろうかというガラス製の重そうな灰皿があったのだが、今は姿を消していた。父さんは、煙草をやめたのか。

 ぼくがうっかりしているうちに、いろいろなものが少しずつ変化しているみたいだった。

「次の出校日はいつだ?」

「へ? ぼくの? えーと、来週の水曜日だけど」

 唐突な問いに、ぼくはアタフタしてしまった。

「その日は、萱場かやば先生も学校に来られるんだろうね」

「まあ、担任だから」

「萱場先生は元気なのかな?」

「たぶん元気なんじゃない? 風邪なんか絶対に引きそうにない人だし」

 どうして、父さんが萱場先生のことなんかを訊くんだろう? と思っているうちに、父さんはさらに言った。

「不老君とは、まだ仲良くしているのか?」

「仲良くっていうか……まあ、あいかわらず変わり者で、ときどき勝手に一人どっかに行っちゃうこともあるし、ぼくは振り回されてばっかり」

 父さんは「ふむ」と声を漏らした。

「父さんは、彼のことが心配だな」

「へ? 不老のこと? 心配? なんで?」

「不老君は、おまえと同い年なのに、多くのものを背負い過ぎている。それは、萱場先生も同じだがね」

 父さんは優しく言ったけれど、ぼくの胸の奥では、急に不安と不審がふくらんできた。

 父さんが不老ふろう翔太郎しょうたろうと会ったのは一回しかない。担任の萱場先生とは、一度も会ったことはないはずだ。不老翔太郎や萱場先生のことを急に気づかい始めたのは、どうしてだろう?

「なんで――」

「来年のことは考えているか?」

 父さんは、ぼくの問いに畳みかけるように言った。

「来年って……何?」

 父さんは唇をゆるめて少し笑った。

「もう中学生になるじゃないか。進路のことは、ちゃんと考えているのか?」

「いや、その……ふつうに、ぼくも中学校に行くんでしょ?」

 父さんはデスクの上から、薄っぺらいタブレット端末を取り上げると、立ち上がってぼくに歩み寄ってきた。

「母さんとも相談したんだが、この学校はどうだろう? 校則は厳しくない。それでいて、生徒にはしっかりと学力をつけてくれる。何より、生徒の自主性を大事にして、自由を重じている。いい学校だと、父さんと母さんは意見が一致しているんだ」

 タブレット端末の画面に表示されていたのは、隣の県にある全寮制私立中高一貫校のホームページだった。

 男子校のようだ。制服はないらしい。さまざまな教室の様子や、部活動の様子をとらえた写真が数多く掲載されていた。

「受験するの? それって、前々から勉強してないと無理じゃないの?」

「君は父さんや母さんと違って、頭の出来がいい。それに、ここの学校の理事長は、父さんの友人でね、特別な推薦枠に入れてもらえるんだ」

 タブレット端末に眼を落とした。

 全寮制の中学校に入る――考えてもみなかったことだ。なんとなく、不老翔太郎と一緒に地元の同じ公立中学に入って、今のクラスメイトの多くと机を並べて中学校生活を送るんだろうな、と漠然と思っていた。金銀河やほかの一部の生徒は私立中学受験をするだろうけど、それはごく少数で、小学校とほとんど変わらない、地続きの中学校生活が待っているのだろう、となんとなく考えていた。

「この中学、受けなきゃダメ?」

 ぼくは言った。

「いいや、君が望まないなら、父さんと母さんは強制はしないよ。しかし一つの選択肢として、考えてくれないかな」

「うん……考えとく」

 ぼくはつぶやき声で答え、タブレット端末を父さんに返した。

 父さんはデスクに戻り、椅子に体を預けた。それから不意に、ぼくに向かって、じっと強く鋭い視線を向けた。〈御器所組〉組長の眼だった。

「一、父さんは、もう君を子ども扱いはしたくないから、ちゃんと言おう。いいかい、これから中学生になる君だけじゃない。いろんな物事が、変わるときなんだ。父さんも変わる。この家も変わる。ちょうど、みんなが変わらなければいけないときが来たんだよ」

 大いに戸惑う。そんなことを急に言われても、いったいどうリアクションすればいい?

 父さんたちのやっている「仕事」というか「稼業」なんて、ぼくには全然関係ない。父さんたちが何をしているか、ぼくは全然知らない。知りたくもない。うちの〈御器所組〉が変わると言われたって、そんなことはぼくには1ミリも関係ないじゃないか。

 そう思いながらも、ぼくは父さんに何ひとつ言い返すことはできなかった。

 自分の部屋に戻ってから、父さんがぼくを「君」と呼んだのははじめてだ、と気づいた。


土曜日18時02分

「フラン姫が……フラン姫が誘拐されちゃった!」

 携帯電話から飛び出した本郷ほんごうあずさの悲痛な声が、寝ぼけているぼくの耳に突き刺さった。

 昼寝――というか夕寝のまどろみを吹っ飛ばし、高蔵たかくら愛菜まなの家に疾走した。暑くて暑くて、熱中症になりかけながら、高蔵家に着いた。

 招じ入れられたリヴィング・ルームには、昨日と違って二人多かった。背が高く髪は半白の男の人が、渋面じゅうめんで椅子に座っている。お母さんとかなり歳が離れているが、どうやら高蔵愛菜のお父さんらしい。その隣ではテーブルに突っ伏した高蔵愛菜が、肩を震わせながら泣きじゃくっていた。

 そしてまた、高蔵愛菜の隣に、不老翔太郎と本郷梓と――

「え? なんでいるの?」

 思わずぼくの口をついて出てしまった。口に出した瞬間に、大いに後悔した。

「わたしがいたら迷惑?」

 キム銀河ウナが、頬を膨らませていた。細身で長身、ノースリーブのTシャツにジーンズといういつものように男子っぽい姿だった。

 本郷梓が、慌てた様子で口を挟む。

「わたしが呼んだの。捜索するには、少しでも人が多いほうがいいでしょ?」

 金銀河の傷ついた表情と本郷梓の悲しげな声が、ダブルでぼくの心臓を貫く。痛い。女子からのこういう視線は、ほんとうに痛い。

御器所ごきそ君、遅いじゃないか。まさか居眠りでもしていたんじゃないだろうね」

 不老翔太郎は、この空気を読解するつもりはまったくない様子だった。

「いったいいつ誘拐されたの?」

 ぼくは不老に尋ねた。

 高蔵愛菜の隣のお父さんが、悲痛な表情を浮かべた。

「私のせいなんだ。昨日、愛菜から怪しい男の話を聞いて、少し心配になってしまって、今日は私がフランの散歩をすることにしたんだ」

 高蔵愛菜のお父さんは、今日はたまたま仕事がお休みだった。昨日の夜、怪しげなステッキの男の話を聞き、不安に駆られたのだという。

「調べてみたら、この近所でペット盗難というか、誘拐が続出しているらしいんだ」

「これ見て」

 すかさず本郷梓がスマートフォンの画面をぼくに向かって差し出した。

 ――この子たちを探しています

 大きな赤い文字が踊っていた。昨日、日傘のおばさんがぼくたちに渡して来たチラシと同じ文言だ。あのおばさんが作ったウェブサイトなのだろう。

 さらに不安感を増しながら、高蔵愛菜のお父さんはフラン姫を連れて、いつもと同じ時間帯に家を出た。そして、いつもと同じコースを進んだ。

 が、夕方の五時少し過ぎ――ちょうど、ぼくが爆睡している最中だ――この街を、土砂降りのゲリラ豪雨が襲った。かしましくセミが大騒ぎしている最中、空が急に暗くなり、まるで天の底が抜けたかのように、大粒の雨が一気に降り落ちて来た。バリバリと雷も激しく鳴り出した……らしい。ぼくは寝てたけど。

 ゲリラ豪雨が降り出したのは、高蔵愛菜のお父さんがちょうど公園に着いたときだった。が、そこにステッキの男の姿はなかった。

 激しい雨と雷のために、ブランコやジャングルジムで遊ぶ子どもたちは、いっせいに奇声を上げて、一緒に来ているお母さんたちのほうへ駆け出した。子どもたちとそのお母さんたちは、公園のなかで唯一屋根がある四阿あずまやへと駆け込んだ。

「なんでパパは行かなかったの!」

 高蔵愛菜が涙ながらに振り絞るように言った。

「パパも行けばよかったと、今なら思う。けれど、パパみたいなおじさんは……行きづらかったんだよ」

 つらそうに答えると、高蔵愛菜はいっそう激しく泣き出し、テーブルに顔を突っ伏した。

 が、不老翔太郎は、まったくこのリヴィング・ルームに充満する空気を読めていないようだった。

「そんな成人男性の過剰な自意識こそが、この事件を誘発したのです。きわめて短見かつ浅薄な決断でした。あなたは傘を買うために、フラン姫とともに公園の向かいのコンビニエンス・ストアへ向かった。そうですね?」

「ああ、コンビニ前の小さな庇のある自転車置き場の柵に、フランのリードを留めて、すぐに店に入って傘を買った。だからトータルで、ほんの三分もかからなかったはずなんだよ」

 不老翔太郎は、非情とも聞こえるような冷ややかな声で続けた。

「傘を買いに行って戻ってみると、それきりフラン姫は姿を消してしまったわけですね」

「パパの馬鹿!」

 嗚咽おえつしながら、高蔵愛菜が叫んだ。

「コンビニエンス・ストアの店内および店外で、不審な人物は?」

「店の中には、私しか客はいなかったよ。店の外にも、怪しそうな男なんて見かけなかった。急な土砂降りで、道ゆく人も少なかったんだ。すっかり油断してしまった。不老君、ぜひ手を貸してください」

 高蔵愛菜のお父さんは、がっくりと肩を落とし、頭を下げた。

「不老君、ステッキの男の人の家を見つけたんでしょう? 今からフラン姫を取り返しに行こうよ」

 本郷梓が身を乗り出した。

「まだあの男が誘拐犯だという証拠はない。しかし、フラン姫の身に危険が迫っている可能性は否定できないね」

 不老の言葉に、高蔵愛菜が泣き濡れた顔をはっと上げた。

「フラン姫、殺されちゃうの?」

「そんなことはない。そんなことはさせないよ」

 お父さんが高蔵愛菜の肩を抱きしめる。

 はじめて、ぼくにも事態の深刻さがひしひしと感じられてきた。いてもたってもいられないけど、何をやっていいのかわからない。

「どうするの、不老? 誘拐犯は身代金を要求して来たりするのかな?」

「無論、それはあり得る。愛菜さん、お父さん、お母さん、高蔵家のみなさんはご自宅で待機をお願いします。電話、メール、手紙、何らかの手段で誘拐犯が接触を試みて来たら、すぐに僕に知らせてください。警察にも相談したほうがいいでしょう。御器所君、梓さん、銀河さん、我々は現場に向かう。現場にこそ、解決の糸口が潜んでいる!」

 そして、ぼくたち四人は高蔵家から飛び出した。


「フラン姫の失踪」第3部へつづく

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