第2話「フラン姫の失踪」第1部

金曜日16時22分

「フラン姫があぶないの!」

 今にも涙がこぼれそうな両眼で訴えたのは、小学四年生の高蔵たかくら愛菜まなだった。

 不老ふろう翔太郎しょうたろうは、ぴくりと右の眉を上げた。

「ほほう、どんな危険か詳しく教えてくれるかな? おっと、その前に、姫というのは、つまり……?」

 そう言いながら、不老翔太郎は高蔵愛菜の足元に視線を向けた。

 ベージュ色のカニンヘン・ダックスフンドが、真っ黒くて丸く潤んだ眼を不老に向けながら、一心に短い尻尾をちぎれんばかりに振っていた。胴長で、短い手足。そして長い鼻面に垂れた耳。片腕で簡単に抱っこできるような、小さな小さな小型犬だ――これこそ「カワイイ」の塊じゃないか!

 ぼくは頬がゆるゆるになるのを止められなかった。

「うちのプリンセス、フラン姫。五月にうちに来たときより、かなり大きくなったんだよ」

 フラン姫が足早に不老に駆け寄った。すると不老はうろたえたように、つつつ、と後ずさった。フラン姫はそんな不老に興味を失ったのか、身をひるがえした。

「こんな可愛い子をいじめる人がいるの?」

 そう言ってフラン姫の前にしゃがみ込んだのは、本郷ほんごうあずさだ。フラン姫は本郷梓の手の甲を舐め始めた。

 今朝、本郷梓から数ヶ月ぶりに連絡が来たのである。

 八月に入り、すっかり夏バテ気味だったぼくの心は、振動したスマートフォンの画面を見た瞬間に、一気に踊り出したくなった。もちろん、今までぼくのほうからまったく連絡してなかったことは悪い。だから金銀河には怒られてしまう。

 しかしと言うべきか、やっぱりと言うべきか、次に本郷梓が送ってきたメッセージは「不老君と連絡取れる?」だった。

 やっぱりそう来るのか……脱力した。

 というわけで、ぼくと不老翔太郎は本郷梓と合流し、高蔵愛菜の自宅へとやって来たのだ。

 高蔵愛菜は、本郷梓と同じ小学校に通う三年生だ。わずか三学年しか離れていないけど、あらためて三年生と接すると、こんなに幼かったっけ? なんて思ってしまう。気のせいか、高蔵愛菜のお母さんもびっくりするくらい若く見えた。

「誘拐されそうなの!」

 高蔵愛菜はすがるような視線を本郷梓に向けた。いっぽうのフラン姫はというと、床の上にコロンと仰向けになり、あられもない格好でお腹を本郷梓にむき出しにしている。

「するときみは容疑者を目撃しているんだね?」

 不老が言うと、高蔵愛菜はきょとんとした表情で首を傾げた。

「不老君が訊いてるのはね、愛菜ちゃんは怪しい人と会ったことがあるの?ってことなの」

 本郷梓がフラン姫のお腹をなでながら付け加える。

「うん、あるよ。顎に短いヒゲが生えてる。いつも黒くて細いステッキ持ってるんだ。すごくおしゃれな感じのおじさん、って言うかおじいさんかな」

「ほほう、『いつも』と言うからには、その男と複数回遭遇しているんだね?」

 不老の言葉はいちいち面倒くさいが、その意味を三年生の高蔵愛菜も理解できたようだ。

「うん。見たことある。近所の公園でお散歩させてると、ニコニコしながら寄ってきて、『撫でてもいい?』って来たの」

「それが、最初の遭遇? いつのこと?」

「うーん、一週間くらい前。『いいですよ』って返事したら、すっごくフラン姫のことをよしよししてくれたの」

 高蔵愛菜の話によると、声をかけてきたのは身なりのいい、すらりと痩せた初老の男性。真夏だというのに、いつも肘当てのついたジャケットを着て、ハンチング帽をかぶっているという。

 ステッキのおじさんは、犬の扱いには慣れている様子だった。フラン姫もすぐにステッキのおじさんの前で仰向けになってお腹を見せた。

 翌日の夕方、フラン姫の散歩で公園に寄ると、やはりステッキのおじさんがいた――まるで待ち構えていたかのように。それ以来、散歩のたびにステッキのおじさんと出会い、よく話をするようになったという。

「きみが散歩に連れて行く時間は、いつも決まっているのかな?」

 不老の質問が少しずつ熱を帯びてきているのが、ぼくには感じられた。

「うん、愛菜は夕方の五時から散歩に行ってる」

「夏休み前も、きみがフラン姫を散歩させていたのかな?」

「ううん、愛菜は夏休みになってから。その前はパパがお仕事から帰ってきてから、夜中にお散歩してたの」

「では夏休み前には、その男はコンタクトして来なかった、と。なるほど、興味深い」

 不老翔太郎は、両の手のひらを合わせ、ゴシゴシと揉み手をした。すでに脳はフル回転しているようだ。

「愛菜さんが男に不審を覚えるようになったのは、いつからなのかな?」

「え?」

 不老の質問に、またもや高蔵愛菜は戸惑いの表情を浮かべた。

「きみは探偵たる僕に依頼しようと決めたわけだ。それはたいへんに賢明な選択だが、その決断に至る発端があったはずだ。それを教えてくれたまえ」

 不老翔太郎の口調に、高蔵愛菜は怯えたような面持ちになった。助けを求めるように、本郷梓に視線を向ける。本郷梓がすかさず助け舟を出した。

「ステッキのおじさんが、やさしくなくなったの?」

「うん……だんだん、変な感じになってったの」

「変な感じ? どんなふうに?」

 本郷梓が高蔵愛菜の眼を覗き込んだ。

「三回目に会ったとき、おじさんがフラン姫を散歩させたいから『リードを持たせて』って頼んできたの」

「きみはその要求を飲んだ?」

「つまり、愛菜ちゃんは言われたとおりに、リードを貸してあげたの?」

 またも本郷梓が「通訳」した。

「うん、ちょっと不安だったけど、おじさん、慣れてるみたいだった。フラン姫もおじさんになついてるから、リード渡して公園の外回りを一緒に一周したの」

 その翌日以降も、公園にフラン姫を連れて行くと、ほぼ毎回のようにステッキのおじさんが現れた。そのたびに「散歩をさせてほしい」と言い、高蔵愛菜は、少しずつ不審な思いを深めながらも、おじさんにリードを持たせてあげた。

 が、おじさんの「散歩」は、少しずつ距離を増して行った。公園の外回り一周から始まり、次の日には信号を渡った通りの向かいへ。その次には、おじさんが葉書を投函するという理由で、郵便ポストのある2ブロック先へ……。

 おじさんは脚が悪いはずだったが、早足ですたすたと進んでいた。あるときには眼の前で信号が赤に変わったのに、おじさんだけがフラン姫とともに先へ進んでしまい、あやうく取り残されそうになるくらいだった。

 そのときになってはじめて、高蔵愛菜は「おじさんは、フラン姫を連れ去ってしまうのでは?」という疑惑にとらわれた。フラン姫自身がまったく警戒心を見せていないこともまた、大きな心配のタネだった。

「そのことを、ママとパパには話したの?」

 本郷梓の問いに、高蔵愛菜はかぶりを振った。

「ううん、だって知らないおじさんとおしゃべりしたなんて言ったら、叱られるもん」

「しかし、それだけではまだフラン姫に差し迫った危機はないようだが?」

 不老の眼光がますます鋭くなった。

 高蔵愛菜は、救いを求めるような目線を本郷梓に向けながら、ためらいがちに言った。

「昨日のおじさん……愛菜におこづかいくれようとしたの」

「ほう?」

 不老の右の眉がぴくりと上がった。本郷梓の顔色も変わったように見えた。

「えーと、どういうこと?」

 ぼくは訊いた。

「きみは受け取らなかったんだね?」

 不老が重ねて質問した。

「うん、だって絶対ママに怒られるもん」

「その男は、おこづかいを渡して、君に何を要求したのかな?」

「ただ、『あそこのコンビニで好きなお菓子買ってきていいよ』って」

「ホントにそれだけだったの?」

 本郷梓が心配げに訊いた。

 確かに、一種の「不審者による声かけ事案」とも言える。

「ううん。それって絶対よくない気がして、リードを摑んで、走って帰って来ちゃった」

「おじさんは? 追いかけて来なかった?」

 ぼくが訊くと、高蔵愛菜の顔色が心なしか蒼ざめたようだった。

「来なかった、と思う。わかんない。後ろを見なかったから……あのおじさん、ホントに悪い人なの? なんだか怖くなって来ちゃった」

 不安そうな高蔵愛菜の面持ち敏感に察したのか、仰向けになっていたフラン姫が起き上がり、するすると高蔵愛菜に歩み寄ると、その鼻面を高蔵愛菜の足にこすりつけた。激しく振られる尻尾は、ちぎれそうだ。

「ふむ、もうすぐ四時半。散歩の時間だ」

 不老が言った。

「不老君、今日もフラン姫を散歩に連れて行かせるの?」

 本郷梓が問いかけた。

「無論さ。容疑者と接触できる好機なんだ」

 そして不老翔太郎は、ぼくたち全員を見回した。

「諸君、出発だ!」


金曜日17時05分

 夕方近いとは言え、八月の太陽は強烈さを失っていない。アスファルトからの照り返しもまだきつい。セミもやかましく鳴いている。

 高蔵たかくら愛菜まなは、いつもと同じ時刻に、いつもと同じコースをたどってフラン姫の散歩をさせた。普段は一人なのだけど、今日は本郷ほんごうあずさが隣を歩いている。ぼくと不老ふろうは、十メートルほど背後からついて行った。

 しかし、暑い。頭も体も蒸し焼きにされそうだ。汗がダラダラ流れて眼に入り、痛い。

 前方を歩く二人は、大きな麦わら帽子をかぶっていて、まるで姉妹に見えた。

 本郷梓の着る淡いブルーのワンピースがかわいいな、なんて思っているときだった。

「なるほど君の考えていることはよく理解できるよ、御器所ごきそ君」

「はあ? 何も言ってないけど」

「言わずとも、君の表情は雄弁さ。絶望のふちにある淑女に助けを求められたなら、紳士たるもの危険を省みるべきではない、そう言い思ってるじゃないのかい?」

「はあああっ? お、お、思ってないよ!」

 思わず顔が赤くなる。

「しかしね、御器所君。そういう女性差別的表現は、十九世紀末ならいざ知らず、現在においては時代錯誤だと言わざるを得ないね」

「だから、そんなこと思ってないってば!」

 抗弁するや否や、不老が不意に人差し指をぼくの唇にぐいっと押し当てた。「しーっ!」

 そんなに唐突な行動は、ほんとうにやめて欲しい。ますます顔が赤くなってしまうじゃないか。

 不老がぼくの二の腕を摑む。不老に引きずられるように、ぼくたちは電柱の陰に移動した。身を寄せ合うようにして隠れた。

 ちょっと待て。距離が近い! 近すぎる!

 ぼくは不老の体を押しのけた。

 その公園は、ごくごくふつうの、ありふれたものだった。砂場、ブランコ、ロケットの形をしたジャングルジム、カラフルなすべり台、鉄棒、そして公園の中央は、バレーボールをするには少し狭いくらいのスペースがあった。そこでは、幼稚園児と思しき子どもたちが四、五人駆け回っている。その子たちの親なのだろう、数名の女の人たちが鉄棒の前でおしゃべりをしていた。

 その反対側には四阿あずまやがあり、屋根の下には四人くらい座れるベンチがあった。そこには今、中年の女性が座っていた。

 高蔵愛菜と本郷梓、そしてフラン姫が右手に曲がって、公園に入った。

 ぼくと不老は電柱の陰から、二人と一匹の様子をうかがった。

 高蔵愛菜たちは、すぐ右手のすべり台のほうへと向かった。

 ありふれた公園の風景だ。平和でのどかで、セミの声以外は静かだ。誘拐犯が潜んでいるようには見えない。

 立ったまま待つのが、だんだん疲れてきた。とにかく、暑い。とっととクーラーの効いた部屋に帰って、氷のたっぷり入ったコーラを飲みたい。

 早く日が落ちてくれないものか?


金曜日17時37分

 突然だった。

 不老ふろうがぼくの肩をぐいっとつかんだ。目線で公園の先を示していた。

 顔を上げる。

 本郷ほんごうあずさ高蔵たかくら愛菜まなに向かって、一人の細身の男が歩みよるのが見えた。もう六十歳を過ぎているだろう老紳士だ。ハンチング帽をかぶり、この暑い最中にジャケット姿。右手にはステッキ。左手には茶色い革の書類鞄を提げている。パンパンに膨らんでいて、本がはみ出していた。

御器所ごきそ君、獲物が飛び出したぞ!」

 不老がにやりと歯を見せて、ぼくにささやいた。

 ステッキの男が高蔵愛菜に話しかけていた。ぼくたちのいる場所からは、その内容までは聞こえない。

「あの人を捕まえる?」

 ぼくは不老に訊ねた。不老は静かにかぶりを振った。

「焦りは禁物だ。まだあの男は何もしていない」

「でも……」

 ぼくはいてもたってもいられなくなった。今すぐにダッシュして男を問い詰めたい。

 とそのとき、本郷梓たちに近づくべつの人物が現れた。

 さきほどまで四阿あずまやのベンチに座っていた五十代と思しき女の人だった。花柄の日傘をさし、手には季節外れのサンタクロースが背負っていてもおかしくないような、とても大きなトートバッグを提げている。

 女の人は、本郷梓とステッキの男に何やら紙を渡していた。

 ぼくらが見ている前で、女の人は何度もお辞儀をして、三人から離れた。

 と、次の瞬間だ。その女の人と視線が会ってしまった。慌てて、植え込みの陰に身を隠そうとした。

 けれど、遅かった。

 なんてこった。探偵失格だ。

 日傘の女の人は、ぼくにも軽くお辞儀をして来た。大いに焦りながら、不老のほうを振り返った。

 ……はずだった。

 不老翔太郎がいない!

 慌てふためく。キョロキョロと周囲を見回した。

 視界の隅で、ステッキの男がいつの間にか本郷梓たちから離れ、ちょうど公園の、ぼくのいる公園の反対側から通りに出て行く姿が見えた。

 どうすればいい?

 不老はどこに消えた?

「ちょっといいかしら?」

 いきなり、日傘の女の人の声がすぐ近くから耳に届いた。

「ああ、は、は、はい」

 汗だくになりながら、返事をする。

「この子を見かけたことあるかしら?」

 女の人は、そう言いながら一枚の紙をぼくに差し出した。

 ――この子たちを探しています

 コピーされた手書きのチラシだった。A4サイズの紙に四枚の写真が掲載されていた。

 ステッキの男を探して公園の奥へ眼をやった。けれど、もう男の姿はない。

「みなさんにお渡しして、協力をお願いしてるのよ」

 日傘の女の人に手渡されたA4版の紙に眼を落とした。

 掲載されている写真の内訳は、二匹はチワワ、一匹はミニチュア・ダックスフンド、そしてもう一匹は、猫だった。耳が折れているスコティッシュ・フォールドだろう。写真の下には連絡先として、メールアドレスと携帯電話の番号が掲載されていた。

「みんな迷子で、飼い主さんが一生懸命探してるの。そんなお話を聞いたもんだから、わたしが代表して、迷子のワンちゃんやネコちゃんを探す窓口になってあげてるのよ。最近、この街の治安が悪くなってるのかしらねえ」

 チラシに書かれている日付によると、失踪したのはいずれも七月の上旬から、もっとも最近でつい先週のことだ。

「不老君はどこ?」

 不意に脇から問いかけられた。本郷梓だった。いつの間にか、本郷梓と高蔵愛菜がフラン姫を連れて、戻って来ていた。

「みんなも、この子たちを見かけたら、ぜひ連絡ちょうだいね。それから、身近でワンちゃんネコちゃんがいなくなった、なんてことがあっても、ぜひ知らせて欲しいわ。みんなで協力すれば、きっとすぐに解決できるんだから」

 そう言って、日傘の女の人はフラン姫の頭を撫でた。フラン姫は、尻尾を全力でちぎれそうなほど振り、女の人の手を一心不乱に名残惜しそうになめた。

「不老君は? なんでいないの?」

 女の人が去ると、本郷梓がふたたび訊いた。

「えーと、消えちゃった」

「そんな……友だちの御器所君を置いて、一人でどこかに行っちゃったの? ひどいよ、不老君!」

 本郷梓が悲しそうに言う。

 ぼくは胸の奥のほうがきゅっと締め付けられてしまった。

「だ、大丈夫だよ。ぼくがボケーっとしてたのがいけないんだ。不老には不老の考えがあるんだと思うよ」

 そう言いながらも、本郷梓の言った「友だち」という単語が魚の小骨のように引っかかるのを感じた。確かに以前、不老はぼくのことを「友だち」と呼んだことがあった。けれど、あれは本音だったんだろうか? 推理オタク、論理マシーンの不老翔太郎という男にとって「友だち」なんて、ほんとうは存在しないんじゃないか?

 と、不意にぼくの携帯電話が振動した。電話の着信だった。発信者は「公衆電話」と画面に表示されている。

「もしもし! 不老!」

「ほほう、よく僕だとわかったね、御器所ごきそ君」

 平然とした不老翔太郎の声。

 このタイミングで公衆電話から電話をかけてくる人間なんて、世界七十数億人中、不老翔太郎しかいないことくらい、ぼくにも推理できる。ぼくは、本郷梓と高蔵愛菜にも聞こえるように、スマートフォンをスピーカー・モードにした。

「不老、勝手に行動しないでよ!」

「ほう、僕のスタンドプレイだと? 僕はてっきりきみがついて来ていると思っていたよ。車内で、隣に君の姿がないことに驚いたくらいだ」

「『シャナイ』って? どこの会社?」

「無論、タクシーだ」

「あ、そっちの『車内』か……っていうか、ステッキの人を尾行してるんだね?」

「きみが言うのは、無論、塾で英語を教える非常勤講師のことだね?」

「『無論』って、全っ然ムロンじゃないよ!

「当然、元は高校の英語教師だ」

「いやいや、意味わかんない。全っっっ然、トーゼンじゃないってば!」

「まさか御器所君、彼には、小学校低学年あるいは幼稚園児くらいの孫娘がいることもわからないとは言わせないよ」

「ぐぬぬ……『わからない』って、言わせてよ」

「これは驚きだ」

 電話の向こうで、不老が受話器を抱えたまま大げさに肩をすくめて右眉を上げる表情が、リアルに脳内に映し出された。

「不老、ずいぶんとぼくには見えないものを読み取ったみたいだね」

「見えないのではなく、気づいていないんだよ、御器所君。きみはどこを見ていいのか、いまだにわかっていない。だから大事なことを、すべて見逃してしまうんだ」

「はいはい、どうせぼくは探偵失格ですよ」

「きみは、なかなか袖口そでぐちの重要性に気づいてくれない」

「へ? 袖口?」

「あるいは、親指の爪が示唆しさし得るものであったり、靴紐にぶら下がっているかもしれない重要な事柄についてね」

「ええっと、爪とか靴とかは、今は関係ないよね」

「袖口だよ、御器所君! 僕はその話をしている!」

「あのぉ、まったく話が見えないんだけど」

「全体的な印象を信じてはいけない。僕はいつも、男女を問わず最初に袖口に注目する。あるいは、ズボンの膝だ。きみの言う『ステッキの男』のジャケットの袖口には、白いチョークの粉が付着していた」

「へえ……そうだったっけ? ぼくは視力があんまりよくないんだ」

「袖口にチョークの痕跡があるなら、職業は教師だと容易に推理できる。ところが、今は八月、夏休み期間中だ。今チョークを使用して授業を行なっているのは、学校ではなく、塾の講師以外には考えられない。この夕刻に授業を終えて公園まで来られるという事実、そして彼の年齢を鑑みれば、フルタイムの常勤ではなく、非常勤講師なのは明らかだ」

「どうして英語の先生なの?」

「鞄から水色の表紙の分厚い本がはみ出ているのが、きみの視力でも見えたんじゃないのかい? かなり年季が入っていた。あの色、あの厚みからして、三十年以上もロングセラーの古典的な『クイーン英文法詳説』以外には考えられない。中学校で使用するには、いささか専門的すぎる。が、高校の先生であれば、日常的に使っているはずだ」

「不老だってまだ六年生じゃん」

 ぼくの入れた茶々を無視して、不老翔太郎は続けた。

「現在、書店で販売されている『クイーン英文法詳説』は、五年前に出版された改訂第七版だ。しかし十九年前に出版された第五版以前は、現在よりも表紙の水色が若干薄い。ちょうど、あの男が持っていた本のようにね。つまり、十九年以上も昔から、彼は英語を教える立場にあった。当然の推理の帰結さ」

 得意げな不老翔太郎の推理のご開陳に、だんだんぼくは疲れてきた。

「お孫さんがいるっていうことは、わたしにもわかったよ」

 不意に言ったのは、本郷梓だった。

「ほほう、梓さんは御器所君と違って、観るべきものを観る才能をちゃんと持っているんだね」

 不老はいつも、一言多い。

 本郷梓はぼくのスマート・フォンにぐいっと顔を近づけた。物理的に女子に接近されて、勝手にぼくはドキドキしてしまう。

「あのおじさんのステッキに、キーホルダーがついてるのが見えたよ。『マジカル天使キュアキューティ』のキャラクターだった。ね、愛菜ちゃんも気づいたでしょ?」

「うん、愛菜にもわかったよ! いちばん新しい『キュアキューティ・マックスフラッシュ』だった」

 高蔵愛菜も、スマートフォンに向かって勢い込んで言った。

「素晴らしい! その通りだよ。あの九芒星形をかたどったキーホルダーは、まさに最新作のグッズだ。発売は、愛菜さんもご存知のとおりに今年の六月末。リアルタイムでテレビ放送を観ている孫娘がいるからこそ、手に入れられたストラップさ」

「なるほどねえ……」

 感心して、思わずつぶやいた。でも、なんだか一人だけのけ者にされた気分にもなる。

「でも不老君、今どこにいるの? ステッキの男の人の居場所を突き止めたの?」

 本郷梓が、ぼくのスマートフォンに向かって訊いた。

「いや、残念ながら、尾行を依頼したタクシーの運転手さんは、その方面の能力にけていなかった。ギリギリで撒かれてしまったよ」

「ちょっと待って、不老君!」

 本郷梓が声を上げた。

「あの男の人は、車で移動してたのね? この近所にわざわざ車で来て、愛菜ちゃんに接近したってこと?」

「その通り。実に計画的だ。彼は公園から2ブロック離れたコイン・パーキングにドイツの高級車を停めていたよ。僕がたまたま通りかかったタクシーを捕まえることができたのは僥倖ぎょうこうだったね」

「で、今はどこにいるの?」

 ぼくは尋ねた。

「タクシーが撒かれたのは、この街の北西、緑地公園の道路を挟んで北側だ。男の自宅はほぼ確定できた。四十四階建のタワーマンションだ」

「どうしてわかる?」

 ぼくは質問して、すぐに愚問だと気づいた。案の定、不老は答えた。

「あり得ないものを排除したからさ。いったい何度言えばいいのかな? その後に残ったものが――」

「あー、はいはい。『どんなに信じがたいものであっても真実』なんだよね。わかりますわかります」

「周囲の道路状況、住宅状況から考えて、車はスロープを通って地下駐車場に姿を消した以外には考えられない。残念ながら部屋番号までは突き止められなかったよ」

 不老の言葉を反芻したら、一瞬だけぼくの背中がひやっとした気がした。まだ日差しは強いはずなのに。

 あのステッキの男は、わざわざ車に乗って、誘拐する犬を探し回っている。

 そして不老は、さらにぼくの背筋が冷えることを言ってのけた。

「ところで御器所君、タクシー代の領収書はもらっているから、君の〈組〉で精算してくれたまえ」

「へ?」

「君の財布は、後日に返却する」

「はああっ?」

 慌ててポケットを探る。

 財布は、消えていた。

 やられた!

「ぐぬぬぬ……不老!」

 不老に掏られたのは、これで何度目だろう?

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